拾七
「私は楸と申す者だが、玄武殿はおられるか?」
戸口の外にいた帯刀の若者は、穏やかな低い声で名乗った。
「は、はい……。」
朱雀はやっと一言答えたものの、驚きのあまりその姿勢で立ち竦んでいた。
楸の名は、彼女も知っている。それはこの国に住む者なら当然知っている名なのだから。
「朱雀姉ちゃん!」
放心状態になってしまった朱雀を、慌てて飛び出した青龍が後ろから支えて数歩下がらせた。楸の真ん前で、まるで立ち塞がるような格好で動けなくなってしまっていたことに朱雀はようやく気付き、深く頭を下げた。
「も……申し訳ございません! 失礼を致しました。兄は在宅でございます。」
「よい、気にするな。驚かせたな。」
縮こまって顔を上げようとしない朱雀に微笑みかけてから、楸は居間に視線を向けた。じっと自分を見る目に、立ち尽くしていた玄武は慌てて家臣の礼を取った。
「楸……様、この度は私のような者の元へ、わざわざ……」
「すまないが玄武、堅苦しい口上を聞いている暇は無いのだ。非常時ゆえ、礼は問わぬ。いつもどおりに致せ。」
穏やかに告げようとしているその言葉の中に、抑えきれぬ何かがにじみ出ていることに玄武は気付いた。顔を上げると、楸が微かに頷く。玄武はそれに軽く頭を下げ、立ち上がって子供たちに言った。
「朱雀、青龍。すまんがちょっと風馬たちと一緒にいてくれ。」
「う、うん。」
青龍は頷くと、朱雀を半ば引きずるように勝手口から表へ出ていった。楸が彼らを見送りつつ、ふっと微笑んだ。
「今の子が青龍……。賢そうな、いい目をしている。優しそうな子に育ったな。」
「ああ。少々気が優しすぎるきらいもあるが、まだ子供だからな。だが、ただの泣き虫じゃない。あの子は、人の痛みのために泣ける子だ。」
玄武は三和土に下りながら、楸の言葉に頷きつつ目を細めて言った。楸の目が寂しそうに光る。
「ところで楸、一体何事なんだ? 非常時、と言っていたが。」
楸は少し言い渋るように俯き、ぽつりと言った。
「秋沙はいるか。」
「あの子らと一緒にいるが。……まさか、本当に秧鶏の身に何か?」
玄武が思わず言うと、楸は驚きに目を見開いた。
「どういうことだ。」
「さっき、秋沙が急に泣き出したんだ。何があった訳でもない。ただただ酷く泣きじゃくって、「にいさまが」と繰り返していた。」
楸はしばし呆気に取られたように玄武を見つめ、やがて俯いて歯を食いしばった。
「そう、か……。あの時と同じだ。秋沙は姉に似て感受性が強いのかも知れないな。」
「おい、一人で納得してんじゃねえ。あの時って何のことだ。何があったって言うんだよ。」
玄武は低く唸る。そして弾かれたように楸の胸倉を掴み、食ってかかった。
「一体何があったんだ!? 秧鶏に、俺たちの弟に何があったんだよ!」
「あいつが……秧鶏が、死んだ。」
楸の言葉は微かで掠れていたにもかかわらず、いやに重く響いた。
「うそ……だろ?」
玄武は雷に打たれたような衝撃に、楸の着物を握ったまま立ち竦んだ。やっと緩めた右手は震えていた。彼は手をだらんと下ろし、一歩あとずさった。
「悪趣味な冗談はよせ。そんな事があってたまるか。」
「俺自身、嘘であれば良いのにと願っているさ。しかし事実だ。つい先刻、敵襲を受けた紫苑を守るため応戦し、斬られた。木葉の腕の中で、俺の目の前で……。」
「そんな……。」
二人ともしばらくうつむいたまま微動だにせず、何も言わなかった。子供たちの声も聞こえない。ただ、庭を走り抜ける風の音だけがないていた。
「こんな事、何の救いにもならないが……あいつは、穏やかに笑って逝ったよ。」
その声に玄武が楸を見ると、彼は不自然に顔を上げて梁を凝視していた。その目尻に何かが光る。
「あいつは最期に俺を呼んだんだ、兄上と。もっと早く、そう呼ばせてやりたかった。」
玄武は目を見張った。
「あいつ、知っていたのか。いつから……。」
「さあな。いつ、どのようにして知ったものか、そんな素振りはかけらも見せなかった。」
「俺も気付かなかった。あいつめ、一人で抱え込みやがって。」
いつのまにか、玄武の拳はきつく握られていた。あの日の秧鶏の笑顔が脳裏に浮かぶ。いつも通り穏やかでのほほんとした、しかしどこか寂しそうな陰が見えた笑顔。思えばここ数年、そんな笑顔を見せることが多かった。単に大人びたものだと思っていたが。
「なあ、玄武……もう、うんざりだとは思わないか。」
楸が吐き捨てるように呟く。その目に宿っている色は、怒りだった。
「それで、ここに来たのか。」
「ああ、そうだ。秧鶏にあんな思いをさせた『秘密』をこれ以上続けるのは、俺はごめんだ。父上たちが包み隠して、無かったことにして……それで守れるものなど、結局何もなかった。もちろん父上たちが悪いとは言わないさ、その時はそれが最上だったのだろう。だが、今やその必要はない。」
声を荒らげることもなく、ただ静かな怒りが宿る楸の瞳。いつも怒りを表に出す玄武と比べいつも冷静で、彼をたしなめることが多かった楸には珍しい。人の怒りというものを見ていると、自分は反対にすっと冷静になっていくことに玄武は気付いた。怒りに任せ感情的になる玄武を見る楸もこんな気持ちだったのだろうか。思わず、ふっと笑った。
「何だ。」
「いや、そう怒るお前ってのは、らしくねえなと思ってさ。」
「そうかも知れんな。怒りで我を忘れそうだ。いや、我を忘れて全て吐き出した方がいっそ楽かも知れん。だが、お前にならともかく、城でそういう姿を見せるわけにもいかない。」
「難儀なこったな。」
玄武が冗談のように言って肩を竦めると、楸も少しだけ笑った。肩から力が抜けていく。楸は大きく一つ息をつくと、玄武をまっすぐ見て言った。
「紫苑と秋沙に、全てを話そうと思う。共に来てくれるか、兄弟の一人として。」
「もちろん。」
玄武は頷き、ふと気付いて付け加えた。
「だが、青龍はどうする。あの子の立場上、伝えるとしても秋沙とはわけが違うだろ。まだいいんじゃねえか。」
「分かったよ。しつこい奴だな、お前も。青龍に伝える時期については、お前に任せよう。」
楸の言葉にほっとしながら、玄武は立ち上がり子供たちの元へと向かった。