弐拾壱
長かった一日が終わった。そう思うと、朱雀の口からは自然と溜息がこぼれ落ちた。
その日の後片付けを終え、日頃の家事も何とか全てこなした。いつになく働いて疲れきって、もう瞼が重い。よく手伝ってくれた秋沙は、泣く暇もなくすとんと眠ってしまったようだ。朱雀も床に就こうと身支度を済ませ、最後に何気なく居間を覗き込んで……思わず顔をしかめた。
(うわっ、お酒くさい。)
卓袱台の前でうずくまる大きな背中が目に入った。夕餉の時も片付けの間もその後も、ずっとその場に座り込んだまま動いていなかったらしい。ただ、いつの間に持ち出したのか、酒瓶がその傍らに転がっていた。湯呑を握ったまま卓袱台に寄りかかり、こっくりこっくりと舟を漕いでいる。
放っておくわけにもいかない。朱雀は歩み寄り、その肩を軽く叩いた。
「玄武兄さん。玄武兄さん、起きて。そんな所で寝たら風邪引くわ。」
「あ? ああ……寝てないよ、起きてるよ……。」
寝言とも呻き声ともつかぬ応えがある。朱雀は呆れて言った。
「やだ、こんな酷く酔っ払って。いつも全然お酒飲まないのに。大丈夫?」
普段の玄武は酒を飲まない。祭りや祝い事の時などの特別な時に少し口をつけるくらいだ。しかし今、転がされている酒瓶は空になっていた。朱雀の記憶が確かなら中身は半分以上は残っていた筈だから、かなりの量を一度に飲んでしまったようだ。
もっとも、その気持ちも分からないでもなかった。続けざまに葬儀をふたつ終え、さすがの玄武も精神をすり減らしていたのだろう。
「まったく。絶対明日辛いわよ、これ。」
朱雀はぶつぶつ言いながら台所に走り、水を一杯汲んで戻る。玄武はまだ朦朧として、頭を持ち上げられずに卓袱台に突っ伏したまま唸っている。唸り声は、なんだか泣いているようにも聞こえた。
「兄さん……。」
水を一旦置いて揺り起こそうとした手が、躊躇いに宙を泳ぐ。と、彼の口から不意に言葉が漏れた。
「……のは……木葉ぁ……」
呼んでいるのか。それとも、呼ばれているのだろうか。
そんなことが脳裏をよぎり、朱雀は怖くなって強く玄武の肩を強く揺さぶった。
「に、兄さんっ! 起きて! 玄武兄さんってば!」
「……あ? 何だ? いかん寝ちまってたな。」
玄武は急に明瞭な発音で言いながらがばっと身を起こした。少々ねぼけ眼ではあるが、先程の状態とは比べ物にならないほどしっかりしている。彼は軽く伸びをして朱雀から受け取った水を一気に飲み干し、ふーっと長く息を吐いた。
「すまん、朱雀。心配させたな。」
「いいえ……。」
いつになく弱々しい声に玄武が目を上げると、朱雀の目尻で何かが光っていた。
「どうした。泣いてたのか?」
朱雀は慌てて袖で目元を拭った。
「っ! 違うの、何でもないの……ちょっと、怖かっただけ。」
「怖い?」
「玄武兄さんまで、遠くへ行っちゃいそうな気がして。」
玄武は絶句して、悪夢に怯える子供のように涙目になっている朱雀を見つめていた。
「兄さんが、寝言で木葉姉さんの名前を呼んでいたから、昔のことを思いだしているのかなって……。玄武兄さんにはわたしの知らない『昔』があるんだと思ったら、遠い存在みたいに思えちゃった。」
「……そうか。」
玄武は何か考え込むように俯く。朱雀は独り言のような調子で続けた。
「今まで、考えた事もなかったわ。わたしが知っているのはたった七年で、玄武兄さんにはそれよりずっと長い時間を一緒に過ごしてきた人がたくさんいるってこと……。玄武兄さんの時間の大半をわたしは知らないのね。」
玄武は黙っていた。やがて大きく一つ深呼吸をして、天井を仰ぎ、彼はおもむろに口を開いた。
「木葉がこの家に来たのはな、今から十二年前だ。自分の年や名すら忘れて彷徨っていたあいつと山中で行き会った時のこと、今でも昨日のことのように覚えている。野の獣のような怯えた目をして……たぶん七つかそこら、十にはなっていなかっただろう。俺は十四だったか十五だったか……ずいぶんと昔の話だな。だが、不思議とはっきり覚えているんだ。」
どこか遠くを見ているような目に、どこか虚ろな口調。朱雀は心配になって口を挿んだ。
「兄さん、今日はもう休んだ方がいいわ。」
「いや、話したいんだ。少しでいい、聞いていてくれないか、頼む。」
玄武の強い口調に、朱雀はただ頷くしかなかった。
「ずっとこの家で一緒に暮らしてきた……本当の家族と同じくらい長い間、一緒にいたんだ。木葉も、秧鶏も。急にこんなことになったって、とてもじゃないが……まだ信じられねえよ。今にも、何事もなかったように、帰ってくるんじゃねえかって……」
声が震え、かすれ、玄武は顔を覆った。朱雀は俯いて、つられてこぼれそうになる涙をこらえた。
「そんなの、わたしたちだって同じよ。わたしたちも、秧鶏兄さんと木葉姉さんのこと本当の兄弟みたいに思ってる。ずっと一緒に暮らしてきたんだもの。青龍は家族と言えるものはわたしたちしか知らない。秋沙ちゃんなんて尚更……たった一人の血の繋がった兄だったんだもの。辛くない筈ないのに。」
朱雀は気丈に振る舞う妹を想った。強がる笑顔が痛々しい。彼女は自分が泣き暮れることを決して許そうとしなかった。
「悲しいのはみんな一緒なんだから。兄さんも、元気出してよ。」
朱雀は明るく言い、笑顔を作ってみせる。しかしその声は玄武の耳に届いていなかった。
「俺は……俺は一体どれだけ大切な人を見送らなければならないんだ? こんな思いをするのは、もうたくさんだ。」
低い呟くような声に、朱雀はびくりとして玄武を見た。続く言葉が恐ろしいものだと、何故か勘付いた。
「もしまたこんな思いをするなら、いっそ……いっそ俺もその時共にいってしまえば……」
「莫迦なこと言わないで!」
気が付くと朱雀は立ち上がって力の限り叫んでいた。冷水を浴びせられたように、玄武ははっと顔を上げた。
「家族の死を悲しいと思うなら、どうして自分の死のことなんか考えられるの? わたしたちにまた同じ思いをさせるつもり? 玄武兄さんはわたしたちの大切な家族なの! わたしのたった一人の兄さんなのよ!」
朱雀の目から、しずくがぼろぼろと落ちる。涙にのどを詰まらせながら彼女は必死で叫んだ。
「わたしには、ここのみんな以外に大切なものなんてない。兄さん以上に大切なものは何もないの。」
「すまない。本当に、言ってはならないことを言った。」
「もう……もう二度とこんなこと言わないで。約束して。お願い。」
「分かった。絶対に、かわいい妹たちを悲しませるようなことはしない。」
玄武は何度も頷きながら、落ち着かせようと朱雀の背を撫でた。嗚咽が収まったころ、朱雀はぽつりと呟いた。
「妹、か。」
「どうした?」
朱雀は何でもないと黙って頭を振る。玄武は眉を顰めて聞き返した。
「妹か……って、何か嫌な事でもあったか?」
「ううん、そうじゃないの。」
「じゃあ、何だ?」
玄武が促す。朱雀はしばらく躊躇って、ゆっくりと口を開いた。
「やっぱりわたしは、玄武兄さんにとってただの妹なのよね。そんなこと分かってたわ。でも……
ねえ、以前わたしの望みを聞いてくれたことありましたよね。わたし、どこにも行きたくない。ここにいたいの。この家のみんなと、玄武兄さんと、ずっと一緒にいちゃ駄目?」
「朱雀、お前……。」
朱雀の真剣な口調から、何かを感じ取ったのだろう。玄武はじっと彼女を見つめた。
「わたし、兄さんが好きなの。兄さんはとても優しいけど、わたしをただの妹として見てるだけ……いいえ、わたしを通して実の妹さんを見て、大切にしているだけ。私の想いとは違うって、分かってるわ。でも、わたしは、ずっとずっと玄武兄さんだけを見てきたの……。」
朱雀はなんだか苦しくなって胸を押さえた。思いの丈をやっと言えた。なのに何故か、痛みだけがこの胸に残っている。目頭が熱い。
そんな彼女の体はぐいっと引き寄せられ、あたたかい何かにすっぽりと包みこまれた。
「お前は、ばかだな。」
「……え?」
優しい囁き声に顔を上げると、すぐ目の前で玄武が微笑んでいた。
「誰も、俺の唯一の妹のかわりになれるわけがないじゃないか。確かにお前の名は妹に似ていると思って付けた。だが実際、ちっとも似てやしねえ。お前を見て妹の面影を探すことなんて出来ねえよ。お前は、お前としてしか見えねえ。俺は……お前のことが大切だ。」
「玄武兄さん……。」
朱雀の目から、またしずくが落ち始めた。けれどさっきの涙とはきっと意味が違う。
玄武は少女を胸に抱き寄せ、頭を優しく撫でた。
「ごめんな。そんな風に感じてたこと、ずっと気付いてやれなくて。ずっと言ってやれなくて。ごめんな。もう泣くな。な?」
謝らないで、大丈夫だから……答えようとしたけれど、その度に涙があふれて、朱雀は玄武の腕の中でただただ何度も頷いていた。