弐
「玄武兄さん? どうしたの、何か考え込んじゃって。」
その朱雀に顔を覗き込まれて、物思いにふけっていた玄武ははっと我に返った。
「あ、ああ。いや、なんでもない。」
七年なんてあっと言う間だ。寒さに震える子供だった朱雀は立派に娘らしくなった。あの時みっつにもなっていなかった青龍という男の子も、あと数年もすれば秧鶏と似た利発な少年に育つだろう。その秧鶏の実の妹、秋沙が、朱雀を手伝ってすばしっこく駆け回っている。あの後、風馬という朱雀と同い年の少年が家族に加わったり、木葉は城で姫の侍女に、秧鶏は殿の家臣になってそれぞれ家を出たりと様々な変化はあった。
(俺も年取ったかな。)
元気な子供達を見て苦笑する事も多くなった。と言っても彼もまだ三十前なのだが。
「ねえ玄武兄さん。秧鶏にいさま、まだ帰って来ないの?」
秋沙が、少年達に連れられてきた彼に尋ねる。玄武は不安そうな‘妹’に優しく笑いかけた。
「そうだな、また遅くなるんだろ。」
秋沙の頭をぽんぽんと優しく撫でる。いつも気丈な秋沙だが、兄の事になると違うようだ。
「心配すんなって。秋沙、兄様とは、ちゃんと約束したんだろう? 秧鶏は約束破るような奴じゃないさ。」
そう言ってやると、ちょっとだけ笑顔を見せて頷いた。その時、
「こんばんはーっ、玄武兄さーん!」
「にいさまだ!」
大好きな兄の声が聞こえた瞬間、秋沙の顔がぱっと輝く。そのまま一目散に玄関へ駆けて行った。玄武もその後から、ゆっくりと歩いて秧鶏を出迎える。他の子供達も、以前は一つ屋根の下で暮らしていた‘兄’の久々の帰宅に何となくそわそわし始める。
「秧鶏兄さん? お夕飯食べてくよね。」
「たぶんね。ほら青龍、あんたも手伝いなさいよ。」
この家で一番年下の少年は、姉に言われてしぶしぶ食卓を整える。朱雀が何もしてない風馬もついでに怒鳴りつけて重い腰を上げさせた時、玄関から三人が揃って戻って来た。秋沙は嬉しそうに兄の腕にしがみついている。
「今度は長く休めるのか?」
「はい、とりあえず。近頃ほとんど大きな事は起こっていませんから。」
玄武の問いに、秧鶏は穏やかに微笑んで答えた。その笑顔に少年の頃のような無邪気さはあまり感じられない。落ち着いて、大人になった証だろうか。
「そうだな、これがずっと続けばいいんだが。そうすれば、楸も……」
その言葉の最後はほとんど独り言のように、玄武の口の中に消えた。秧鶏は不思議そうな顔で聞き返す。
「え? 兄さん、今なんて?」
「いや、何でもねえよ。それより、飯食って行くだろ? おい朱雀。」
玄武に言われるより前に、朱雀はもう立ち上がっていた。襖を開けながら振り返り、にっこりと言う。
「分かってるわ。秧鶏兄さんの分、すぐ用意しますから。」
「悪いね、朱雀ちゃん。」
朱雀の後ろ姿が、束ねた短い黒髪を揺らしながら台所へ消える。秧鶏は玄武に軽く頭を下げた。
「玄武兄さん、いつもすみません。」
「なーに言ってんだ。これに関しちゃ礼も詫びも無しだって前にも言ったろ。家族なんだから。」
玄武は明るく笑って秧鶏の頭を軽く叩く。秧鶏は少し照れたようにもう一度ぺこりと頭を下げる。
秧鶏と秋沙の兄妹以外、直接の血縁はない六人。しかし食卓を囲んだ彼らは紛れもなく家族だった。もう一人、秧鶏より一つ年下の少女も含めて。
「そういえば玄武兄さん、木葉姉さん、最近帰ってこないよね。」
ほんの赤ン坊の頃からこの家で育ち、朱雀にくっついて回るのと同じくらい木葉にも懐いていた青龍がちょっと寂しそうに言った。彼にとって木葉は、年の離れた姉というよりも母に近い存在なのだ。
「そうだなあ。きっと忙しいんだろう。姫様のお気に入りの側仕えだそうじゃないか。」
玄武が彼をなだめるように言う。と、妹と喋っていた秧鶏がそれに口を挟んだ。
「あ、木葉なら、近いうちにお休みを頂けるって言ってましたよ。」
「本当!? 久しぶりだなあ。」
青龍が目を輝かせる。朱雀も嬉しそうに応じた。
「この前帰ってきたの、お正月だったもんね。」
もうすぐ季節は夏に移ろうとしている。秧鶏は笑顔で言った。
「なんでも『この春の新入りがやっと使い物になるようになった』って。まあ私も同じですけどね。」
「お城かあ。」
風馬が小さく呟く。彼が武士に、というより秧鶏に憧れているのを知っている玄武は微笑んだ。
「風馬、お前もお城に上がりたいか? 頑張ればお前も秧鶏と同じようになれるぞ。」
風馬はちょっと玄武を、そして秧鶏を見つめ、唇を噛んで首を横に振った。
「俺、嫌だ。俺は戦は大嫌いだから。でも、強くなりたいんだ。秧鶏兄さんみたいに。」
真剣な口調。それに秋沙が甘えた声で言った。
「風馬はね、強くなって秋沙を守ってくれるんだって。」
その言葉に風馬は顔を赤くする。いつも一緒にいる二人は、兄妹のようなものと言うよりまだ子供ながら微笑ましい恋人同士のようだ。秋沙の実の兄である秧鶏はそんな様子を見て苦笑するしかなかった。玄武はそんな秧鶏の背中を叩いてにやっと笑う。
「そんな顔すんじゃねえよ、秧鶏。お前は本当に、妹の事になると心配性だな。」
「にいさま、大丈夫よ? 秋沙が一番好きなのはにいさまだから!」
そういう意味ではないと思いながらも、秋沙に笑顔で言われると秧鶏は頷くしかない。とにかくこの幼い妹が可愛くて仕方ないのだ。しかし、秋沙の言葉には続きがあった。
「それに今はにいさまが一番好きなのも秋沙だけど、にいさまにはこ……」
ませた少女が口にしようとした言葉を察した瞬間、秧鶏は素早く妹の口を掌で塞いだ。押さえつけられた秋沙はもがいて兄の腕から逃げ出すと、不満げに叫んだ。
「なにするのよ! にいさまの好きな人くらい、知ってるんだからね!」
「秋沙!」
「こら、やめろ。飯だぞ。」
子どものようにふざけ合う兄妹。笑いながらたしなめる兄。家の中の全員が笑顔を見せる平和な家族。この幸せが長くは続かないなんて、この時一体誰が思っていただろうか。