石榴の木の下で
やがて僕は高校生になった。
目的はどうであれ、一定の成績を維持し続けたおかげで、入学したのは県内きっての進学校だった。が、僕にとってはそんなのはどうでもいいことだった。ただひっそりと、人生の残りの時間を過ごせればそれでいい、所詮ここは僕にとって、仮の居場所でしかないのだから。
真新しい制服に身を包んだ時に僕が唯一心に決めた目標は、「友達を作らない」ということだった。どうせ数年後には死ぬのがわかっているのに心を許せる友達を作ろうだなんて、ひどく不誠実なことに思えてならなかった。
そうして僕は、常に小難しい本を小脇に抱え、固い鎧を着こんで日々を過ごしていた。
ばあちゃんが入院したと連絡があったのは、ちょうどそんな時だった。道で突然吐いて倒れ、救急車で運ばれたのだという。千恵子おばさんからの電話を受けた母さんは、深いため息をついては狭いアパートの部屋をうろうろと歩き回った。
「検査結果が明日出るらしいから、母さん半休とって病院に行ってくるわ。いくら千恵子が来てくれるから大丈夫って言ったって、私だって先生の話聞かないわけにはいかないし、もう。ああ、急にそんなこと言われたって!」
心配しているのか腹を立てているのかわからないきつい口調で母さんはまくし立てた。それに対して僕はあえて淡々とした態度を取り続けた。こっちまで一緒になって騒げば、ますます母さんは興奮し手がつけられない状態になってしまうということを、僕もいい加減学んでいたからだ。
けれども本当は僕だって、心配でたまらなかっだ。結局ほとんど一晩中眠れないまま、次の日の朝を迎えた。
「自殺について」なんていうくだらないテーマのホームルームがあったのは、その日のことだった。寝不足とクラスメートの能天気さにおそろしく不機嫌になりながら、僕は家に帰ってきた。すると薄暗い台所に、スーツ姿の母さんがぺたりと座り込んでいた。僕は一瞬、父さんが仕事をクビになった日のことを思い出した。
厭な予感がした。
「……ばあちゃん、どうだったの?」
努めてさりげなさを装いながら僕は聞いた。
「手術だってサ、一週間後に」
「手術って、何の病気?」
母さんは肩でひとつ息をすると、腹に抱えている不安をひとつ残らず吐き出そうとするかのように、強い調子でわめき散らした。
「癌よ、癌。大腸癌の末期だって。
そんなの、手術してもきっと助からないわ、末期だもの! 転移してたら終わり。
こんなんじゃいつ死んじゃうかわかんないんだから、あんたも、ちゃんと会っておきなさいよ! そう言えばなんか、あんたに渡すものがあるから来て欲しいって言ってたわ。
ああ、もう、どうしてこんなこと……いい加減にして欲しいわ、もう!」
母さんの言葉は非常識なほどストレートだった。僕の頭の中では、大腸癌の末期、いつ死んじゃうかわかんない、そのフレーズだけが強烈な印象を持っていつまでもぐるぐると回り続けた。
が、不思議と涙は出なかった。僕の感情は、この事実を受け止めることを拒否していたのかもしれない。
ばあちゃんに会いに行くべきだろうか。
でも、自ら命を絶つ前に、たった一度だけ会うことを自分に許そうと心に決めたのだ。今さらその気持ちをどう切り替えていいのかわからなかった。それに今会って、一体どんな顔で何を話せばいいというのだ?
が、もしかしたら本当にこのまま……考えたくはないけれど、母さんの言うとおり二度と会えなくなる可能性だってあるのだ。
そんなことあってはならない、だって、僕のほうが先に死ぬと決めたのだから。
僕は混乱し迷ったまま、結局翌日の学校帰りには、ばあちゃんの入院先へ足を向けていたのだった。
病院というのはどうしてこう、いつ来ても辛気臭いのだろう。父さんが廃人のような姿で入院していた時の記憶につながってしまうから、よけいにそう感じるのだろうか。僕は、すえたような入院病棟独特の匂いに顔をしかめながら、ひとつひとつ病室の入り口に掲げられた名前を確かめて歩いていた。
すると急に、どんよりと重い空気を押しのけるような力強いオーラを感じて、僕は思わず立ち止まった。見ると、四人部屋の一番入り口に近いベッドの上で、ばあちゃんが横になったまま、ニコニコ笑ってこっちを見ていた。お日様のようなその顔を見た瞬間、この人が病気だなんてことはすっかり頭から消し飛んでしまった。
「青慈の足音だと思ったよ。あれ、しばらくみないうちに、また背が伸びたんじゃないかい?」
昔と少しも変わらないその口ぶりは、僕の心をあっという間にあの頃に引き戻してしまった。
「そうでもないよ、ばあちゃんが縮んだんじゃない?」
そう言う僕の顔を、ばあちゃんは嬉しそうに覗き込む。
「どれ、会わないうちにどのくらい男前になったか、ばあちゃんによく見せてごらん」
ばあちゃんはそう言って、僕の顔に手を伸ばそうとする。
「やめてよ、ばあちゃん。もう小さい子供じゃないんだから」
ほかの患者さんの手前恥ずかしがったけど、実はそんなに嫌じゃなかった。ばあちゃんから流れてくる手放しの温かさが、毎日かたくなに過ごしている僕の心を、ゆるゆると溶かしていく。
引っ越してから友達はできたかい?
高校の勉強は難しいだろう?
何か部活動やってるのかい?
僕は、たくさんの友達に囲まれて勉強も部活動も一生懸命取り組んでいる、理想的な高校生であるふりをした。ばあちゃんは作り話を疑いもせず、そうかそうかと嬉しそうに聞いてくれる。
ばあちゃんはきっと僕が何を答えたとしても、たとえ今の苦しみや孤独を打ち明けたとしても、やはり同じようにただうなずいて聞いてくれただろう。けれども、いや、だからこそ、何としてでも今のありのままの僕を見せるわけにはいかなかった。
もし、ほんのわずかでもばあちゃんに本心を明かしてしまったら、きっと僕はその瞬間に臆面もなく泣いてしまうに違いない。そうなったが最後、もう二度とこの世と決別する覚悟なんて、作り上げることはできないだろう。
でも、今さらやり直すなんて無理なのだ。僕の心は、すでに死に向かって歩き始めているのだから。
僕は、話が一段落したのを見計らって、さりげなく話題を変えた。
「ところでさ、渡したいものって、何?」
ばあちゃんは、あ、そうそう、これ、と、引き出しから鍵を出して僕に渡した。
「ばあちゃんしばらく帰れないみたいだからな、悪いんだけど、時々あの家に行って、空気を入れ替えといてくれないかね? たまにでいいんだけどな」
「え……僕が? おばさんは?」
「いや、千恵子もあれでいろいろ忙しいみたいだからな。何、休みの日とか、時間があるときだけでいいんだ。頼むわ、青慈」
そう言ってばあちゃんは、優しいけれど何か有無を言わせない力強さで、僕の目をまっすぐ見据えた。
その瞬間ふと思ったんだ、ばあちゃんは実は、僕の嘘なんて全部お見通しなんじゃないかって。
「……うん、じゃあ、わかったよ。時間があるときに適当に行っとく。じゃ、また来るね」
僕は大きくなった心臓の鼓動を感じながら、精一杯何気ない風を装って、病室を後にした。
生まれ育った町が、懐かしいとは限らない、それどころか逆だ。今日だって、こんな用事を頼まれさえしなかったら、来るつもりなんかなかったんだ。次に来るのは「最後のとき」と決めていたんだから。
昨日病院から帰ってからも、僕はひたすら考えていた。ばあちゃんに会い、その上あの家に行くことが、僕の決意に与える影響について。
でもいくら考えても、ばあちゃんの頼みを断る正当な理由など見つからなかった。融通の利かない僕の性格では、下手な嘘をついてもすぐばれてしまうに違いない。そのことで事態が余計にややこしくなるのを何よりも僕は恐れた。それで結局、これはいざというときの下見なのだと自分に言い聞かせ、学校帰りにこうしてあの町に向かっているのだ。
駅前から古びた緑色のバスに乗った。乗客はまばらで、何人か高校生らしき姿も混じってはいたが、どうやら見知った顔は一人もいないようだ。内心ほっとした僕は、単調なアナウンスと心地よい振動に身をまかせて次々と移り変わる窓の外の景色を眺めているうちに、どうやら居眠りをしていたようだった。
バスが大きくカーブして、はっと目を覚ました次の瞬間、目の前にあの川が現れた。父さんを飲み込んだあの川が。
眠気ですっかり無防備になっていた僕の心は、いきなりぎゅうと締め付けられた。
あれ、おかしい。こんなはずじゃなかったのに。
僕は不覚にも、涙ぐんでいた。
くしゃくしゃの顔を誰にも見られないように、うつむきながらバスを降りた。自分の影を見つめながら川沿いの細い道をとぼとぼと歩いていると、すべてが遠くにいってしまったようなめまいにも似た感覚に襲われて、これが今の出来事なのか、それともあの頃の記憶なのか、わからなくなってくる。
足場のよさそうなところを選んで、土手をゆっくりと降りていく。自分の身長ほどにも伸びた草を両手でそっと掻き分けながら、茂みに埋もれるように寝転んでみる。これだけで、周囲からは僕の姿など見えなくなるのだ。僕がここにいるなんて、誰も気付きはしない。
むせるような青臭い匂いに包まれながら、ぎざぎざと草の形に切り取られた空を見上げていると、ここだけ世間から隔絶された別世界のようだ。
今の僕は、それを愉快と感じているのだろうか、それとも寂しいのだろうか。
あの時の父さんは、どうだったのだろうか。
寝転んでいた草の中から立ち上がり、僕は軽く手で制服のズボンをはたいた。いい加減行かないと、日が暮れてしまう。僕はあの頃通いなれた道を、再び歩き始めた。
出迎えてくれたのは、たくさんの猫たちだった。茶色のトラ猫が玄関の前で長々と寝そべり、その近くで三匹の子猫たちが尻尾をつんと立ててじゃれ合っていた。僕が家に入ろうとすると、どこからか三毛猫もやってきた。そっと指を差し出してみると、くんくんと匂いをかぎ、僕の足にゴロゴロと擦り寄ってくる。
家中を歩き回り窓という窓を全部開け放つと、頬を撫でてさわやかな風が通り過ぎて行く。不思議だ。同じ風でも、アスファルトの上を渡っていく風と緑の中を吹き抜けていく風では、まるで感触が違うのだ。そんなことを思いながら僕は、子供の頃のように縁側にごろんと寝そべってみた。
あの頃ぱせりを見つけた石榴の木は、ひねこびた枝を大きく広げて、赤い花をいっぱいにつけている。
「まるでたこさんウインナーみたい」
石榴の花が咲くたびに、幼い僕はそう言った。ばあちゃんはそれを聞くと笑いながら
「ああ、ほんとにそうだな。じゃあ、今日のおやつはたこさんウインナーにしようか」
そう言って、足が六本のウインナーを、フライパンで炒めてくれるのだった。
それを食べると僕は必ず、幼い頃親子三人で出かけたあの公園と、ケーキのように甘い卵焼きを思い出す。
ばあちゃんに何か食べたいものがあるかと聞かれて、いつもまっ先に頭に浮かぶのは、実はあの卵焼きだった。だけど、結局それをお願いすることはなかった。ばあちゃんに作ってもらうのは、何だか母さんへの裏切りみたいな気がしていたのだ。
あの頃一度だけ、思い切って母さんにねだってみたことがある。けれどもその瞬間、露骨にいやな顔をされ、それ以来僕は、卵焼きを見ただけで吐き気がするようになってしまった。
石榴の木の向こうには古びた納屋がある。入り口にはリヤカーや一輪車が置かれ、その奥では暗闇がぽっかりと口を開けていた。幼い頃一度ばあちゃんが中を見せてくれたが、突き当たりの高いところに小さな窓があるだけで、ひどく薄暗くて怖かった。奥をのぞくと、ばあちゃんの背丈よりもっと高い所まで、乾いた藁や籾殻が積み上げられていたのを覚えている。
ばあちゃんは、この藁で縄をない、籾殻で料理をするのだと教えてくれた。そしてその日は、籾殻を燃やして煎ったあられを食べさせてくれた。
納屋の横にあるのが、母さんが受験のときに使っていたという勉強部屋だった。何度かのぞいたことはあったけれど、幽霊騒ぎで怖くなり、結局それっきりになってしまった。でも結局座敷わらしの正体はぱせりだったんだから、何も怖がることないのだ。そう思ったら、急にもう一度中をのぞいてみたくなった。
あの頃からこの部屋はいつも鍵がかかっていなかったが、今もそうなのだろうか。
ノブに手をかけ、強く下に押しながら手前に引くと、ギィ、と軋んだ音を立てながらドアが開いた。
長いこと使われていない部屋なのだから、当然埃が積もっているのだろうと思っていたが、まったくそんなことはなかった。どうやらばあちゃんは、ここも小まめに掃除をしていたらしい。
古びて傷だらけではあったけれど頑丈そうな木の机と椅子は、僕の記憶通りに南の窓に向けて置いてあった。奥の壁に寄せたベッドもあの頃のままで、むき出しのマットレスだけがきちんと載せられていた。
ここ、寝転がるのにちょうどいいな。
ごろん、と横になってふと横を見ると、壁とベッドの隙間に一冊のスケッチブックが置いてあった。そんなに古いものではなさそうだ。
なぜ、こんなところに?
不思議に思いながらそっと開いてみた瞬間に、僕は身震いした。
目の前に広がる赤い石榴の花、枯れた枝が冴え冴えと描くシルエット、苔むした石が落とす深い影。切ない風をはらんだ空の色、悲しみの形になびく草。
胸がぎゅうと締め付けられた。
あの絵と、同じだった。父が逝った川原に浮かぶ、壊れた小舟。
胸が苦しくなってパタンとスケッチブックを閉じ、息を整えようと湿った空気をゆっくり呼吸した。
これを描いたのが誰かは、確かめなくてもすぐにわかった。
改めて部屋の中を探してみると、机の引き出しにはデッサン用の鉛筆とクレパスが、ベッドの下には十数冊ものスケッチブックがあった。
ぱせりは今でもまだこの家に来ている――。
胸のずっと奥のほうで、そこにあることさえすっかり忘れていたかすかな灯りが、ぽっとともったような気がした。
ああ、ぱせりに会いたい。
君は今でもわかってくれるのだろうか、僕がいつでも泣いているってことを。
そして君もまた今なお、君自身の悲しみを抱え続けているのだろうか。
僕はスケッチブックを元の場所に戻すと、外に出てゆっくりと深い息をした。
僕の知る限りこの家はいつでも不思議な温かく力強いオーラに守られていた。それはばあちゃんが庭にいても畑にいたとしても、いや、たとえその場にいなかったとしても同じだった。だから僕はここにいるときだけは手放しで、そう、何の心配をすることもなく、ただ安心して小さな子供でいることができたのだ。
ぱせりだってそうだったはずだ。
彼女の家がどんな風かは知らない。でも僕には確信があった。僕が唯一自分でいられた空間がここであったように、ぱせりにとってもこの家は、たったひとつの居場所であったのだ。だからいつも小さな女の子は、こっそりと家を抜け出してやってきたのだ。
ばあちゃんがこの世界からいなくなる? そうしたら、慈しむように僕たちの名を呼んでくれるあのあったかい声は、二度と聞くことができなくなってしまう。そう思ったら、不意に狂おしいほどの寂しさが襲ってきた。
いやだ、そんなのいやだ。
僕はいつの間にか縁側に座り込み、低く呻きながら身をよじって泣いていた。毛づくろいをしていた茶トラの猫が不思議そうに僕の顔をじっと見上げ、頬を伝う涙をぺろぺろなめてくれた。
もう、込み上げてくる嗚咽をどうしても止めることができなかった。いや、いい。ここでは止める必要なんかないんだ。
そうしてどのくらいの時間が経ったのだろう。かすかに感じた気配にはっと顔を上げると、ビー玉のように澄んだまっすぐな目が、戸惑うように僕を見つめていた。見慣れないブレザーの制服に包まれ、波打つ髪を長く伸ばした高校生のぱせりが、あの時と同じように石榴の木の下にじっと立っていた。
「あ、あの、邪魔してごめん、ボク、すぐ行くから」
小刻みに視線を揺らしながら、遠慮がちにそう言って立ち去ろうとするぱせりを、僕は引き止めた。
「いいんだ。行かなくていい。……ここにいてよ」
ぱせりは驚いたように一瞬目を見開いてから、おどおどと辺りを見回し、やがてギクシャクとした動きで縁側の一番端のほうに座った。
「……なんで、泣いてんの?」
かすれる声でそっと問いかけるぱせりに、僕は一体何を答えたらいいのかわからず、涙を手で拭いながら、ただ黙って首を横に振った。
ぱせりも、それ以上は何も聞こうとしなかった。
僕たちはそのまま長いこと、傾いていく陽の光に照らされながら、互いの心が同じ振動数で震えているのを、気が済むまでただ感じ続けていた。
「あの時は、ごめん」
長い沈黙の後、僕はやっとのことでその言葉を口に出した。やはりどうしても謝らずにはいられなかった。
「ううん」
ぱせりはうつむいて、ぎくしゃくと地面を蹴りながらつぶやいた。『あの時』と言ってすぐに通じたのは、それが彼女の中でもやはり忘れられない出来事だったからだ。そう気付いた僕は、いたたまれない気持ちになった。とその時、
「ボクが悪いんだ」
ぱせりが、暗い瞳でぼそりとつぶやいた。聞き間違いかと思い、僕は問い直した。
「え?」
「だってボク、青慈を怒らせるようなこと、言った」
「ええ? どうしてさ? どうして、そんな風に思うの?」
「……どうして?」
なんでそんなわかりきったことを聞くのか、とでも言うように、ポカンと僕を見るぱせりは、まるで予期せぬ問いを投げかけられた小学生みたいだった。そしてまさに子供のような必死さで、そのことを説明しようとした。
「だって……だって、ボク、馬鹿だから。
ボク、いつの間にか、みんなを怒らせてる。いつだって、そうなんだ」
一息にそういったあと、彼女はゆっくりと視線を目の前の石榴の木に移した。その瞳は、曇りガラスのように光を失っていた。
「でもね……いつも、いくら考えても、何が悪かったのか、よくわかんない。
ボクは、それくらい馬鹿で、どうしようもない奴なんだ。
……だからきっと、あの時だって、自分で気がつかないうちに、青慈が怒るような、青慈を傷つけるようなこと、言ったに違いないんだ。
ああ、ダメだ。
ボク、こんなだから、本当は、こんな風に思ったまましゃべっちゃ、ダメなんだ。
ボクはいつも、みんなをいやな気持ちにさせる」
ぱせりは苦しそうに顔を歪めて、首を横に何度も振りながらそう答えた。僕は悲しいのか腹が立っているのかよくわからなくなってきて、ただただ泣きそうになりながら、必死にぱせりに反論した。
「違う、違うよ、そうじゃない、君は馬鹿じゃないし、全然悪くない! それに、僕は君に傷つけられてなんかいない。
あのときだって、僕のほうが君を傷つけたんだ。僕が怒鳴りたかった相手は、ホントは君じゃなくて……自分自身だったんだから」
ぱせりは軽く唇を開いたまま、困惑したように小首を傾げた。
「僕はただ、みっともなく君に八つ当たりしただけなんだ。なのに、そんな風に自分のせいとか言わないでよ」
「……八つ当たり?」
「そう。うまく言えないけど……」
口ごもる僕を真っ直ぐ見つめる、ビー玉のような澄んだ瞳。ああ、この子になら、僕の言葉はそのまま届くのかもしれない。
「うまく言わなくていい、そのまま、言って。
青慈の心に浮かんでくるそのまま、聞きたい」
まっすぐ僕を見つめるぱせりの瞳は、再び強い光を取り戻していた。その力に促されるように、僕は大きく深呼吸をした。深い霧が晴れていくように、心の中の何かがごく自然にその姿を見せ始める。僕は慎重にそれに近づき、静かに目を凝らした。
「――僕、たぶん、ホントは父さんのことがすごく好きだったんだ」
自分の声が、静かな祈りの言葉のように響いた。
ぱせりは、ほんの少しも邪魔をしまいとするかのように、身じろぎもせずに僕を見つめていた。僕は膝の上で指を組んで、ぎゅっと握ったり開いたりを繰り返しながら、形のない何物かの正体を見極めようとしていた。
「うん――だからきっと、すごく、辛かったんだ。
あんなにそばにいるのに、自分が何の力にもならないと、毎日思い知らされることが。
父さんは、僕を見ても元気にならない、僕のためには、がんばれない。
父さんにとって自分はその程度の存在なんだって、何度も見せ付けられるんだ」
ぱせりは、かすかにうなずくような仕草をした。
「なんだかすごく自分がちっぽけに思えて、自分なんかいてもいなくも結局おんなじじゃないかって思ったら、ひどく悲しくなって……。
僕はたぶん、ひどく傷ついていたんだと思う。
そして深く傷ついた分、今度は、腹が立ってきたんだ。なんだよ、結局僕のことなんかどうでもいいのかよってね。
そして最後は、ひどく投げやりな気分になってきたんだ。何もかも、もうどうでもいいやって」
そこまで話してから僕は、この先を口に出すかどうかをひどく迷った。そこに想いが及ぶだけで、胸の奥が鈍く痛んだ。触れずにすむならそうしたかった。でも、だからこそ、この重苦しいものを、一切合財打ち明けてしまいたい衝動にもかられていた。
ぱせりはそんな僕の沈黙を、ただ黙って受け入れてくれた。それを見たとき僕の中には、どうしても彼女にこれを聞いて欲しい、そんな想いが湧き上がってきたのだった。
「僕は毎日のように、帰ってこない父さんを探し回ってたけど、ずっといい息子のふりをしようとしてたけど、ホントは、ホントはね……。
父さんがこのまま居なくなればいい、どこかで死んでいればいいのにって、ずっと、そんな風に思ってたんだ」
期せずして涙が溢れ出していた。同時にぱせりの目が、ぱっと赤く潤んだ。
「そして実際その通りに父さんは死んだ。僕がそう願ったんだ。僕が……僕のせいで……わかっただろ、僕が許せなかったのはそんな自分なんだ、君じゃない」
最後はもう、声にならなかった。
ぱせりの手が、そっと僕の髪に触れた。涙が喉に絡まったまま、僕は続けた。
「今でも毎日のように、父さんの悲しそうな瞳を思い出すんだ。そのたびに、暗闇に吸い込まれてしまいそうな気持ちになるんだよ……」
こうして口に出してみて初めて僕は、自分がそんな風に思っていたことに気が付かされた。
ぱせりはまっすぐ僕を見つめながら、ゆっくり首を横に振った。そして一言ずつ確かめるように、かすれる声でつぶやいた。
「ボクも、おんなじだ」
「……本当に?」
ぱせりは、黙ってそっとうなずき、うつむいた。その目から一筋の涙がこぼれて、赤くなった鼻の先で揺れていた。
「君のさ、写生会の絵、あったろ? なんというか……ものすごく心を揺さぶられたんだ」
ぱせりの表情がほんの一瞬ぱっと輝いた。が、あっという間にそれは消えてしまった。
「……あれ、もうない」
「え? どういうこと?」
「パパが、破って捨てた。ボク、変な絵ばかり描くから、気持ち悪いって」
僕は、まるで自分自身が踏みにじられたかのような痛みを感じた。
「じゃあそれで、君の絵、ここの離れに置いてあるの?」
その言葉を聞いてぱせりがぴくっと反応したのに、僕は気付いた。
「あの、さっきたまたま見つけて……ごめん、勝手に見たりして。でも僕、あの絵、どれもすごく好きだ」
「好き……本当?」
ぱせりが、心底意外だという顔をしたことが、僕には意外だった。
「パパは、ボクが絵を描くのすごく嫌がる。だから、全部ここに隠した。それでもパパは怒る。パパが怒ると、ママは、怖がる」
そして、大きく息を吸って、震える声で言った。
「ボク、ダメな子だから。パパを怒らせて、ママを悲しませてばかり」
そこまで言うとぱせりは、口をぎゅっとへの字に結んで黙り込んだ。
ダメな子――それは何かの符号のように、僕たちの心を苦しく共鳴させた。その言葉を聞くと、僕はいつもこの世界から消えてしまいたくなる。
ああ、もしかしたらばあちゃんは、ここでいつも僕たちを、その呪縛から守ってくれていたのかもしれない。
やがてあたりが暗くなってくると、ぱせりは黙って納屋の中に入り、猫の絵がついた大きな袋を抱えて出てきた。家中の猫たちがぱせりの周りに甘えるように集まってきた。
「お腹空いた? ちょっと待ってて」
ぱせりは納屋の前に置いてあった皿にキャットフードを入れ、もうひとつの容器に水を汲んできた。
「いつも君が餌やってるの?」
ぱせりはこくりとうなずいた。
「もう、帰る」
ぱせりはぺこりとお辞儀をして、立ち去ろうとした。僕は慌てて声をかけた。
「ねぇ、あの絵、また見てもいい?」
ぱせりはしばらく困ったような顔で小首を傾げ、かすかにはにかんだ様な顔でうなずいた。そしてもういちどお辞儀をして、帰っていった。
結局それから僕は、ほとんど毎日のように学校帰りにばあちゃんの家に行くようになった。
ぱせりも毎日やってきて、猫に餌をやり、天気さえよければ庭でひとしきりスケッチをした。
僕は家中の窓を開け、廊下からその様子を眺める。ぱせりの集中が途切れた瞬間ふと目が合い、時折言葉を交わす。
それだけだ。でも、それだけで充分だった。
ぱせりの話は相変わらずぶつ切りでぶっきらぼうだったけれど、流暢に言葉を操るよりも、ずっと誠実でぱせりらしい気がした。
ぱせりの言葉から推し量るおじさんのイメージは、ちょっと母さんに似ていた。が、それ以上に、ばあちゃんが話してくれたじいちゃんの姿そのものだという気がした。
「いつも怒られる。おまえはおかしい。もっと女の子らしくしなさい。普通にしてなさい。ボク、よくわからない。何が普通? わかるのは、このままのボクは普通じゃないってことだけ。ボクが考えること、やること、何もかもパパを怒らせる。ママを悲しませる。ボク、いないほうがいい」
ぱせりは縁側でうずくまるように膝を抱え、目を伏せた。そのまつ毛は重く濡れている。僕は何もかける言葉が見つからず、思わずぱせりの頭にそっと手を伸ばした。
「なんで? 青慈には思ったまま言えるのに、他の人の前では言葉が出なくなる」
目を伏せたまま、ぱせりがつぶやいた。
「僕もだ」
ああ、どうして僕たちは、自分の家の中に居場所を見つけることができないのだろう。どうしてそこでは、ただ自分らしくいることが許されないのだろう。
ばあちゃんの家は、主の不在にも関わらず、いつもと同じようにしんと静まり返って、そして温かかった。
入院から一週間後、予定通り行われたばあちゃんの手術は、無事に終わった。けれども僕は、どうしても病院に足を向けることができずにいた。もう一度ばあちゃんのあの強く温かい視線で見つめられたら、今度こそ僕はきっと、胸の中にあるものを隠し通すことなんてできなくなってしまうだろう。それが何よりも怖かった。
それに、手術は成功だったのだ。今無理に会いに行かなくても、これからだって会おうと思えばいつでも会えるはずだ。僕は自分にそう言い訳をしながら、ばあちゃんに会いに行くのを一日また一日と先延ばしにした。
家に帰る時間は、段々遅くなっていった。ぱせりが帰ったあとも僕は一人であの家に残り、何をするでもなくだらだらと時間をつぶした。狭いアパートで不機嫌な顔をした母さんと顔を突き合わせることが、それまで以上に苦痛に感じられて仕方がなかった。
その日もそうやって九時過ぎに帰ってきた僕が、夕飯を温めて食べようとしていると、風呂から出た母さんが台所にやってきた。
「いい加減にしなさいよ、あんたまだ高校生なのよ。勉強もしないでこんな時間まで毎日何やってんの。まさか、変な友達と付き合ってるんじゃないでしょうね。うちはもう母子家庭なんだから、将来のこともちゃんと考えて、しっかりしてちょうだい。まったく、頼りないんだから」
「ああ、わかってるよ!」
知らずとそんな言葉が口をついて出た。反抗されるなんて思っていなかったのだろう、母さんは驚いたように目を見張り、ますます声を荒げた。
「何がわかってるの! わかってないから言ってるんじゃない。だいたい、母さんは仕事で疲れて帰ってくるんだから、少しくらいは考えてくれてもいいでしょう。
ああ、昔はもっと素直でいい子だったのに、どうしてこんな風になっちゃったのかしらねぇ。まったく、育て方間違ったわ」
最後の言葉が僕の神経を思い切りざらっと逆なでした。
今まで必死に蓋をしてきた怒りの感情。でも、今さら抑える必要なんてあるのか? どうせ僕はもうじき死ぬんだ、いっそのこと洗いざらいぶちまけてやればいいじゃないか! そう思った次の瞬間、自分でも思いもよらない言葉が飛び出していた。
「いちいちうるさい! 母さんはいつもそうだ、そうやって何でもわかってますって顔して。ほんとは僕のことだって、何ひとつわかっちゃいないくせに。
昔は素直でいい子だったって? 僕が小さいときからどれほど言いたいこと我慢して、どれほど母さんに気を使ってきたか、わかってんの? 素直だったわけじゃない、どうせ言っても無駄だから黙ってただけさ。そんなことにも気付かなかったの? 父さんだってそうさ。父さんは無口だったんじゃない、母さんに言っても無駄だから、何も言わなくなっただけさ!」
一度滑り始めた口は、もう止まらなかった。頭の片隅で、いくらなんでもこれは言いすぎだ、と感じながらも、どうすることもできなかった。
部屋中の空気が凍りついた。
「……なによ、それじゃあんたは、父さんが死んだのは母さんのせいだとでも言いたいの」
呻くように母さんが言った。
「そんなこと言ってないだろ」
「だって、そういうことでしょ? ああ、そうね、私が殺したようなものよ。はいはい、あんたの言うとおり、私がこんなだから、うちはこうなったの。全部私のせいよ、私が悪いのよ!」
母さんは憎々しげに僕をにらみつけながら、言葉を吐き出し続けた。
「何にもわかってないくせに、勝手なことばかり言ってるんじゃないわよ。私だって必死にこの家を守ってきたの。あんたは我慢してきたって言うけど、私だってその何十倍も我慢してきてるのよ。
あんたはいいわよ、ちょっと頭が痛いから学校休む、運動会で疲れたからお手伝いはパスする、はっ、いいご身分だわ。こっちは熱があろうがお腹が痛かろうが、仕事も家のことも、誰もやってくれないのよ? わかる?
都合のいいときだけまだ子供だからって甘えて、やることやりもしないくせにえらそうに文句ばっかり言ってるんじゃないわよ! 何、その顔。くやしかったら、早く独り立ちしてみなさいよ」
「ああ、わかったよ。こんな家、今すぐ出て行ってやるよ!」
売り言葉に買い言葉で、僕はもうそう答えるしかなくなっていた。そのままの勢いで財布をつかむと、すべての苛立ちをぶつけるように、玄関のドアを思い切りバタンと閉めて外に出た。
「うるさーい! 近所迷惑でしょ!」
背後で母さんのヒステリックな怒鳴り声が聞こえたが、もう関係ない。肩を怒らせ、僕は夜の道を歩き続けた。
母さんの言葉が頭の中で何度も蘇り、そのたびまた新たな怒りが湧き起こった。
何もわかってないって? わかってないのは、そっちのほうじゃないか!
ずっと心の中で反発してはいた。でも、あんな風に面と向かって母さんに口答えしたのは初めてのことで、そのせいでさらに自分が興奮状態にあるのを感じていた。が、それも、夜道を歩いているうちに、少しずつ鎮まってきていた。
言い過ぎたかな。
いや、でも、間違ったことなんて言ってない。
勝手に曲解して拗ねたのは向こうだ。
僕は、母さんのせいで父さんが死んだなんて言ってない。
そんなことは思っちゃいない。
……だって、父さんが死んだのは僕のせいなのだから。
高ぶった気持ちが治まっていくにつれ、忘れたい胸の痛みが、鈍く蘇ってきた。
小一時間ほどで、ばあちゃんの家に辿り着いた。
と、離れの小さな窓にかかるカーテンの隙間から、かすかに細い光が漏れているのに気がついた。
こんな時間に……まさか、ぱせり?
僕はそーっと入り口に近付き、軽くドアをノックしてみた。が、返事がない。ノブを下に押しながら、ドアを手前にゆっくり引いた。
僕も驚いたが、彼女はもっと驚いたことだろう。青ざめた頬の上で見開かれたビー玉のような瞳は、予期せぬ侵入者に怯え、ぴくりとも身動きもできないままこちらを凝視していた。
ベッドに持たれかかるように座り込んだぱせりの手にはカッターナイフが握られ、左の手首からは一筋の血が、細くしなやかな腕を伝っていた。
それを見た瞬間、息が止まるほど胸の奥がきゅうと痛んだ。
「ぱせり……」
「ボ、ボク……」
ぱせりは折檻を恐れる子供のように、今にも泣きそうな様子でじりじりと後ずさっていく。顔を歪めているのは、傷の痛みのためだろうか、それとも僕のせいだろうか。ああ、どうかそんなに怖がらないで。僕は君を傷つけるつもりなんてない。
「すぐ手当てしてあげるから、そのまま待ってて」
ぱせりは戸惑うようにかすかに首を横に振った。僕は財布の中から鍵を取り出すと、急いで母屋から薬箱を持ってきた。
「傷、見せてごらんよ」
僕がそう言って近づくとぱせりは一瞬びくっとしたが、僕はかまわず彼女の手をとった。薬箱の中に消毒薬があった。
「よし、ちょっと我慢して」
そう言って、そっと傷口に垂らした。沁みるのだろうか、ぱせりがかすかに眉をひそめた。
てきぱきと手を動かしながら、僕はわざとなんでもないことのように言った。
「僕の父さんさ、しょっちゅう酔っ払って怪我して帰ってきてたから、僕、包帯巻くのうまいよ」
それを聞いたぱせりは、また泣きそうな顔になって、そして言った。
「……どうして?」
「え?」
「ボク、こんな……気持ち悪いでしょ」
なおも身をよじって後ずさろうとしているぱせりの手首には、よく見ると古いものから新しいものまで無数の傷跡があった。いつもリストバンドで隠していた手首は、まるで象の足のように固くなっていて、見ているだけで胸が詰まった。
僕は小さく首を振りながら、搾り出すように言った。
「だって……辛いんだろ? こうしなきゃいられないくらい、苦しくてたまらないんだろ?」
僕の目には、その傷跡のひとつひとつが、ぱせりがこの十数年間たったひとりで流してきた、数え切れないほどの涙の跡に見えたのだった。
僕が、二十歳までに死ぬと決意することで、やっと今の命を繋いでいるように、ぱせりは自分の体を痛めつけ自ら傷をつけることで、どうにかこの世に存在するための足場を刻んでいるに違いないのだ――そう思ったら、目の前のこの魂が、無性に愛おしく思えてたまらなかった。
「馬鹿」
僕は、ぱせりの頭をコツンと叩いた。
ぱせりは顔をくしゃっと歪めたかと思うと、堰を切ったように泣き出した。何度も喉を詰まらせて鼻を真っ赤にしながら、まるで小さな子供のように。
僕は思わず手を伸ばし、ぱせりの細い肩をぎゅうと思い切り抱き寄せた。ぱせりはそれに応えるかのように僕のシャツを力いっぱい握り締め、僕の胸に頭を押し付けながら大声で泣いた。泣き続けて熱を持ったぱせりの首筋の辺りから、汗と甘い匂いが混ざって立ち上ってくる。
温かい。人の体は、こんなにも柔らかく、そして温かいのか。そしてこんなにも、落ち着くものなのか。そういえばこうして誰かを抱きしめたことも、また誰かに抱きしめられたこともなかった。
ひとしきり泣いてそれでもまだしゃくりあげながら、ぱせりが言った。
「いつもは……大丈夫。何があっても、自分は何も感じない岩だって思えばいい。でも時々、どうしようもない気持ちになる。暗闇にたった一人で放り出されたみたいに……。そうすると、確かめたくなる。自分が生きてここにいること、ちゃんと体に血が流れてること」
ああ、もしかしたら君は僕なのだろうか? それとも僕が君なのだろうか?
「うん、わかるよ……僕も、僕もそうだから」
「本当?」
「うん、本当。僕も……やっと生きてるんだ。おんなじなんだ」
ぱせりはどこかほっとしたような表情になり、僕の肩にそっと頭を押し付けた。
「この傷を見つけたとき、ママは泣いた。どうしてこんな気持ち悪いことするのって。もうしないって、何度も約束させられた。でも、やめられない。それでよけい、自分がイヤになる。気がつくとまた切ってる」
僕はなんだかしんしんと悲しくなってきて、ぱせりの包帯が巻かれた左手首をそっと両手で包んだ。
「おばさんも母さんも、僕たちが本当に欲しいものが一体何なのか、全然わかってないんだ」
ぱせりの泣き濡れて赤く腫れた目元から、またつつーっと涙が落ちた。
不思議だ。
僕らは別々の道を辿ってきたのに、二人が心の一番奥底に抱え続けている孤独は、同じ味をしているのだ。形を持たない苦しみは言葉にされることで初めてその姿を現し、語らうことは麻薬のように心の痛みを和らげていくのだと知った。
ああ、いつまでもいつまでも、この時間が続けばいいのに。
朝が来るのが怖かった。苦痛に満ちた現実にまた戻っていくことが、これまで以上に恐ろしく感じた。
けれど、その時間には唐突に終わりがやってきた。
真夜中と言っていい時間だっただろう、急に近くで車のブレーキの音がした。続いてドアを開け、慌てた様子の足音。
「青慈、やっぱりここだった! 急いで、車に乗って! ばあちゃんが……」
ほとんど泣きそうな母さんの表情に、僕はすべてを悟った。そしてぱせりの手を取ると、大急ぎで車に乗り込んだ。
病室の前でおろおろしていた千恵子おばさんは、僕たちの姿を見ると慌てて駆け寄ってきた。
「ああ、姉さん、よかった! 母さん寝る前に自分でトイレに行こうとしたんだけど、途中で急に歩けなくなって……そのまま廊下で倒れちゃったのよ」
ばあちゃんは半分目を開けたまま、呼びかけても何の反応もなかったそうだ。が、ベッドに寝かせてしばらくすると、うっすらと開いた目から、幾筋もの涙があふれてきたという。
「体は動かなくなってたけど、きっと意識はあったんだと思うの。でも、そのうちにそれも止まって、いびきをかき始めて……」
駆けつけた医師は、脳出血を疑った。それでおばさんがあわてて母さんに連絡をしてきたのだ。
半分開いたままの病室のドアから、横たわったばあちゃんの体が見えた。働き者の引き締まった体は、たった数週間の入院でぺたんこに薄くなってしまっていた。
そこにいる誰もが、その成り行きを固唾を呑んで見守っていた。僕はただ必死に祈るように、ただただ両手をきつく握り締めていた。
が、そうしている間にばあちゃんの血圧はみるみるうちに下がり始め、あっという間に心電図のモニターの波形がフラットになってしまった。何が起こっているのか把握し切れずおろおろするばかりの僕らの前で、医師はすごい力で心臓マッサージを続け、最後は薄い胸をはだけて電気ショックを与えた。電流が流れるたびに、ばあちゃんの体は一瞬生きているかのようにバタン、と不自然に跳ね上がる。でも、それだけだった。
何度も何度も叩きつけられたようにのけぞるばあちゃんの体を見ているのは、とてもいたたまれなかった。
どのくらいそれを繰り返しただろう。
「もういいわ、お願い、もうやめてっ!」
とうとう母さんが、搾り出すような声で叫んだ。
初七日を済ませると、母さんはまた何事もなかったように会社に行き始めた。千恵子おばさんが少しずつ遺品の整理をしてくれるというので、僕はもうあの家に空気を入れ替えに行く必要がなくなった。が、おそらくそれは表向きの理由で、あの夜僕とぱせりが一緒にいたのを知った大人たちが、言葉には出さないまでも可能な限り僕らを引き離しておこうとしているのだろうという気がした。
そうしてあの家とばあちゃんとぱせりを失ったまま、僕の日常生活は以前と同じように流れ始めるはずだった。が、なぜだか僕は、歯車がずれてうまく回らなくなったかのように、そのまま学校に行けなくなってしまった。
ばあちゃんは、いなくなった。
あの家のどこを探しても、もういないのだ。
この世界のどこにも。
足元の地面がぐにゃぐにゃになって、自分がどこに立っているのか、どっちを向いているのか、まるでわからなくなっていた。
今までだって何年もばあちゃんに会わずにいたのだから大丈夫だと、どこかで高をくくっていた。でも、いつでも会えるけど「会わない」のと、いくら会いたくてももう「会えない」というのはまったく別のものだということを知った。
確か国語の教科書かなんかで、収容所から脱走した主人公が、ハンカチに包んだ一切れのパンを心の支えにしてなんとか生き延びる、というのがあった。僕にとってばあちゃんは、そのパンだった。生きていくための、最後の砦だったのだ。
毎朝母さんが僕を起こしに来る。それはまるで爆弾のような勢いで。
母さんが部屋のドアを叩く音は日に日に怒りを増し、僕はますます心をかたくなにしていった。
もういい。もうどうなってもいいんだ。
僕はその音を遠くに押しやり、心に鎧を重ねていくことだけに集中していった。
数日間はただひたすら眠ってばかりいた。昼間も頭がぼんやりとして何の力も出ず、ずっとベッドでうつらうつらしていた。なのに夜は夜でまた眠れるのが不思議だった。この調子なら飢え死にすることもそう難しくはないような気がした。
が、その期間が過ぎると、今度は無性に空腹を感じるようになった。どんなことをしてでも何か食べずには気がすまない。頭の中は四六時中食べることで占領されるようになった。
慌しく母さんが出勤していったあとに、僕はようやく部屋から出て台所に行き、冷蔵庫の中を漁る。最初のうちはちゃんとテーブルの上に目玉焼きやトーストがラップをかけて置いてあったが、だんだんそれもなくなっていった。今日はひからびかけたハムを立ったままかじり、牛乳をコップにも注がずにそのまま飲んだ。母さんが見たら速攻怒りの火を噴くだろう。でも、もうそれもどうでもいいことに思えた。
まだ腹は減っている。
僕は夢中で炊飯器に残っていたご飯をしゃもじですくい、口に運んだ。ご飯粒が床にぽろぽろと落ちる。それでも構わず詰め込み続けた。
残っていたご飯をあらかた食べつくしたのに、空腹感はちっとも治まらなかった。もっと「何か」を食べたくて、台所中を漁る。クッキー、海苔、食パン、ジャム。震える手で、手当たりしだい口の中に押し込んでいく。でも違う、違う、どれも違う。
ああ、僕はまるで餓鬼だ。食べても食べても永遠に満たされず、醜い姿でうろうろと自分を満たしてくれる何かを欲しがり続けるのだ。
死ぬことなんて簡単だと思っていたけれど、実際は飢え死にする覚悟すらない。
「あ―――っ!」
たまらず叫んだ。惨めだった。こんな惨めな生き物に成り果ててまで、どうして生きているのだろうか。
その時不意に、父さんのことを思い出した。
父さんも、飲んでも飲んでも満たされなかったのだろうか。
父さん、本当は何が欲しかったの。
僕が食べたい「何か」は一体どこにあるの。
食べ過ぎた後の体は熱を帯びたようにぼんやりと重かった。僕は部屋に戻って、ぐしゃぐしゃになったベッドに横たわった。
ほんのり汗臭くなった布団のぬくもりに包まれたとき不意に、病院で僕の顔を撫でてくれたばあちゃんのシワだらけの手の感触が思い出された。ああ、あの手に触れることはもうできないのだ。そう思った瞬間、体の奥底から突き上げるように涙が溢れ出し、気がつくと僕は両手で口を押さえたまま激しく嗚咽していた。ばあちゃんが死んでから、初めて流す涙だった。
これから一体どうしたらいいのだろう。
最後には死んでしまえばいいと思ってきたけれど、本当に死ぬということがどういうことなのか、崖っぷちに立ってみて初めて僕は、その言葉の持つ重大さに身がすくんでいた。
死ぬことがこんなに怖いとは思わなかった。それは一切の希望を断ち切る行為なのだと、今更ながらに思い知らされた。そして僕の体は、僕の意志とは関係なく、ただ生きようとしているのだ。
生きることの、そして死ぬことの意味とは一体何なのだろう。それもわからないくせに、生き続けることに一筋の未練もないと言えるのか? 今の苦しみが必ず続くと、未来にはまったく希望がないと言い切れるのか?
僕は僕の中に否定し難いかすかな希望が存在してしまっていることを認めざるを得なかった。けれどその希望は、死への道を阻みはするけれども、生き続けようとするためにはあまりに微力だった。
死ぬことができないとしたら、僕は一体何のために生きていけばいいのだろう。
生きる決意も死ぬ覚悟もできない宙ぶらりんのまま、風呂に入るのも歯を磨くのも億劫になり、ふとした空気の流れで自分があの頃の父さんと同じような異臭を発しているのに気がついて、皮肉な笑いを漏らした。
そんなある夜、まだ母さんが起きている時間なのに、猛烈にお腹が痛くなってきた。限界まで我慢したがとうとう耐え切れずに、不本意な時間にトイレに向かった。幸い母さんは電話で誰かとずっと話しているようだった。用を済ませて部屋に戻る途中に聞くとはなしに聞いていると、鼻息を荒くして母さんがまくし立てている相手は、どうやら千恵子おばさんのようだった。
「……母さんの手紙なんて、どうせしっかりやれとか、そういう内容なんでしょ? そういうのはもういいわよ。だから……あの家だって無理に残すよりも、手放すか、更地にしてアパートを建てたほうがいいのよ! あんな古い家、私たちにはとても管理しきれないでしょ! この機会に、全部壊したほうがいいんだわ」
壊すって、まさか、ばあちゃんのあの家を?
僕は、あまりのことに頭が真っ白になった。
枝豆をたらふく食べては寝そべったあの縁側、どろんこになって走り回った広い庭、夏でも涼しい風が吹き渡る木陰、季節ごとに実を結ぶ石榴や柿やびわの木、ひっそりと佇む納屋。ぱせりの唯一の居場所だったあの離れ。
僕の子供の時代をきらきらと輝かせてくれた、とても大切な……僕もぱせりも、ばあちゃんがいたから、何とか生きてこれたのだ。今だって、あの家があれば生きていけるかもしれないのだ。居場所を作ってもくれなかったくせに、どうして何もかもを奪っていこうとする?
知らないうちに体中がわなわなと震えだし、大声で叫んでいた。
「わーーーーーーーーっ!
ふざけるな、僕の、僕の、僕のたったひとつの……!」
ぱんぱんに膨らませた風船が破裂したように、涙と鼻水と怒りが音を立てて飛び散っていく。自分が何を言っているのかもよくわからないまま、僕は興奮して階段の横の壁を拳骨で思い切り殴っていた。何の痛みも感じないまま、手の甲から血が流れていた。
「やめなさい、青慈! 落ち着きなさいってば!」
僕はもう自分ではその勢いを止めることができず、なおも壁のカレンダーを引きちぎり、テーブルに用意されていた夕飯を床にぶちかました。体中からいくらでも溢れ続ける怒りが僕を突き動かし続けた。まるで自分が自分でないようだ。
どうして、どうして、どうしてわかってくれないんだ!
いつもいつも、母さんは、僕が一番欲しいものが、どうしてわからないんだ!
獣のような雄叫びを上げながら胸をかきむしり、僕は外に飛び出した。
ひと月以上も家に閉じこもっていたせいで、僕の体は思っていたよりずっと弱っているようだった。唐突な感情の爆発がそれに輪をかけた。
僕は息を切らし、よろめきながらやっとのことで足を進めた。
この体力じゃあ、どこにも行けないや。
その時ふと僕は自分がひどい格好をしていることに気が付いた。ろくに風呂にも入らず着たきりすずめの僕の体からはひどい臭いがしていた。これではたとえお金があったとしても、電車にも、いやタクシーにも乗れないだろう。
それでも何とか休み休み歩き続けると、あの川に行き当たった。この下流にばあちゃんの家がある。
今だったら、逝ける気がした。今なら先のこととか未練とか考えずに、死への一線を越えられる。ばあちゃんの家を失って、生きる力を失って、屍のように惨めな苦しみを味わい続けることもなくなるんだ。
僕は何かに憑かれたように、川面をめざしてゆっくり踏み出した。
ああ、これで本当に楽になれる。
ぱせり、ごめん。君を本当に一人にしてしまう。でも、もう自分でもどうすることもできないんだ。
とその時、どこからか小さな声が聞こえた気がした。辺りを見回すと、川上のほうからゆっくりと流れてくる段ボール箱があった。水に濡れて今にも沈んでいきそうなその箱の中から、今度ははっきりと子猫の声が聞こえてきた。
みゃあみゃあと乗り出すように大きく口を開けて鳴いている茶色い三匹の子猫が、僕のほうをビー玉のような瞳でひたむきに見つめている。
それを見た途端、自分でもよくわからないまま、気がつくと僕は夢中でざぶざぶと水の中に入り、段ボール箱に手を伸ばしていた。
が、もう少しで届くというところで急に水底のくぼみに足をとられ、派手な音を立ててひっくり返ってしまった。僕は全身ずぶぬれになりながら、しかも足をぬかるみに取られたままのねじれたような姿勢で、それでもなんとか力を振り絞り、ダンボール箱を岸辺に置いた。
子猫は自分たちの命が風前の灯だったことなど知りもしないで、ただまっすぐな瞳でみゃあみゃあ語りかけてくる。
ああ、よかった。
そう思った瞬間再び足を滑らせて、僕はあっという間に水の中に戻ってしまった。恐ろしいことに、少し岸辺から遠くなっただけなのに川の流れのスピードは格段に違っていた。岸に近づこうともがいても、弱った体は水の流れに翻弄されるばかりで、もう体に力が入らない。
ああ、流されていく。
酸素が足りない。
苦しい、
必死で肺の中に空気を送り込もうとしたが、入ってくるのは水ばかりで、もがけばもがくほど苦しさが増していった。
こんなはずじゃなかったのに。
いや、こんなはずだったのか。
僕は死のうとしていたところだった。
でも、何でだろう、死にたくないや。
さっきはもういいと思っていたはずなのになぁ。
人は、死にたいときには死ねなくて、本当に死ぬときには、死にたくないと思うものなのかなぁ。
父さん、父さんは、どうだった?
ああ、ぱせり、死ぬ前にもう一度、君に会いたかったなぁ……
その時、闇の中でかすかに車のヘッドライトが見えたような気がした。
誰かが遠くで叫んでる。
あれは……ぱせりの声?
それとも幻聴?
頭がぼうっとして、体が動かない、もうだめだ。
とうとう僕が意識を保つことを放棄したその時、誰かが手首を掴んでぐっと引き寄せ、丸ごと抱きかかえてくれた気がした。
僕は自分が胎児に戻ったような心地よさを味わい、次の瞬間深い闇へと沈んだ。
いつの間にか夢を見ていた。
暖かな液体の中で、膝を抱えて漂っていた。
どこからか声が聞こえてくる。
「もう何も心配しなくていいよ。大丈夫だから」
ばあちゃんのようにもぱせりの声にも聞こえる。
僕はうとうととまどろみながら、その声に耳を傾ける。
そう、僕はずっと、赤ん坊になりたかった。
母さんのお腹の中に戻って
何の心配もなく、守られていたかった。
いつまでも。
ぷかぷかと羊水の中に浮かんでいた僕は、けれどもそれが流れ始めるのを感じた。
遠くに小さな光が見える。水流はそこに向かって勢いを増していくようだった。
僕は抗いようもなく押し流されていく。
いやだ、いやだ、外になんか行きたくない。
生まれたくなんかない。
この世界は苦しみばかりじゃないか。
ずっとここで膝を抱えて眠っていたい。
夢の中でそう言って僕は泣いていた。
目を覚ますと本当に頬が濡れていて、どこまでが夢でどこからが現実なのかしばらくわからなかった。四角い白い部屋の中、目の前では母さんが、怒ったような困ったような顔で口をぎゅっと結び、目を潤ませていた。その後ろに千恵子おばさんとぱせりが、心配そうな様子で立っていた。
「猫……子猫は?」
「大丈夫よ、おばさんの車の中にいるから。無事だから」
千恵子おばさんが震える声で言った。
「僕、生きてるの?」
干からびたような声で僕は聞いた。
「そうよ、たまたま通りがかった人が気付いて、助けてくれたの……本当に、間に合ってよかった……」
そう言ってさめざめと泣くおばさんの目元は、少しだけばあちゃんに似ていた。
「……一体私に、どうしろっていうのよ」
その時母さんが、苦虫を噛み潰したような顔でつぶやいた。おばさんがぎょっとした顔をした。
「私にどうして欲しいわけ? あんた、そんなに死にたいの?」
「姉さん、何も今そんなこと言わなくても……」
おばさんは何とか取り成そうと、泣きそうな顔でおろおろしていた。
「わからないのよ、あんたの考えてること。わかってやらなきゃって思うのに、情けない話だけど、正直、見当がつかないのよ」
母さんは、ほう、と深いため息をついて、視線を天井のほうに向けた。
「ずっとそう、あんたが小さい頃から、ずっとそうだった。精一杯いい母親になろうと思ってるのに、いざあんたを目の前にすると、叱ったらいいのか放っておいたらいいのか、優しくしたらいいのか全然わからなくて、そんな自分にイライラして……気がつくといつもあんたを怒鳴りつけてたわ。
なんでだろう、そうやって一度怒り始めると、あんたがどんなに泣いて謝ろうが、自分ではもうどうにも止められないのよね。
不思議でしょうがなかった、どうしてみんな、当たり前のように母親らしくなっていけるんだろうって。なんで私だけ、そんな普通のことができないんだろうって。そんな自分にひどく失望して、何度も、もう消えてしまいたいと思ったわ」
声がかすれ、かすかに上を向いたままの母さんの目は見る見るうちに赤く潤んでいった。僕もおばさんもぱせりも、何も言えないままその様子を見ていた。
「青慈、あんたが言うとおり、私のせいであの人はあんなことになったのよ。その通りよ。今だって、あんたをこんなに苦しめてる。わかってる、わかってるのにどうしようもないの。私はできそこないなのよ。本当は、私みたいな人間が、子供なんて産んじゃいけなかったのよ。そうでなければせめて、私じゃなくてあの人が生きてればよかったのよ。そのほうがよっぽど、あんたは幸せだったはずなのに。
ごめんね、ごめんね。
あんたは何も悪くないの、
私が悪いの、何もかも……くっ……!」
途中から母さんは大粒の涙をぼろぼろ流し始め、切ない声を上げて泣いた。
僕は身動きひとつできないまま、母さんのその姿をただ見つめていた。
考えてみたこともなかった、母さんがそんな風に思っていたなんて。
それでは母さんも、何もかもが自分のせいだと、そう思い続けていたのだろうか。心にたくさんの傷を刻みつけながら、ここまで必死に生き延びてきたのだろうか。
そう、まるで僕たちのように。
母さんの中で、傷ついた小さいままの女の子が、しくしくと泣いている。いつしかそれは、あの夜のぱせりの姿と重なって見えた。
ああ、どうして、こんな風に悲しみはいつまでも続いていくのだろう。
誰もが幸せを願っているのに。
そして誰もが、本当は誰かを思い切り愛したいのに。
どうしてその気持ちはいつも、こんなにも空回りして、大切な人を容赦なく傷つけてしまうのだろう。
悲しみが波のようにひたひたと、僕らの周りに押し寄せてくる。
いつの間にか、僕も泣いていた。
そして、泣きじゃくる母さんの肩に、生まれて初めてそっと手を触れた。