弐拾弐
笛の音だけが響いていた。
あたりは朱色の光の海に沈んだように、夕日に鮮やかに染め上げられている。流れていく響きがどこか物悲しいのは、それを聴く者がもはやない為であろうか。城の最奥の間でひとり佇み音を紡ぎ続ける姫のほかに、音を作り出す存在はそこに無かった。
その笛の旋律が、不意にピィッと耳障りな音を残して途切れた。彼女の手を離れた笛が床に落ち、乾いた音をたてる。
「っ、またか……!」
胸元をきつく握り締める。ゆっくりと膝をついても体を支えきれずに、床を掴んだ手が震える。がくんと肘が折れて体ごと床に倒れ込み、笛は静かに壁際まで転がっていった。それを目で追う余裕すらなく、床に額をつけてうずくまり大きく肩を上下させる。胸を押さえ、苦しい息の中必死で己の懐を探った。
やがてゆっくりと身を起こした翡翠は、朱色の海より強く爛々と燃える目で宙を睨み付けた。
「もう、時が来てしまうというのか……? 望みは叶わぬのか。この身果てようとも、叶えてみせると誓ったのに。」
ぎりっと音がなるほど強く歯を食い縛りながら、翡翠の手はまだ胸元をきつく握り締めていた。
ふと、姫は何かに気付いたように顔を上げる。静かすぎるほど静かな空間に慣れたその耳に、微かな音ははっきりと届いた。
「誰が、来た? ああ、あれが舞い戻りよったか。」
久し振りに聞く声だった。
「お待ち下さいませ。この先にお通しする訳には……」
「では、翡翠姫に取り次ぎを願いたい。」
焦って押し止める侍女に、凛とした男の声が告げる。こちらは初めて聞く声。だが、どこか懐かしい。翡翠は唇に笑みを浮かべながら、さり気なく右手を打掛の中に差し入れて構えた。
「よい、通せ。」
侍女が襖を開けた。そこには、見知らぬ男とよく見知った少年が立っていた。少年の表情がどことなく怯えているように見えて、姫はふっと笑った。
「琥珀ではないか。久しいな。して、ここに何をしに参った? 命が惜しくば二度と私の前にその姿を現すな、と言った筈だが?」
琥珀は彼女の強い視線に怯んだが、自らを奮い立たせるようにぐっと拳を握り、言った。
「分かっております。僕は決意して参りました。この命、もはや惜しくはございません。翡翠様の為に使うのであれば。」
「ほう……少しは言うようになったではないか。」
翡翠は不敵に笑い、少年をさらに強く見据える。彼はもう怯むことはなく、しっかりと姫を見つめ返す。
「翡翠様、僕はあなたをお救い差し上げたく参りました。」
一瞬の静寂。そして、翡翠は弾かれたように笑い出した。
「お前が? お前如きが、この私を救うだと?」
笑いながら、握った右手を真っ直ぐに琥珀に向けた。武骨な金属の塊が夕日を反射して光る。それはあの時、彼の姉の命を奪ったもの……琥珀は顔色を変えた。
「思い上がりも甚だしいぞ、琥珀。お前如きに私の何が分かる。」
翡翠の口調は、銃口と同じくらい冷ややかだった。
青ざめ動くことすら出来なくなってしまった琥珀を押しのけるようにして、もう一人の男が前に進み出た。短筒を一瞥したのみで全く怯まず、翡翠姫の正面、銃口の前に腰を下ろした男は穏やかに口を開いた。
「私のことはご存知であろうか、姫。」
「もちろん。お初にお目にかかるが、よく存じ上げておる。御自ら敵陣のこうも奥深くに乗り込まれるとは、あなたは噂通り相当腕の立つお方らしいな、楸殿。」
「賛辞を頂き誠に光栄だ。」
翡翠と楸は笑みを浮かべて正面から向き合った。どちらも底の読めない、仮面のような笑みだった。
「しかし残念ながら剣技をお目にかけるつもりはないのだ。話がしたい。」
楸はそう言うと、出し抜けに腰の刀を鞘ごと抜き、自分と翡翠の間に置いた。琥珀の方を振り返り、無言で促す。二人分の刀を姫の方に軽く押しやった。
「話すだけと申しても信用できぬであろう、預かっていてもらって構わん。これで丸腰だ。懐刀も、あなたのような短筒も持っていない。」
軽口でもたたくような調子で言う楸に、翡翠は眉を顰めた。
「……何を企んでおる?」
「何も。先程申した通り、腹を割って話したいだけだ。」
翡翠は探るような目で楸の顔をじっと見据えるが、楸は眉一つ動かさない。やがて、翡翠は渋々短筒を下ろすと二人から見える所に置き、改めて楸の前に腰を据えた。
「まあ良い、今はそちらの思惑に乗ってやるとしよう。話とは何だ。」
「単刀直入に言わせていただこう。翡翠姫、あなたは何故、我が国に攻め込まれた?」
翡翠は、呆気にとられて楸を見つめた。
「……それはまた、何の冗談だ。」
「冗談などとんでもない。確かに切り出し方がやや唐突すぎたかも知れぬが、どうしてもそれが知りたくてここまで参った。どうも私の頭の回転が姫より鈍いようでな、思い当たらぬのだ。」
相変わらずにこにこと人の良い笑顔のまま、楸は心底楽しそうに言った。
「あなたの国と我が国とは盟友であった。我が国を越えて攻め上るつもりなら通り抜けてもらって構わぬ故、攻撃の必要はない。攻め込んでまで我が物にしたいと思われるほどの財も領地もない。そんな益のない戦を、あなたがするとは思えないのだ。攻め込む相手に我が国を選ばれた理由がおありだろう?」
「……。」
翡翠は答えなかった。楸も口を閉ざして待つ。その場は暫し静寂に包まれた。
「……私は、」
やがて、翡翠は静寂に耐え切れずに口火を切った。
「私は、父親に蔑まれて生きてきた。いくら娘がいても、世継ぎがいなくては意味がない、男子であれば良かったのに、と。私にも、娘一人しか産めなかった母上にも、世継ぎをなせなかった妾たちにも、女など役立たずだと口癖のように言っていた。私は役立たずなどではない! 父が落とすことの出来なかった国を手に入れることが出来れば、私は父より優れているということ……私は、私を蔑み続けたあの男を見返すことが出来る。」
熱に浮かされたような口調で翡翠は叫んだ。
「あの男は隣国を攻め落としたくも叶わず、己への脅威とならぬように仕方なく和平を結んだのだ……娘の輿入れを贄として。他にも盟友国はいくつもあるが、すべて婚姻という名目の人質を交換し見張り合う間柄の国だ。裏切りも人質の始末も珍しくない。あの男や、この家の歴代当主の男たちにとって、娘や世継ぎ以外の息子にはその程度の価値しかないという事だ。」
「父親への恨み、か。」
楸が静かに呟く。翡翠がそれを鋭く見据えた。
「楸殿、あなたもやはりその程度のことは乱世では当たり前と思われるか。私の恨みは不当だと。」
「そうは申さぬ。確かにこの乱世、悲しきかな人質は当然の如く行われておる。嫡子ではない子供が軽んぜられることもまた事実。かく申す私も次男であったのだからな。」
楸は言った。自分が軽んぜられていたと言っているようなものだが、その口調に自嘲の響きは全くない。ただ一般論として述べているに過ぎないようだった。
「しかし姫、あなたの輿入れが人質であるというのは誤りだ。」
「……どういう事だ?」