壱
「ちょっと、あんた達! いい加減に片付けてよ、もう夕餉にしますから。」
「わっ、ごめんなさい姉ちゃん! 今手伝うから!」
部屋のど真ん中に座り込んで遊んでいた二人の少年を、同じくらいの年頃の少女が怒鳴りつける。暖かそうな明りが点り、大きめの卓袱台には彼女ともう一人の少女が運んできた料理が並ぶ。
(……いい光景だな。)
縁側に一人座ってそんな様子を眺めていたこの家の主、玄武はそんな独り言を漏らした。
「玄武兄さん、何か言った?」
姉に座敷から叩き出されたらしい、人なつこい少年が彼の顔を覗き込みに来た。少し年嵩らしいもう一人の少年も近寄ってくる。玄武はふっと我に返り、二人を見て優しく微笑んだ。
「何でもねえよ、青龍、風馬。それより、もう飯か?」
頷いた二人の少年達に手を引かれて食卓へ向かいながら、玄武は視線の先でくるくるとよく働く少女と初めて会った時の事を思い出していた。
あれは、そう、もう七年も前のこと……
皐月に入って長くなった日も暮れた頃、玄武は酷くなり始めた雨の中を我が家へと急いでいた。
家では引き取って育てているまだ幼い兄妹と少女、そして赤ん坊が彼の帰りを待っているのだ。玄武は傘を傾けて足を速め、軽く舌打ちした。
(参ったな、遅くなっちまった。秧鶏、まだ起きて待ってんだろうな。)
年相応以上に利発でしっかりした同居人の少年の顔が脳裏に浮かぶ。家の中の事はほとんど全て彼に任せてあった。普段なら特に心配はないが、いくらしっかりしていても彼は十三になったばかり。まだ子供だ。夜、家に子供だけにしておく訳にはいかなかった。
そんな事を思いながら、足早に人通りの少ない城下町を抜ける。角を曲がった途端、玄武は道端に変なものを見付けた。思わず足を止め、暗い中目を細める。
(何だ? ありゃあ……)
小さな岩か何かかとも思ったが、あんな所にある訳はない。荷物にしては形が変だ。まるで、人が蹲っているような……
玄武は注意深く『それ』に近付く。日はとうに落ちているし灯りもないので、暗くてよく分からない。しかしある程度近付いて、彼は確信した。
(人だ。しかも、小柄な……子供か?)
ゆっくりと傍らに屈み込んで、その顔に掛かる髪をのけてみた。ぬかるみで汚れた青白い顔の、まだ幼さの残る少女だった。今日は雨の所為もあってだいぶ冷え込んでいる。こんな中子供が一人で、しかも倒れているなんて、普通なら考えられなかった。
「捨て子か? 可哀想に。こんな雨ン中……酷いもんだ。」
思わず口に出して呟く。すると、それが聞こえでもしたのだろうか、少女の身体がほんの微かに動いた。まだ生きてる! 玄武はとっさに傘を投げ出して、彼女を抱え上げた。
「おい、しっかりしろ! 大丈夫か? おい!」
軽く揺さぶって、叫ぶように声をかける。彼の中にはただ生きて欲しいという願いしかなかった。
(もう、人の死など見たくない……)
その痛いほどの願いが通じたのか。少女は玄武の腕の中で、うっすらと目をあけた。その唇から、言葉にならない微かな声がもれる。ほっとした玄武は彼女の顔を見て、
「よかっ……」
目が合った瞬間、思わず凍りついたように動けなくなった。
(朱雀……? 莫迦な。)
寒さに震える幼い子供の顔に、彼は、彼の大切なひとの面影を見た。関係がある筈はないと分かっていたが、赤の他人というには似すぎている。しかし……
「た、すけて……さむい……」
彼女の声に、玄武ははっと我に返った。とにかく、絶対に助けなければ。
「よし、もう大丈夫だぞ。」
優しく声をかけると、彼は少女の軽い体を抱えて家へと走り出した。雨は激しく降り続き、ふたりの体力を奪う。ようやく見えてきた灯りに、玄武は手を伸ばした。
ガラッと表の引き戸が開く音が聞こえて、留守番の少年は奥から飛び出してきた。
「お帰りなさい玄武兄さん! ……どうしたの?」
傘を持って出た筈の兄がびしょ濡れで、しかも見知らぬ女の子を抱えて帰ってきたのを見て、彼は目を丸くした。玄武は全力疾走で荒くなった息を整えつつ答える。
「いや、何でも……あとで話す。」
それしか言わなくても、ある程度の事は察したらしい。利発な少年はそれ以上聞こうとはせず、ただ肩をすくめて言った。
「あーあ、びっしょり。兄さん風邪ひいちゃうよ。僕、拭くもの持ってくる。」
「悪いな。あ、木葉は?」
木葉は秧鶏より一つ年下の、同じく玄武の同居人の少女だ。
「まだ起きてる。ついでに呼ぶよ。」
「頼んだ。この子に何か着物貸してやってくれ。」
「うん。」
秧鶏は一度襖の向こうに引っ込み、間もなく大量の手ぬぐいを抱えて、一人の少女を伴って戻って来た。少女――木葉は、自分の物らしい明るい色の着物を持っている。
「玄武兄さん、着物、これでいいかな。」
「ああ、ありがとう。」
礼を言って着物を受け取ろうとした彼に首を振り、木葉は腰を下ろして言った。
「あたしがやるわ。女の子だし。」
「お、そうか。悪いな。」
木葉はただ首を振ると、少女の体を大きめの布で包むようにして水気を拭き始める。男二人はしばらく手持ち無沙汰に突っ立っていたが、やがてのろのろと玄武は自身の体を、秧鶏は濡れた板の間を拭き始めた。
少しの間、しんと静まった屋内には雨音だけがいやに大きく響く。そんな中、少女が目を開いた。
「あ……ここは?」
聞こえるか聞こえないかというほどの、かすれた声。木葉の顔が、ぱっと嬉しそうに輝いた。
「よかった! 気が付いたのね。ここはあたし達の家よ、もう大丈夫。」
木葉は少女が身を起こそうとするのに手を貸した。辺りをぼんやりと見回す彼女に、優しく言う。
「あなた、あそこにいる玄武兄さんに助けられたのよ。」
木葉の言葉にきょとんとして彼を見る少女。それに、玄武は照れたようにぶっきらぼうに言った。
「人として、当然の事をしただけだ。助かって、よかった。」
少女は驚き、そして初めて笑顔を見せた。小さくありがとうと呟く。玄武は赤くなったままそっぽを向いている。木葉は少女の頭を撫でつつ、優しく尋ねた。
「ねえ、お名前聞いてもいい? あたし、木葉っていうの。」
すると突然、少女は表情を曇らせて俯いた。かぶりを振り、蚊の鳴くような声で一言だけ言う。
「ない。」
「えっ」
木葉が驚いて聞き返す。玄武も近付いて膝をつき、少女の顔を覗き込んだ。
「名前がない? 父さんや母さん、いるんだろ?」
「父さんは知らない。会った事ない。母さんは……あたしを置いていなくなったの。たしか、四年くらい前。」
三人とも、少しの間口がきけなかった。秧鶏が声をしぼり出すようにして尋ねた。
「君、いくつ?」
「今年で十になる。」
六歳にならない子供が、これまで一人で……生きてこられたのは、ひとえに奇跡だと言っていいだろう。並大抵の事ではない。だからこそ彼ら――両親のない秧鶏も、木葉も、まだ二十歳前の玄武と三人で身を寄せ合って暮らしているのだ。
「なんてこと……ねえ兄さん、この子に名前をあげましょう。何か素敵なの、考えてあげてよ。」
木葉の言葉に、少女は驚いたように目を見開いた。玄武は頷き、彼女の顔をじっと見る。
「そうだな。……朱雀、なんてどうだろう?」
玄武は彼女の目をじっと見、微笑みかける。朱雀の名が出た途端、後ろで聞いていた二人ははっとしたように動きを止めた。
「すざく……? あたしの、名前?」
「ああ。朱雀っていうのはな、鳥の姿をした南の神様の名前なんだ。俺の名前の玄武は北、朱雀と対の存在だ。」
玄武の言葉に、少女――朱雀は嬉しそうに頷いた。玄武の心を揺さぶる、あの子と同じ笑顔。
「兄さん、いいの? 朱雀って兄さんの……」
彼女には聞こえないようにこっそりと小さい声で秧鶏が尋ねた時、玄武は半ば自分に言い聞かせるように答えた。
「ああ。あの子は、朱雀の幼い頃にそっくりだ……」