拾参
廊下を曲がった先で襖の音と話し声が聞こえて、木葉は心を決めた。
「それでは、失礼致します。」
主の部屋を辞した人物が、廊下を曲がって彼女に気付き、微笑んで会釈をして通り過ぎようとする。そこを呼び止めた。
「秧鶏さん、ちょっといい? あとでもいいの、話したいことがあるんだけど。」
「今時間あるから構わないよ。どうした? なんだか顔色が良くないぞ。」
呼び止められた秧鶏は少し目を丸くして、しかしすぐに微笑んで応じた。木葉と並んで歩きながら、彼女を気遣うように努めて明るく言う。でも今の木葉には、同じく軽い調子で彼の気遣いに応えることも出来なかった。
「ごめんなさい、忙しいのに。あのね、大したことじゃないんだけど、誰かに話を聞いてもらいたくて。」
「話を聞くくらいならいくらでも。お前が思い詰めているの、見てられないからな。」
真剣に木葉を見つめる。瞳が優しく煌めいていた。
「……そんなに、思い詰めているように見える?」
尋ねると、秧鶏はちょっと困ったように笑って、でもゆっくりと頷いた。
「ちょっと見ただけじゃ分からないから、他の人にはばれていないと思うけど。俺が心配性なだけかな。でも、体調も良くないんじゃないのか?」
「ええ、まあ、少しだけね。でもそれは悩みの所為でじゃないから心配しないで。最近忙しいから、疲れが溜まっちゃっているみたいなの。」
これは本当のことだった。侍女である木葉の仕事は、なにも紫苑姫に四六時中付き添っていることではない。片時も離れず傍にいられては姫も息が詰まるだろうし、控えの間に下がった侍女たちにもやる事はある。戦が始まった今、侍女たちの中でも姫に信頼され城内に精通している木葉は特に、姫の傍にいることの出来ない時間の方が多いくらいだった。時には託けや探しものの為に城中を駆け回ることもある。悩みなどなくても、疲労はかなりのものだった。
「そうだなあ、木葉は姫様や楸様にも信頼されているもんな。お疲れ様。」
のんびりした口調で言い、労うように彼女の頭をぽんぽんと撫でる秧鶏。と、その手が不意に止まった。
「そう言えば、この前何かを言いかけたことがあったけど、話ってそれかい?」
「……ええ、そうよ。」
木葉は頷き、次の言葉を選びながら続ける。
「こんな事言うと、おかしいと思われるかもしれないけど……私にも何が何だか、どうしたらいいのか分からないの。でも、変なの。」
「変?」
「そう、私が変なの。おかしいわよね、こんな事言って。」
「いいや。」
笑われるかと思った。けれど秧鶏はただ怪訝な顔をして、黙って先を促した。
「近頃、ふと気付くと時間が飛んでいることがあるの。決まって夕方の、半時から一時くらい。初めは疲れてうたた寝でもしてしまったのかぼうっとしていたのかと思って、忙しい時なのにって自分に腹を立ててすらいたのだけど、どうも違う気がして……。でも何をしていたのか思い出せないし、私、怖くなって。」
身を震わせ、木葉は自分の肩をきゅっと抱いた。
「……そんなことが、頻繁に?」
「そうね、今は二日か三日に一度くらい。ちょっと前まではこんなに頻繁じゃなかったわ。それに……こうして時間が飛ぶようになったこと自体も最近のこと。ひと月前にはこんなこと全然なかったもの。」
「……。」
秧鶏は黙り込んだ。どう返事をしていいか分からないのだろう。
「私、怖いの。自分で自分がわからないんだもの。記憶にない時間、私は何をしているのかしら。何もしていないのかしら。もし、何かとんでもない事を仕出かしているのだとしたら……?」
木葉の目が潤む。秧鶏は驚いて彼女を見つめた。
「何を言ってるんだ。お前はそんな、『とんでもない事』なんかする奴じゃない!」
「でもその時の私は私じゃないのよ!」
木葉は悲鳴のように叫んだ。頬をひとすじの涙が伝う。
「きっとこのまま何かに乗っ取られて、この私は消えて無くなってしまうんだわ。私じゃない何かに……私の姿をした化物になってしまうの。そんなことになる前に、いっそ死んでしまいたい……!」
「駄目だ! そんなこと言うな!」
彼の叫び声が聞こえた次の瞬間、木葉の身体は彼の腕に強く抱き締められていた。突然のことに涙が止まる。動くこともせずぼうっとしたまま、背中にまわされた手の温かさをただ感じていた。
「木葉は強い女だ。だから乗っ取られたり、消えたりなんてする筈ない! 俺は、お前を信じてるから。何があってもお前は悪くないから。だから、死ぬなんて言わないでくれ……頼む。」
「秧鶏さん……。」
苦しかったのは、辛かったのは私だった筈なのに。どうしてこの人は、私よりも辛そうな顔をしているのだろう。秧鶏の言葉を聞きながら、木葉は自分の中の恐怖や苦しさがすうっと溶けていくのを感じた。
「秧鶏さん……ごめんなさい。もう消えるなんて、死ぬなんて言わない。」
そうだ、私は消えはしない。こんなにも私を想い、私の為に苦しんでくれる優しい人がいるのだから。
秧鶏の腕が痛いくらいに彼女を抱き締める。木葉はそっと、同じように彼の背に手を回し、肩に頭をもたせる。今はこのまま、もう少しだけ甘えてしまおう。
「ごめんなさい。ありがとう。」
「この戦が終われば、全てが良くなるよ。きっと。」
耳元で静かに囁く彼に頷く。涙が滲んだ。
全て終われば、全て良くなる。
ではその時、私はこの想いに名前を与えよう。この優しい人へのあたたかい想いに。
きっと、そう、この戦が終わりさえすれば。その時こそ――。
「私は、あなたが……」
彼に聞こえないように囁きかけた彼女の言葉は、突然、大きな音に遮られた。
二人ははっと顔を上げ慌てて身を離す。
「今の……悲鳴か!?」
「ええ、多分。しかも聞き覚えがある声よ。」
木葉の表情が引きつる。彼女の予想が当たっていれば、聞こえた声は彼女と同じ侍女の……
「紫苑様が危ない!」
二人は同時に叫ぶと、走り出した。