拾四
襖の向こう、そう遠くない場所から聞こえた悲鳴に、紫苑は顔を上げた。
「今のは……志乃? 木葉? 何事です?」
侍女たちの名を呼んでみるが、返事はない。その代わり、ばたばたと乱暴な足音が近付いてくる。姫が眉をしかめて立ち上がりかけたその時、彼女の目の前に見慣れぬ少年が飛び込んできた。
「なっ……!?」
驚きながらも何者かと問おうとした彼女を遮って、少年は声を張り上げる。
「紫苑姫! お命頂戴致す!」
少年の手に握られていたのは抜き身の刀。その幼さの残る顔には刀など似合わぬようにも見えるが、頭上に振りあげた手つきや体勢には危なげがない。鋭い殺気でぴんと張り詰めた空気は、しかしどこか冷たく淡々としていた。少なくとも、情熱や感傷のような個人的なものは感じられない。ただ虚ろに光る刀が振り下ろされる。
とはいえ、為すすべもなく刃に掛かる紫苑ではない。
(あっさりこの命くれてやるほど、私は大人しくもなければ人生捨ててもいないわよ!)
彼女は咄嗟に帯を探り、短刀を抜き放った。
しかしそれより早く、姫の身に迫る刀を弾いたものがあった。
「秧鶏!」
「紫苑様、ご無事でございますか!?」
少年は乱入者に驚き目を見開くが、すぐにその狙いを秧鶏へと変える。紫苑は我に返り叫んだ。
「私は無事です! 今、すぐに人を……」
「姫様はお逃げください!」
刀を受け止め、押し返しながら、秧鶏は背後へ叫んだ。
「ここは一先ず私だけで押し止められます。ですからお早く!」
秧鶏はただ少年の刀を受け流し、一見苦戦しているように思えた。しかし背後に庇う紫苑のために動きが制限されているだけではない、あえて斬り込まないのだ。少年もそれに気付き歯を食い縛る。双方さっと引き一旦間合いをとると、秧鶏は少年を睨み付けたまま低い声で唸った。
「名乗れ。何者だ。姫様の御前で名乗りもせず、いきなりに斬りかかるとはあまりに無礼ではないか。」
「名乗るほどの名など持ち合わせておらぬ故。……はっ!」
少年と秧鶏の刀は再び激しく火花を散らす。話を聞くことは諦めたのか、秧鶏の刀に勢いが増す。体格にも差が明らかな二人の形勢は次第に翻り、少年が押され始めた。
「紫苑様!」
やっと木葉が飛び込んできて紫苑に駆け寄る。秧鶏は彼女に叫んだ。
「木葉、紫苑様を奥へ!」
「はい!」
木葉は答え、紫苑を促し立ち上がらせようとする。
その時だった。
「《胡蝶》。」
何処かでリン、と鈴が鳴った。
「木葉?」
何かにハッとしたように木葉が動きを止めた。紫苑は訝しげに声をかけるが、彼女の声は侍女の耳に届かない。
「聞こえている?《胡蝶》」
耳慣れぬその名を呼んだのは、秧鶏と対峙する少年だった。少年はにやりと笑うと、胡蝶、と呼んだ甘えるようなものとはまったく違う、冷ややかな口調で告げた。
「その男を殺せ。」
「……はい、琥珀様。」
「木葉!?」
驚いて腕を掴んだ紫苑の手を、木葉は強く振り払う。これは、普段の彼女であれば決して考えられないことだった。紫苑も呆然と、何か恐怖心すら感じているような面持ちで侍女を見つめている。木葉は虚ろな表情のまま、落ちていた紫苑の短刀を拾い上げて秧鶏に突きかかった。
「くっ……!」
迷っている暇は無かった。秧鶏は咄嗟に、鍔迫り合いへと持ち込んで秧鶏の動きを止めていた少年の、腹を蹴りとばした。いくら彼でも二人を同時に、しかも片方を傷付けぬように攻撃のみ受け止めるのは至難の技だったからだ。そうして一瞬の間を稼いで短刀の突きを躱し、己の刀を手放して、再び突進してきた木葉の手首を捕らえた。短刀を払い落とし、彼女の肩を強く揺さぶる。
「しっかりしろ、木葉!」
耳元で怒鳴られ、木葉は冷水を浴びせられたようにびくっと身を震わせる。ゆっくりと秧鶏の顔に視線をあげた目は虚ろではない、いつもの木葉に戻っていた。
「あ……秧鶏さん、私、何を……」
「その話は後だ! すぐに紫苑様を……!」
秧鶏はそこで言葉を切り、木葉をなかば突き飛ばすようにして刀を拾い、敵に向き直る。だが、ほんの僅か間に合わなかった。
銀の光が閃く。
視界が赤く染まったように感じた。
「きゃあっ」
刀が見えた瞬間、木葉は思わず悲鳴を上げて顔をそむけた。その視界の端で崩れ落ちる人影が……。
「秧鶏!」
紫苑の声にはっとした木葉の目に映ったのは、床にうつ伏せた彼の姿だった。
「秧鶏さん!」
駆け寄ってその肩に触れても、秧鶏はぴくりとも動かない。木葉は蒼白な顔で、きっと少年を睨み付けた。
「許せない、よくも……!」
「案ずるな、お前もその男と同じ所へいかせてやる。」
少年はそう言うと再び刀を構える。木葉が身を固くしたその時、
「紫苑! そこにおるか!」
大声が聞こえ、楸が駆け込んできた。彼の鋭い視線に少年は一瞬怯むが、すぐにがむしゃらに声を上げながら楸に斬りかかった。楸はその刀を受けつつ叫ぶ。
「木葉、紫苑を奥へ! 木葉!」
「は、はい!」
木葉ははっと我に返り、兄の身を案じて抵抗する紫苑の手を引いて奥の間へ向かう。そこにいた侍女たちに紫苑を任せると、彼女は即座に今来た廊下を取って返した。様子が――戦う楸はもちろんだが、秧鶏の様子が――気になって仕方がなかったからだ。
彼女がだっとその場に駆け込むのと、楸の刀が少年をかすめるのとは、殆ど同時だった。
「くっ……!」
少年は顔をしかめて右肩を押さえる。その手の下に赤い色が滲むのを見た時、木葉は不思議な想いに襲われた。
(琥珀が怪我を……! すぐに手当てをしなくては。可哀想に!)
そう叫んで飛び出そうとする意識が彼女の中で暴れる。
木葉にとってはこの少年は、主人を襲った敵。こんな感情など起こる筈がない……こんな、胸の痛みなど感じる筈はないのに。
(私の中に誰かがいる。)
ゾッとして立ち竦んだ。