帰り道
付き合い始めた頃、ネット上でも現実世界でも私たちはいつでもテンションが高かった。「将来はいつか……」なんて、あるかどうかもわからない夢物語をお互いに繰り広げていた。
今はどうだろうか。私の思い描いていた未来とは、少し違うものとなりつつあった。
ある日、冬の夕方。いつものように私は学校帰りにバス停で彼の帰りを待っていた。季節的にも少し肌寒いのはあるが、彼に会えることを考えるとそんな些細なこと気にもならない。ウォークマンで好きな曲を耳に流し込みつつ、私は彼の乗っているであろうバスの到着を今か今かと待つ。
今日は珍しく少し遅れて到着し、バスから彼が降りてくる。私はすぐにイヤホンを耳から引き抜いてかばんの中に適当に突っ込み、「やあ」と明るく声をかけた。
「お疲れさまー」
「おう」
ここまではいつも通りのやり取り。しかし、彼の声はどこか暗く、沈んでいた。ひどく疲れているのだろうか……私はそう思って、考えを巡らせた。
「とりあえず、どうします?」
彼に問うて私は歩き出す。彼もそれに合わせてくる。珍しく、彼は手を伸ばしてこなかった。不思議に思いつつも、私は彼の返事を待つ。
彼は大通り前の信号で一旦立ち止まる。私も止まる。例日のごとく某ファストフード店へと行くのかと思いきや、彼は一歩も動かない。
「……どうしたの?」
恐る恐る聞くと、彼は「任せる」と短くぼそりと言って口をつぐんでしまった。そのときの会話は、それっきりだった。
余程疲れているのか。あるいは……。私は大通りから背を向けて、帰路につくことにした。
「帰ろっか、君疲れてるみたいだし」
一声かけても、彼は「おう」とそっけなく返事をするだけ。どこか違和感がする。そう思ったが私は足を進めた。本当はどこかで腰を落ち着けていろいろ話したいとこだが、相手のことを考えると仕方がない。今この時間を満喫すればいいのだ。
「今日は学校が早く終わってさ……」
話題を振る。会話を始める役目は大体私が担っている。彼は基本聞き役となり、たまに逆転して。上手いことバランスが取れていたのに、今日は違った。適当に相槌を打つこともなく、彼はただ黙って歩みを進めていた。
「どこか気分悪いの?」
「…………いや」
「体調崩したとか?」
「それもない」
当てはまりそうな項目が次々と否定されていく。内心焦る。私はひとつの可能性をひらめいた。でも、これは。
「――――――……に、なったの?」
「え?」
「……いや、なんでもないわ」
震え声だったからなのか、車のせいなのか。彼にはよく聞き取れなかったみたいだ。すぐになかったことにして、私はその考えを頭の中から消し去ろうとした。そんなことを考えるなんて私らしくないし、そんなことがあるなんて思えなかった。いや、思いたくもなかった。
そういえば、と思い、私は彼の袖を引っ張る。ちょっとした合図なのだが、彼の反応はない。寒空の下に晒された手を私の手でこん、と軽くぶつける。やっと反応した彼に、私は右手を無言で差し出す。彼はその手を少し見つめて、迷っているのかなかなか取ろうとしない。仕方ないから私から手を取り、指を絡めて握る。彼の反応は、相変わらずない。
私は心の底から焦った。基本甘えん坊な彼がここまで反応しないなんて余程のことだ。普通でありきたりな理由じゃ片付けられないような何かがある。私はそう確信していた。けど、仮にそうだとしたら、どうして…………?
私が悶々と悩んでいる間つい黙り込んでしまい、お互いに言葉を一切交わすことなく。気づいたらもう私の家の近くにまで来てしまっていた。手はまだ、お互いに冷たいままである。
信号を渡って路地に入り、薄暗い中を歩く。乾いた風が吹いて、コートの裾と髪がはためく。マフラーが前に垂れ始め、私は垂れてきた方を後ろに投げやって首元にあるのを鼻の上まで引き上げた。
「…………どうする?」
もうすぐ分岐点、というところで私は彼に問う。マフラーのしたから、くぐもった声で。彼は答えず、黙ったまま歩き続ける。私はぎゅ、と手を握る力を強めた。彼からの反応はやはりない。
分岐点に着く。足が止まって、そこにとどまる。一ヶ月も経たない前に、同じところでふざけていたのが信じられない。あの頃とは、もう、何かが違ってきている。
「……今日はもう帰るわ」
力なく言って、彼はすぐに手を解いて自分の帰路へとついていった。呆然となりながらも、私は頷いて彼を見送った。彼がそれを見てないのは知っていた。少ししてから私も帰ることにして、体の向きを変えて歩き出した。
すると、急に体の力が抜けてそのばにへたり込みかけた。が、なんとか堪えて膝を震わせながらも何とか家のすぐ横まで来る。けどすぐに帰ろうという気にはなれず、すぐそこの川辺のベンチまで行った。ほんの数メートルの距離なのに息切れがひどい。ついたとき、途方もない虚無感に襲われた。
「くっ…………ふ、……ぅ」
嗚咽が漏れて視界が急にぼやける。メガネによって矯正されてクリアになっているはずなのに。外したら当然焦点なぞ合わないが、普段よりも更にぼやけて歪んだ世界が映し出される。頬につぅ、と一筋涙が伝って、コートや手の甲にぽたぽたと落ちていく。何度も何度も拭っても落ちていき頬とあちこちを濡らしていく。終いには、外であるのにも関わらず完全に泣き崩れてしまった。まわりからの奇異の視線をも気にならない。ここまでになったのは、あの二年前のこと以来かもしれない。
私はふらふらと立ち上がり、なんとなく川へと続く階段を下りる。今は潮が引いていて、普段は水の中に沈んでいるところも乾いて露出している。一番下の段に腰掛けて、横にあるコンクリートで覆われた壁にもたれかかる。昔からこうやって潮の満ち引きを見てぼおっとするのが好きだった。前に喧嘩したときも、こんなことして逃げたっけ。
涙はもう止まっていた。潮が少しずつ満ちていく。水は私の靴の底を浅く浸していた。ちゃぷん、と波打つ音が心地よい。伏せていたまぶたが、もたれている体が少しずつ重くなってくる。私は動くことを放棄して脱力してあがってくる水位に全てを預けようとした。もう、このまま水に呑まれて溺れてしまいたい――――……。
刹那、右手に持っていたスマホの画面が白く光る。着信だ。私は盛大に舌打ちした。面倒ながらも応答する。そうしないと、あとが怖いから。
「もしも――――」
『お前どこにおるんや、はよ帰ってこい』
その一言だけで、会話が終了した。嫌でも帰らないといけなくなってしまった。
水は私の足首を沈めていた。行かないで、といいたいのかちゃぷちゃぷと水面が揺れる。もやのようにうごめく水面をしばらく見つめ、私は足を水の中から引き抜いた。濡れていて非常に不快極まりないのだが、自分でやったことだから仕方ない。こうなってしまった言い訳と涙の理由を考えながら、私は車の往来が少ない車道へと飛び出した。