拾六
「本っ当にもう、参っちゃうわねえ。」
朱雀は片付けものを終え、腰を伸ばしながら冗談のような軽い口調で呟いた。
「いつになったら元通りになるのかしら。辛気くさいったらありゃしない。」
誰かに対して言ったのではない、独り言だ。近頃の朱雀は独り言や鼻歌が増え、また彼女もそれを自覚はしていた。辺りが陰気に静まり返っていると、音を立てずにはおれないような気持ちになるのだ。決して大声ではないのだが、彼女の声は家中によく通った。
そうしていつものように明るい唄を小声で口ずさみつつ三和土から上がる。次の用をする前に一休み……と腰を下ろしかけた時、突然背後から腕を引っ張られて朱雀は尻餅をついた。
「痛っ! ……って、風馬。何よ急に。引っ張らないでよ、危ないじゃない。」
風馬は相変わらず黙ったまま、ただぐいぐいと朱雀を立たせようとするように引っ張る。力を緩めたかと思えば何処かを指差し、また腕を上向きに引っ張る。そのすごい力に閉口しながら振り払っても何度も腕を掴んでくる。あまりのしつこさに堪り兼ね、朱雀は怒鳴った。
「やめなさい! いい加減にしてよ! まったく、何なのよ一体!」
「早く来てくれ! 俺たちじゃ、どうしたらいいか分からないんだ!」
突然の大声に、朱雀はぽかんとして風馬の顔を見つめた。
「喋った……。久し振りにあんたの声聞いたわ。」
風馬自身も驚いたように口を開けて固まっていたが、一瞬で我に返ると再び朱雀の腕を掴んだ。今度は無理に引っ張らず、必死の形相で訴える。
「そんなこと、今はどうだっていいんだ。いいから早く! 俺たちだけじゃ、俺と青龍じゃ何もできなくて……。」
「とにかく落ち着きなさい。そう言われても、わたしには何が起こったか全然わからないわ。落ち着いて、まず何があったのか説明して頂戴。」
朱雀は風馬の肩に手を置き深呼吸させる。風馬は大きく息をついて、言葉を選びながらゆっくり話し始めた。
「俺たちにも、何が起きたのか分からないくらい突然だったんだ。秋沙が……秋沙が、急に泣き出して。」
「秋沙ちゃんが? 今まで涙を見せたことなんて、殆どなかったのに。」
朱雀はびっくりして、一休みと思っていたことなどすっかり忘れて風馬の案内する方へと駆け出した。勝手口から外へ出ると、洗濯籠を傍らに放り出したまましゃがみ込んでいる秋沙と、おろおろとその背中をさする青龍の姿があった。秋沙は肩を震わせ、ひっきりなしにしゃくり上げている。朱雀は自分の目を疑った。
「秋沙ちゃん、どうしたの?」
その声にも秋沙は顔を上げず泣き続ける。代わりに青龍が朱雀の顔を見、ほっとしたように頬を緩ませた。
「あ、朱雀姉ちゃん。良かった。」
朱雀は困って思わず足を止めた。今までにないことで、彼女もどうしたらいいか分からなかったのだ。朱雀は戸惑いつつもゆっくりと秋沙の傍らに腰を落とし、その顔を覗き込んだ。
「秋沙ちゃん、一体何があったの? ゆっくりでいいわ。無理しなくていいから、話してもらえる?」
先程から反応がなかったが聞こえてはいるようで、秋沙は微かに身じろぎした。口を動かしているのは見えるが、嗚咽で喉が詰まり声が出てこない。急かしてはいけない、と思いながらも、朱雀は頭を撫でて促す。
「なあに?」
と、秋沙はぱっと顔を上げた。涙でくしゃくしゃになった目で朱雀を見つめ、掠れて震える声で呟いた。
「にいさま……にいさまが……!」
秋沙の言葉に、三人は固まった。彼女の声には、ただ事ではない緊迫した響きがあったのだ。本当に報せがあったわけでもなく、何が起こったともわからない。ただ何か悪いことが起こった、そんな予感が一瞬にして子供たちの胸に広がり、不安で押しつぶされそうな思いがした。
「どうした?」
玄武まで顔を出し、ただならぬ様子に目を見張る。
「何かあったのか、風馬の声が……秋沙?」
「玄武兄さん、どうしよう。あのね、秋沙が急に泣き出したんだ。俺たちどうしたらいいか分からなくて。」
「泣きながら、にいさまが……って言うの。ねえ玄武兄さん、まさか秧鶏兄さんに何かあったんじゃ……。」
説明しようとする風馬と朱雀を交互に見、子供たち四人を見渡して、玄武は真剣な表情で黙り込んだ。誰も何も言おうとしない。ただすすり泣く秋沙の声だけが少し大きくなった。
「……泣くな、秋沙。まだ何かあったと決まった訳じゃねえんだ。何かあったならすぐに報せがある筈だ、とにかくそれを待とう。な?」
玄武が低い声で言い、秋沙は弱々しく頷いた。玄武の言葉はぶっきらぼうだが、秋沙を励まそうとするように口調はあたたかい。しかし決して「大丈夫だ」と口にしようとしなかったことに、朱雀は気付いていた。きっと秋沙も気付いているのだろう、表情は硬いままだった。
朱雀はぽんと秋沙の肩を優しく叩くと、笑顔で明るく言った。
「お茶、淹れるわ。ちょっと早いけどみんなでおやつ食べましょ。秋沙ちゃん、お顔洗っておいで。」
「……うん。」
「俺、ついて行く。大丈夫か?」
風馬が秋沙の肩を抱くように立たせ、井戸の方へと彼女を歩かせるのを見送った。朱雀が洗濯籠を拾い上げ、青龍も手伝って物干しを終える。空の籠を抱えて連れ立って屋内へ戻ってからも、三人はいつになく口数が少なかった。朱雀が茶の支度をしに台所へと姿を消す。その後ろ姿をぼんやり見送る玄武の仏頂面を、隣にちょこんと座った青龍が心配そうに見ていた。
やがて玄武は不意に肩の力を抜き、長く息を吐いた。
「……やめた。考えても分からねえことをぐじぐじ考えるのは性に合わねえ。」
そんな玄武の様子に、青龍の顔もぱっと明るくなる。玄武は笑って、青龍の頭をわしゃわしゃと撫でた。
その時である。
「ごめんください。」
表から聞こえた声に、玄武は信じられないというようにそちらを凝視した。
「はーい、ちょっとお待ちくださいな。どちら様でしょう。」
朱雀が応じようと戸口に駆け寄る姿が見えた。がらりと戸を開ける音。そこには、帯刀した若い男がひとり立っていた。
「私は楸と申す者だが、玄武殿はおられるか?」