拾弐
いつも明るい食卓には、重い空気が立ち込めていた。
いつもの五人。しかしそのうち朱雀と青龍がやけに賑やかに喋る他は殆ど口を開かない。もともと口数の多くない男性陣はともかく、秋沙が全くといっていいほど言葉を発さないのは異常だった。
「……。」
そんな中、全くの無言のまま一人が箸を置いた。
「風馬、もういいのか?」
玄武が尋ねると風馬はただこっくりと頷き、静かに襖の向こうへと姿を消した。
「もう、ひと月になるか。仕方のねぇ事ではあるが、あいつが口をきかないでいるだけで、こっちまで気が滅入るぜ。」
思わずといった調子でぼやく玄武。彼と、風馬が閉めた襖を交互に見て、秋沙が泣きそうな顔のまますっと立ち上がった。
「あたし、風馬の様子見てくる。」
ずっと喋らなかった為だろうか、どこか掠れたような声でそれだけ言い、彼女は小走りで食卓を後にする。さらに、青龍まで箸を置いた。
「……ごちそうさま。」
「まだ残ってるじゃないの。」
「ごめんなさい姉ちゃん。食欲ないんだ。」
子どもたちが去り、玄武とふたり取り残された食卓で、朱雀は溜め息をついた。また料理の残された食器を手早くまとめていく。最後におかわりという声を聞いたのはいつだったかしら。全ての料理が完食されたのも、ここ数日見ていない。仕方のないことと諦めてはみても、どうしようもなくむなしい気分にさせられる。同時に、この程度の少量しか食べていない三人の体調も心配だ。朱雀自身は多少無理してでも完食するようにしているし、玄武も食事を残したことがないからこちらは心配ないのだが。
「朱雀。」
と、食事を終えてから何か考え事をしていたらしい玄武が、唐突に彼女の名を呼んだ。
「何です?」
朱雀は片付けの手を止めずに応じた。玄武はやけにゆっくりと、考え込みながら尋ねる。
「お前、今年いくつになる。」
「えっと……、この家に来て七年だから、十七になるわ。どうかしたの? 兄さん。改めてこんな事聞くなんて。」
玄武の口調があまりに真剣で堅苦しかったので、呆れたように笑って問い返した。しかし玄武は笑いもせず、ただ小さく呟いた。
「いや。もうお前も子供じゃないんだと思ってな。」
「えっ」
思いがけない言葉に、朱雀はつい表情を硬くする。
「本当はもっと早くに考えておいてやるべきだったんだ。」
「兄さん、」
「木葉と同じように城に仕えるなり、何処かへ嫁ぐなり、」
「わたしは、そんな……」
口が渇いて、玄武の言葉を遮ろうにもうまく口をきくことが出来ない。
「ん? 嫁ぐのは気が進まないか……。城はどうだ? 伝手を使えば奉公の口はあるが。」
「でも……、お城は、木葉姉さんが大変そうなの見てるもの、わたしなんかにはとても勤まらないと思うわ。」
それだけ言うのがやっとだった。一番言いたい言葉が、胸につっかえたように出てこない。
「いやそんな事は……まあいい。お前がそう言うなら。」
玄武が残念そうに言うのを聞いて、朱雀は申し訳なさに胸がきゅっと締め付けられる気がした。
「急にこんな事を言い出して悪かったな。俺もお前の嫌がることをさせようって気はねえんだ。お前の望みは必ず聞くから、何かあったら言うんだぞ。俺も考えておく。」
「……はい。」
朱雀は俯いたまま、食器を手に台所へと逃げ込んだ。こっそり居間を覗いて玄武が立ち去ったことを確認し、ほっと息を吐く。堪えずに言ってしまいたかった。でも、言えなかった。
(お前の望みは必ず聞くから)
「わたしの、望み……。わたしは……」
彼女は呟いて唇を噛む。
その時。コトリ、と物音がした。
「誰!?」
朱雀は叫んで襖を開け放つ。そこにいた人物は引手に手を伸ばした姿勢のまま、びくりと肩を竦めて固まっていた。
「……青龍。」
「姉ちゃん。」
困ったように姉の顔を窺う。朱雀は慌てて笑顔をつくった。
「ごめんごめん、驚かせちゃったね。何か用なの? 風馬たちと一緒にいるもんだと思ていたわ。」
「風馬兄ちゃんには秋沙姉ちゃんがいるもん、ぼくはいらないよ。だからぼくは、えっと……片付け、手伝おうと思って。」
妙に落ち着きのない青龍の態度に朱雀は眉をひそめ……はっと気付いた。
「青龍! あんたいつからここに立ってたの!」
「ごめんなさい! 姉ちゃんと玄武兄さんとお話してたから、なんか入りづらくて。盗み聞きするつもりじゃなかったんだ、本当だよ。」
朱雀はふうっと一つ溜息を吐いた。この弟に半泣き顔で謝られては敵わない。
「……いいわ、もう。」
「怒らない?」
「怒ってない。」
彼女が言うと、青龍は嬉しそうに笑った。居間と台所を行ったり来たりして物を片付けていたが、何度目かに朱雀の隣に来たとき、彼はふと言った。
「でも姉ちゃん、さっき何で玄武兄さんに言わなかったの?」
「何を?」
「ここにいたい、ってさ。お城に行くのも余所へ嫁ぐのも嫌だ、ここにいたいんだって、言えば良かったのに。」
「あっ、あんたには関係ないわ!」
痛い所を突かれて、思わず怒鳴ってしまった。青龍は大声に一瞬身を竦めたが、負けじと言い返す。
「関係なくなんかないよ、姉弟なんだから!」
「本当の弟でもないくせに!」
朱雀ははっとして口を押さえた。自分の口を突いて出た言葉が信じられなかった。
「ごめん……こんなこと、言うつもりじゃ……。」
彼女にとって青龍は「可愛い弟」だ。その弟を、売り言葉に買い言葉とはいえ、こんなひどい言葉で突き放してしまうなんて。
「いいよ、別に。本当のことだし、知ってたから。」
青龍は小さな声で言う。
「確かに、血のつながりはない。それでもぼくにとっては、姉ちゃんは姉ちゃんだよ。ぼくたち二人だけじゃない。玄武兄さんも、秋沙姉ちゃんも、風馬兄ちゃんも、それに秧鶏兄さんに木葉姉さんも。みんな兄弟。だから、頼ったり助け合ったりしたいし、してほしいんだ。」
「そう……ね。わたしたちは兄弟よ。今までずっとそうして、一緒に暮らしてきたんだもの。本当の兄弟と、同じ……」
震えてかすれる朱雀の言葉を、青龍が遮った。
「でもね。本当の兄弟じゃない、っていうのもやっぱり事実なんだよ。」
朱雀はあっけにとられて弟を見つめた。この子は、何を言おうとしているの?
「物心ついた時から面倒を見てくれてる朱雀姉ちゃんの気持ちくらい、ちょっとは分かるよ。姉ちゃん、隠しごと苦手でしょ。つらそうなんだもん。」
そう言って青龍は微笑んだ。笑うと眉尻が下がって、困ったような情けないような顔になる。いつも朱雀を癒す弟の笑顔。
「そっか……分かっちゃってたんだ、わたしの気持ち。あーあ、絶対ばれないようにと思ってたのにな。」
わざとらしく明るく言うと、目元が熱くなってきた。
「どうして? 隠さなくたっていいのに。」
「だって、こんな想い、兄さんを困らせるだけだもの。兄さんはわたしのこと、こんな……」
頬を何かが伝った。そう思った途端、涙は次から次へと溢れて抑えられなくなった。嗚咽でのどが詰まり、言葉が途切れる。そんな朱雀の肩に、あたたかい手がそっと置かれた。
「姉ちゃん。」
「やだ……もう。恥ずかしいから誰にも言わないでよ、こんなこと。莫迦みたい……こんなことで、泣くなんて……」
小さい頃から気が強くて、泣いた事なんかなかったのに。いじめられっ子で泣き虫だったのは青龍で、朱雀が守ってやる役だと思っていたのに。
「恥ずかしくなんかない。我慢しなくていい、泣けばいいよ。ぼく、内緒にするから。」
身長を抜かされただけじゃなく、こんなことまで立場が逆転してしまったのか。それが妙に寂しくて、でも何故か嬉しかった。
「本当に、内緒にする?」
「うん。約束する。」
朱雀は両手で顔を覆い、大きくしゃくりあげて泣いた。
「ずっと……ずっと苦しかった。誰にも言えるわけないもの。兄さんが優しくしてくれるのはただ、捨て子を拾った責任と情からだって、自分でも分かってた。好きになんかなっちゃいけない。わたしは、ただの妹だから。……でも駄目なの! 好きで、苦しくて、どうしようもないの。玄武兄さんが好きなの!」
胸の内を全部吐き出しても、涙は止まらなかった。心の中で、――変な風に優しくされる所為で弱くなっちゃってるんだ――と、肩に置かれたぬくもりに理不尽に八つ当たりをしつつ、朱雀は目の前にある肩にそっと顔をうずめた。
青龍は何も言わずに、ただ小さく震える姉の背を撫でていた。