銀杏の葉に埋もれて
今から十五年前の五月、関東平野のはじっこの、大きな川が流れる小さな町で僕は生まれた。父さんと母さんは、この町の中学の同級生だったそうだ。
僕の脳裏に刻まれた一番古い記憶は、親子三人で出かけた大きな公園だ。赤、黄、白、色とりどりに咲き乱れるチューリップ、子供たちの歓声、興奮して走り回る小さな僕。嬉しそうに目を細める父さんと、心配そうに見つめる母さん。シートの上で広げたお弁当は、おにぎりとタコさんウインナーと、ケーキのように甘い卵焼き。うっとりするほどおいしくて、僕が夢中で頬張るのを、二人はけらけら笑って楽しそうに見ていた。それはまるで絵に描いたように幸せな光景だった。僕の記憶が間違いでなければ、僕たち家族には、そんな時も確かにあったのだ。
それがいつから、あんな風になってしまったのだろう。
母さんは毎日、きっかり夕方の六時になると、保育園に僕を迎えに来た。いつも洒落たスーツを身にまとい、きっちりと明るい色の口紅をひいて、満面の笑みを浮かべながら、先生に丁寧なお礼の言葉を述べた。僕はそんな母さんを見ているのがすごく嬉しくまた誇らしくて、先生との話が終わるまで、いつも周りをぴょんぴょんと跳び回っていた。
でも、保育園の門を一歩出たとたんに、母さんはまるで別人のようになってしまう。肩を怒らせて、振り返りもせずに、すでに暗くなった田舎道をものすごいスピードで歩いていく。水色のスモックを着せられた小さな僕は、このままこの暗闇に置き去りにされるのではないかと怯えながら、必死でその後をついていった。
実際母さんは、途中で僕が転んでも、まったく立ち止まることはなかった。その代わり家に着くや否や、おまえはどうしてあんなに落ち着きがないのかと怒鳴りはじめ、母さんを誇らしく思っていた僕の心は、その大きさの分だけすっかりぺしゃんこになってしまうのだった。
母さんも父さんも、もう僕を見ても楽しそうに笑ったりしなかった。それどころか母さんは、靴をきちんとそろえない、箸を上手に使えないと言っては、そのたびに僕の手をぴしゃりと叩くようになった。そして父さんは、そんな母さんをただ悲しそうに見ているだけだった。
いつだったか、父さんが猫を拾ってきたときもそうだった。子猫たちはびしょ濡れでおまけにひどく痩せていたけれど、真っ黒な瞳でみゃあみゃあと元気に鳴いていた。
「この猫、僕を見てるよ」
思わず嬉しくなって、僕は言った。
「そうさ、目が合うっていうのは、青慈に興味を持ってる証拠だ。だから、きっと仲良くなれるよ」
僕はそぉっと手を出して、ドキドキしながら優しく子猫の頭を撫でた。が、その瞬間、母さんの怒鳴り声が聞こえた。
「誰も飼っていいなんて言ってない!」
その語調の激しさに僕はビクッとして、そのまま動けなくなってしまった。
「可哀想だからって……そりゃあんたが優しいのは結構だけどね、一体誰が面倒見るの。私は嫌だからね。 家族の世話だけでもう精一杯だわ、私だって働いてるんだから!」
母さんが怒り出すと、額にあるひきつったような傷跡がすーっと赤くなる。それを見るといつも僕は体がぶるっと震えて、金縛りにあったかのように身動き一つできなくなってしまう。
それでもなんとか横目でちらっと父さんを見たけれど、父さんはただ目で僕を制し、残念そうに首を振った。そう、わかってる。この家では誰も母さんに逆らうことなんてできやしないのだ。
父さんはその日のうちに、黙って子猫をどこかに連れて行ってしまった。僕はひどくがっかりしたけれど、もちろんそれを口に出せるはずもなかった。
だから小学生になって、ばあちゃんの家の庭で寝そべっているのがその猫だと知った時は、本当に嬉しかったんだ。
母さんの実家――ばあちゃんの家は古い農家で、当時僕たち親子が住んでいた家からは、歩いて十五分ほどの場所にあった。周囲には田んぼや畑や屋敷森を抱えた農家がたくさん残っていて、新興住宅地である僕の家のあたりとはがらりと雰囲気が違っていた。その中でもばあちゃんの家はひときわ古く、広い敷地は鬱蒼とした木々に囲まれていて、まるでそこだけが現実とは隔絶された別世界のようだった。
でも、そんなに近くに住んでいるのに、母さんはなぜだかあまりばあちゃんの家に行こうとはしなかった。
唯一お正月だけは例外で、精一杯着飾った僕たちは、朝早くにばあちゃんの家を訪ねる。けれども、新年のあいさつを済ませたかと思うと、母さんは必ずこう言うのだ。
「これからみんなで浅草寺に行くから、ゆっくりしてられないの」
実際は、初詣なんて地元の神社にさえ行ったことがなかった。そもそも家族で出かけること自体、ほとんどなかったのだから。でもばあちゃんは、母さんのその嘘を疑いもせずに、心底がっかりした顔をする。
「あれ、そうかい。おせちもたんとあるんだから、ちょっとだけでも上がっていけばいいのに。千恵子たちも、もうじき来るしなぁ」
千恵子というのは、やはり同じ町に住んでいる母さんの妹だ。が、おかしなことに、僕は小学生になるまで、そのおばさんの一家とちゃんと顔を合わせたことがなかった。
千恵子おばちゃんの家族ってどんなだろう? 僕みたいな子供もいるのかな。今年はもしかしたら、母さんが気まぐれを起こして、ちょっと寄っていこうかって言い出すかもしれない。そしたらその子とたくさん遊んで、お腹が空いたらテーブルの上に並んだごちそうを、一緒にたらふく食べるんだ。
僕は毎年、母さんとばあちゃんの会話に耳を傾けながら、頭の中でこっそりそんな想像を思いめぐらせていた。でも残念なことに必ず、その期待はいともあっさりと裏切られるのだった。
「青慈、あんたは何ボーッとしてるの、もう行くわよ!」
そんな母さんの声を合図に、僕はひきずられるように帰途につき、家に着くなり必ず床の上に正座させられる。
「どうして、もっと大きな声であいさつしないの。背中はしっかり伸ばしなさい、それに靴を汚すなって言ったでしょう? なんであんたは、何ひとつ言われたとおりにできないの!」
苛立ちを全身で表しながら怒鳴り続ける母さんの額の傷跡はどんどん赤みを増し、僕の体は緊張でガチガチになる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
何を怒られているのかもよくわからないまま、僕はただ謝り続けた。父さんはやっぱり、それを悲しそうに見ているだけだった。
僕が小学生になったとき、母さんは僕を放課後の学童保育所に入れようとしたが、その学年は入所希望者がひどく多く、健康な親族が町内にいる僕には許可が下りなかった。母さんはその決定を不服とし、役所に何度も抗議したがもちろん受け入れてもらえず、結局はあきらめざるを得なかった。
が、それは僕にとってはこの上なく幸運なことだった。つまり僕は、毎日放課後の時間をばあちゃんの家で過ごすよりほかなくなったのだから。
やった!
もちろん、声に出して喜びをあらわにするようなへまをしないだけの知恵は、その頃の僕にはもう備わっていた。だからできるだけ感情を表さないように用心しながら、ひっそりと入学の日を待ちわびた。
そして入学式の翌日の朝、母さんは僕に「暗くなる前に必ず自分で家に帰ってくること」を何度も何度も約束させてから、学校へと送り出したのだ。
ばあちゃんの家は、敷地に入ってしまえば車の危険もまったくないし、たくさんの木にぐるりと囲まれているから、人目を気にすることもない、やんちゃ盛りの男の子にとっては、まさにうってつけの遊び場所だった。僕は毎日思う存分走り回り、木に登り、穴を掘り、納屋を探検した。
父さんが以前拾った子猫たちは、ここですっかり大きく成長していた。縁側で横になっているとゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄ってきたし、ふわふわの毛からはお日様の匂いがした。猫たちはいつも、僕をたまらなく幸せな気分にしてくれた。
夏休みには友達を何人も誘って泊り込んだ。朝まだ暗いうちに眠い目をこすりながら起き出し、裏庭のクヌギの木に蜜を吸いに来るカブトムシやクワガタを捕まえるのだ。
ばあちゃんはかまどでご飯を炊いて、畑で取れたばかりの野菜で料理を作ってくれた。
とれたてのトウモロコシのみずみずしい甘さ!
ゆでた枝豆の目に染みる青さ!
僕はその宝石箱のような時間を味わうのに、ただただ夢中だった。
ばあちゃんは、とても不思議な人だった。
ものすごくのんびり屋さんに見えるくせに、実はとても働き者で、あきれるほどいろんなことをやっていた。家の周りの畑の畝はきれいな縞模様を描き、いつもたくさんの種類の野菜や花が植わっていたし、おやつの時間になると魔法のようにふかし芋や小麦饅頭が出てきたし、古い家はどこもかしこも清潔に磨き上げられていて、どこにいても気持ちがよかった。
一人でそれだけいろんなことをこなしながらもそれが全然大変そうに見えないのは、いつもばあちゃんが笑ってたせいなのかもしれない。
ばあちゃんは僕が行くと、
「ああ、来たか」
って、ニコニコして迎えてくれる。帰るときには
「ああ、帰るのか」
って、やっぱり笑っていてくれる。
僕が何をしても怒らなかったし、咎めることもなかった。靴を脱ぎ捨てても、食べ物をこぼしても、木に登って枝を折ってしまっても、「あれ、まあ」と言いながら、ただゆったりと笑っているだけだった。
「ばあちゃんは、どうして、僕が何しても怒らないの?」
最初の頃僕は、しつこいほど何度も何度もそう聞かずにはいられなかった。怒られるのはもちろんいやだったけれど、何をしても怒られないと、なんだかひどく落ち着かない気分になった。
するとそのたびにばあちゃんはいやな顔ひとつせずに、いつでもニッコリ笑いながら答えてくれた。
「何を怒ることがあるんだい? 青慈は、本当にやっちゃいけないことなんて、何ひとつしてないのに」
そう言って柔らかいシワの底のまるっこい瞳で見つめられると、胸の奥に灯りがともったように体中が温かくなった。そんなとき僕は、自分がとてもいい子になったような気がした。
でも大抵、家に帰るとそんな気分はあっという間に消し飛んだ。たとえば僕がテレビを見ていると、母さんは突然怒鳴り始める。
「何? 宿題は終わったの? だらだらしてる暇があるなら、少しは母さんを手伝ってよ。そんなことも思いつかないの? あんたまだは赤ちゃんなの?」
「……違う」
家中の空気が凍りつく。母さんの血走った目でにらみつけられて、僕はすっかり動けなくなる。
「違う、じゃないでしょ。違います、でしょ。」
「ち、違います」
「違わなくない、こんなこともわからないんじゃ赤ちゃんと一緒だわ! そうか、そう思えば腹も立たないか。赤ちゃんなら一人でお着替えもできないわよね、それじゃあ、ママが全部やってあげるわ」
そう言って母さんは、僕のTシャツを力ずくで引っ張った。怒りを押し殺したような不気味な声に、僕は思わず身震いし、弱々しく情けない声を上げた。
「自分でできるよぉ」
「無理よ、だってあんたは赤ちゃんだもの」
母さんは怒っているのか笑っているのかよくわからない表情で、なおもシャツを無理やり脱がせようとする。母さんの額の傷は、うっすらと赤みを帯びている。
と、ビリッという音がした。僕のお気に入りの青いTシャツは、べろんべろんにのびて、縫い目が大きく裂けていた。
「ああもう、どうするのよ、もう着れないじゃない!」
母さんはやっと手を離すと、いっぱいに涙をためた僕をにらみつけながら、吐き捨てるように言った。
「なに泣いてんのよ、あんたが悪いんじゃない。わかってる? 私をこんなに怒らせたのは、あんたなんだからね!」
僕は何ひとつ口答えできないまま、ただベソベソと泣き続けた。そして思うのだった、僕はやっぱりいい子なんかじゃなかった、あれはただの勘違いだったんだって。
ばあちゃんの家の廊下に置かれた古い本棚の中に、うっすらと埃をかぶった赤い表紙のアルバムがある。そっと開いてみると、色あせたセピア色の写真には、僕と同い年くらいのおかっぱ頭の女の子と、赤ちゃんを抱っこした女の人が写っていた。
ばあちゃんはひょいとそれをのぞき込むと言った。
「ああ、そのおかっぱ頭が万由子――青慈の母さんで、ばあちゃんに抱っこされてるのが、千恵子おばちゃんだな」
ふうん、と返事をしながら、僕は素朴な疑問を口に出した。
「ねえ、母さんって、ばあちゃんの本当の子供?」
こうして改めて写真で見ると、ばあちゃんと母さんはまったく似ていなかった。それに比べると写真の中の千恵子おばちゃんは、赤ん坊なりにもどこかばあちゃんの面影を宿しているように思えた。
ばあちゃんは、まんまるい目をくりくりっとさせて、僕のほっぺを両手で挟んでにぃーっと笑った。
「ああ、もちろんそうだよ。青慈の母さんはな……ほーら、じいちゃんに似たんだな」
そう言ってばあちゃんがめくった次のページが、まさに僕が疑問に思っていたことの答えになっていた。
黄ばんだ台紙に張られていた写真には、玄関を背景にして一人の男性が写っていた。横真一文字に結んだ口元、角ばったえらと頬骨、まっすぐこちらをにらみつけるような強い眼差し。直立不動のその姿は、可愛そうなくらいの堅苦しさを感じさせた。母さんがこの人の血を受け継いでいるのは、一目瞭然だった。
「母さんって、どんな子供だったの?」
僕がそう尋ねると、ばあちゃんは昔を懐かしむように目を細めながら言った。
「そうだな……万由子は、とにかく我慢強い子だった。
じいちゃんも、大ばあちゃんも、どっちもひどく厳しい人でなぁ。『子供は甘やかすと癖になる』っていうのが口癖だったわ。箸の使い方が悪いとピシッと手を叩くし、姿勢が悪いと言っては背中に竹の物差し入れるし。万由子は長女だったから特に厳しくされてな、とにかくいっつも怒られてた。でもあの子はただ口をぎゅっと結んで、じーっと我慢してるんだわ。それがまた、けなげで、かわいそうでなぁ」
そう言ってばあちゃんは遠い目をした。
母さんもいつも僕の手を叩き、背中に物差しを入れたりもする。そんな時の、鬼の様な形相で僕をにらんでいる母さんと、我慢強くけなげな女の子は、どうしても頭の中でうまく結びついてはくれなかった。
それからしばらく経ったある日の放課後、いつものように遊び疲れて縁側に寝そべっていた僕は、庭の隅の石榴の木の下に、小さな女の子がじっと立っているのを見つけた。
見間違いかと思って何度も目をこすって見直したが、それは確かに女の子の姿をしていた。白くて裾の広がったワンピースからは、不似合いなくらい浅黒く細い手足がにゅっと出ていた。ふわふわと波打った黒髪が小さな顔を包み、まん丸の瞳はビー玉みたいに透き通っている。あごは細く締まり、コーラルピンクの小さな唇は、まるで泣くのを我慢しているかのように、ぎゅっとへの字の形に結ばれていた。
僕が驚いてじっと見つめている間、その子もじっと動かず何もしゃべらず、ただそこにいた。ばあちゃんはというと、いつものようにニコニコしながら僕の隣でさやえんどうの筋を取っている。
全身から変な汗が出てきた。ばあちゃんに聞いてみようとしたが、どうしても声が出ない。僕はしばらくの間、身じろぎもせず、ただ口だけをパクパクさせていた。
「ん? どうした?」
ばあちゃんがそんな僕の様子に気付いてくれた時には、もうその子は煙のようにいなくなっていた。
僕は夢を見ていたのだろうか? 幻? それとも……幽霊?
それからも時々、その女の子は現れた。ある時は納屋の入り口から、またあるときは裏庭に続く小道からひょっこりと顔を出し、大抵は最初の時と同じように、ただ黙ってこっちを見ていた。そしてやはりいつの間にか、溶けるように姿が見えなくなるのだった。
最初は怯えていた僕だったけれど、何度もそんなことが続くうちに、不思議と怖さを感じなくなっていった。そしてこんな風に思い始めたのだ。
あの子はもしかしたら、この家の守り神なのかもしれない。いつかテレビでやっていた、座敷わらしみたいなものなんじゃないだろうか? だからきっと僕は、あの子を見るとこんなにホッとするんだ。
でも彼女はもちろん、座敷わらしなんかじゃなかった。
その日もやはり、彼女はいつものようにどこからかふっと現れて、怒ったような泣きそうな顔でしばらく僕の顔をじっと見つめていた。
ただいつもと違っていたのは、そのあとおもむろに口を開いてこう言ったことだった。
「……何で泣いてんの?」
僕は、ぎょっとした。
彼女が話しかけてきたせいだけじゃない。その日の僕は、涙こそ流してはいなかったけれど、まさに泣きたい気分でいっぱいだったからだ。
前の晩、父さんと母さんがいつになく激しい口調で言い争っていた。僕はもうベッドに入っていたけれど、階下から聞こえてくる荒々しいやりとりに、すっかり身動きできなくなってしまった。
「出て行く」「いないほうが」なんて言葉が、ところどころに聞こえてきた。
どうしよう、母さんがいなくなったら。
どうしよう、父さんがどこかへいってしまったら。
目が覚めて二人ともいなかったら?
僕は悪い子だから、捨てられるかもしれない。
そうしたら僕は、一体どうしたらいいんだろう。
そんなことを考えていたら、胸の鼓動がどんどん大きく早くなって、怖くて眠れなくなった。明け方になってやっと少しうとうとしたと思ったら、今度はいやな夢を見た。
見渡す限りの砂浜。空から長いロープが下がっていて、大きなブランコになっている。何人かでそれを一生懸命こいでいるうち、なぜだかロープが切れてブランコもろとも砂浜に叩きつけられそうになる。
すごいスピードで地面が迫ってくる、ああ、もうだめだ!
砂浜に激突する直前で目が覚め、飛び起きた。
パジャマは汗でびっしょりで、しばらくの間、心臓の音がバクバクいっていた。
その日は、授業中も休み時間もばあちゃんの家に来てからも、ずっとその夢が頭から離れなかった。
そして、
『……何で泣いてんの?』
そう彼女に話しかけられたとき、ようやくわかったんだ。
僕は、本当はずっと不安で、心細くて、そしてすごく泣きたかったんだということが。
そう思ったら、まるで何かが溶け出すかのように、自然に涙がこぼれ落ちてきた。
ビー玉みたいな瞳に見守られながら、僕はそのままひとしきり静かに泣いた。涙が頬に温かく、泣くほどに心が落ち着いていった。
「……ありがとう」
すっかり穏やかな気持ちになってそう言うと、彼女はほんのちょっとだけ小首を傾げ、またすーっと姿を消してしまった。
すると、ちょうどそれと入れ替わるかのように、一人の女性が青い顔で、辺りを見回しながら入ってきた。そして僕を見つけると、か細い声で、驚いたようにこう言ったのだ。
「……青慈君……よね? ああ、本当にお父さんそっくりね」
嬉しそうに笑うその顔に、なんとなく見覚えがあるような気がする――考え込んでいる僕の後ろでばあちゃんの声がした。
「ああ千恵子、来てたのかい」
なんとその女性は、写真で見たあの千恵子おばさんで、女の子は、いとこのぱせりだったのだ。
ぱせりは僕と同い年で、町内のもう一つの小学校に通っていた。いつも、千恵子おばさんが夕飯の準備にかかりきりになっている間に、こっそり抜け出してここに来ていたらしい。大人しく一人で遊んでいるものと思っていたら部屋はもぬけの殻で、びっくりしたおばさんは、あちこち探し回っていたのだという。
ばあちゃんはというと、年のせいで目がよく見えず、今までずっと、ぱせりが来ていることに気付いていなかったらしい。
「なんだい青慈。知ってたなら、ばあちゃんに言えばよかったじゃないか」
「そりゃそうだけど……ずっと幽霊か座敷わらしだと思ってたんだもの」
ばあちゃんは腹を抱えて大笑いした。千恵子おばさんは、可笑しいような困ったような複雑な顔で微笑んでいた。ぱせりは相変わらず口をへの字にして、ずっと黙っていた。
学校でも何も話さないから、先生がほとほと困り果てているの、それを聞いてあの人怒っちゃって……とおばさんが消え入りそうな声を震わせ、深いため息をついた。細い指で押さえた左の目の下には青い痣ができていて、それを見た瞬間、心臓が止まりそうになった。
ばあちゃんは、おばさんを慈しむようにじーっと見つめてからこう言った。
「大丈夫だよ。この子はね、自分に必要なことをちゃぁんと知っているよ。私らにはよくわからない何かがあるのさ、大丈夫」
そう、これなんだ。
ばあちゃんはいつも、そうやって僕のことも信じてくれている。だからばあちゃんといると、自分がいい子になったような気がする。僕は僕を好きでいていいと、そう思えるんだ。
僕はまたひとつ、胸の奥にぽっと灯りがともったような気がした。
「おやつができたからな、ぱせりを探してきてくれるかい?」
甘辛いたれをからめたお団子を大きな器に盛りながら、ばあちゃんが言った。
ぱせりはあれからも、いつの間にかやってきては、ひっそりと地面に絵を描いたり、庭の隅っこで木の葉を集めたりして過ごしていた。誰に邪魔されることもなく黙々と一人遊びを続けるぱせりと、それをそっと見守るばあちゃんを見ていると、僕はなぜだか静かで温かい気持ちになった。
姿の見えないぱせりの名を呼びながら、離れの横の細い通り道を抜け、家の裏に回った。納屋の裏には数個ずつ束ねられた玉ねぎが所狭しとぶら下がり、手前には大きな糠床の樽がどっしりと置かれている。
その先に、竹箒で掃き集められた赤茶色のケヤキの落ち葉が山を作っていた。枯葉がたまるとばあちゃんは、じっくりと何時間もかけてさつまいもを焼いてくれる。黒焦げの皮に包まれたほくほくと甘い焼き芋は、僕の大好物だった。
裏庭の一番奥には、大きな銀杏の木が空に向かってぐん、と力強くそびえ立っている。ちょうど今の時期、風が吹くたびにはらはらと落ち葉が舞い、その一帯はまるで黄金色のじゅうたんがぎっしりと敷き詰められているようだった。
見ると、そのじゅうたんの上に、静かにぱせりが横たわっていた。どのくらいそうしていたのだろう、白い刺繍入りのブラウスと水色のスカートの上にも、銀杏の葉が積もり始めている。黄金色の落ち葉にまみれたぱせりは、まるできれいな一枚の絵のようだった。
「ぱせり?」
呼びかけに応えるかのように、ガサッとかすかな音がした
「ボクは、いない」
ぱせりはたまにしゃべるときも、自分のことを「ボク」と言い、ぶつ切りのぎくしゃくとした独特の話し方をした。僕は、それが嫌いではなかった。
「じゃあ僕も」
そう言ってくすくす笑いながら、一緒にごろんと寝転がった。
いつもまっすぐ強い光を放つぱせりの目は、その日はなぜだか、どこを見ているのかわからない曇りガラスのようだった。
見上げると空は吸い込まれそうに高く青く、それを背に黄色い葉がひらひらと揺れながら僕たちに向かって落ちてくる。思わず手を伸ばしてつかもうとするが、すんでのところで指先からするりと逃げていってしまう。
何度も繰り返すうちに、なぜだか胸の奥にしくしくとたまらない悲しみが押し寄せてきた。
「……おまえ、何で泣いてんの?」
そんな言葉が不意に口をついて出た。
もちろんぱせりの目から涙なんて流れてはいない。ただ、この悲しみは自分のものではない、そんな気がしてならなかったのだ。
ぱせりは一瞬ぎょっとした顔をして、それからくしゅっと顔を歪めた。
こいつ、このまま泣き出すに違いない、そう思ったけれど、実際にはそんなことはなくて、泣きそうな顔でかみ締めた唇を、ほんのかすかに震わせただけだった。
「大丈夫だよ」
僕は、どうしたらいいのかわからないまま、ぱせりの頭をそっと撫でた。
ふわふわに波打った細い髪やすべすべのほっぺたからは赤ん坊のミルクのような甘ったるい匂いがして、鼻の奥をくすぐった。ぱせりの目は、いつの間にかまたビー玉のような光を取り戻し、それでも苦しそうに僕をただ見つめていた。
あの日、ぱせりが『何で泣いてんの?』って問いかけてきた時、僕も涙なんか流していなかった。でも、きっと僕は心の底で、自分が泣いていることを誰かに見つけて欲しかったのだと思う。
あの瞬間、それまで誰も住んでいなかった僕の心の中に、ぱせりはすっと入ってきて、自分でも気付いていなかった悲しみに、ただ寄り添ってくれたのだ。そしてその温もりは、今でもずっと僕の中に残っている。
僕もそんな風に、ぱせりの心にただ寄り添いたい――でも、そのときの僕には、どうしたらいいのかまるでわからなくて、だから馬鹿の一つ覚えみたいに、ただくしゃくしゃになるまで、ぱせりの頭を撫で続けた。
やがて、あまりに遅い僕たちを心配して、ばあちゃんが探しにきてくれた。ばあちゃんは銀杏の葉にまみれた二人を見ると、目をまん丸にして、
「おや、まあ、銀杏の妖精かと思った。まあ、みごとに葉っぱだらけだなぁ。妖精もそろそろお腹空いただろ、団子はどうだい?」
と、心から楽しそうに笑った。
そのときのばあちゃんの丸っこいシワだらけの笑顔は、まるで太陽のように力強くそして温かくて、あまりに頼りない僕らの足元を、ずっと遠くまで照らしてくれる灯りのようだった。
「よし、ばあちゃんの団子、食べに行こう」
僕が勢いをつけて立ち上がり両手を差し出すと、ぱせりもカサカサと音を立てながら枯葉に埋まっていた両手を伸ばしてきて、ぐっと力強く僕の手を握った。やせっぽっちのぱせりの手は思ったよりずっと柔らかくて、そして温かかった。
その頃になると、父さんが家に帰ってくる時間はますます遅くなっていった。
毎晩のように二階にまで母さんのヒステリックな怒鳴り声が聞こえてきて、目が覚めてしまう。僕はそれを聞きたくなくて、頭から布団をかぶって耳をふさぐ。そうしていつも部屋の中でじっと息を潜めて、ただ嵐が過ぎ去るのを待っていた。僕が認めさえしなければ、それはただの夢であってくれるような気がしていた。いや、そうであってほしかったんだ。
朝になると僕は、家の中の重苦しい空気から一瞬でも早く逃れたくて、いつも一番乗りで登校した。ぞっとするような冷たい目をした母さんと顔を突き合わせているくらいなら、面倒くさい算数の計算や漢字の書き取りをしているほうが、数百倍もましだった。それに夕方まで我慢さえすれば、あとはばあちゃんの家にいられる。僕はそこでようやく、ゆっくりと深呼吸をすることができた。
そんな風にして僕の子供時代は過ぎて行き、そして残念なことに、突然終わりを迎えた。
ある日の国語の授業で、「夏休みの思い出」という作文の発表があった。一人の男子が、ばあちゃんの家で一緒に虫取りをした時のことを書いたものだから、それを聞いてみんなが、自分も行ってみたいと騒ぎ出したのだ。
「いいよ。でも、いっぺんにあまりたくさんだとばあちゃんが大変だから、そうだな、一日四人ずつにしよう」
じゃあ今日は俺、いや俺が先だとクラス中が争う様子に僕はすっかりいい気分になり、ひどく勿体ぶった態度でその日のメンバーを選んだ。
学校が終わり、我先にと目を輝かせながら庭に駆け込んできた小さな乱入者たちに、ばあちゃんは最初こそ目を丸くしていたが、すぐにいつものようにニコニコしながら鍋一杯のふかし芋を用意してくれた。
みんなは、僕が最初にここにきた時と同じように、夢中で庭を走り回り、木に登り、そこらじゅうを探検して回った。そんな様子を見ているうちに、いつしか僕も普段以上の興奮状態に陥っていたのだろう、いつもなら絶対しでかさない、してはならないミスを犯してしまったのだ。
日が傾いてくるとばあちゃんは、帰らなくてもいいのかと、何度も声をかけてくれた。でもすっかり気が大きくなっていた僕は、「大丈夫、大丈夫」と言ってずっと適当に聞き流していた。いや、本当は、クラスメートの前で「遅くなると母さんに怒られるからもう帰ろう」なんて、口が裂けても言いたくなかったんだ。
結局、ばあちゃんの家を出る頃には、すっかり日が暮れていた。
薄暗い川べりの道をばあちゃんと歩きながら、僕はひたすらに祈り続けていた。
どうか母さんがまだ帰っていませんように。
けれども、そんな僕の願いを嘲笑うかのように、玄関の明かりは煌々とあたりを照らしていた。背中を一筋の冷たい汗が流れた。
身を固くして玄関に足を踏み入れた瞬間、予想通り母さんが鬼の様な形相で怒鳴り始めた。
「青慈、今何時だと思ってるの、もう真っ暗じゃないの!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
謝る声が、体中が震える。
「お母さん、暗くなる前に帰してって、お願いしてあったわよね? 私、言ったわよね? 青慈まであの人みたいになったら、どうするの。責任取ってくれるっていうの!」
そのとき僕はようやく、自分が致命的な間違いをしてしまったことに気が付いた。
遅くまで帰ってこない――そのことは今の母さんにとっては、ほかの何よりも許しがたいことだったのだ。よりによって、こんなときに僕は、なんてことを――でも、後悔しても後の祭りだった。
母さんの額の傷が、ほのかに赤みを帯びてくる。
違う、ばあちゃんは何度も、もう時間だよって声をかけてくれてたんだ。僕がもうちょっと、もうちょっとって……
でも僕はうつむいたまま、声を出すどころか身動きひとつできなくなっていた。
ばあちゃんは何の言い訳もせず、ただ背中を丸めて、
「済まんかったねぇ、悪かったねぇ」
そう言って何度も頭を下げている。
「そんなにぺこぺこ謝られると まるで私のほうが悪いみたいじゃない。私、そんなに変なこと言ってる?」
母さんは、口元をゆがめ、握ったこぶしで下駄箱をせわしなくコツコツと叩き続けた。
「世話になっておいてこんなこというのもなんだけど、母さんの所に行くようになってから、青慈はものすごくわがままになったわ。こっちが疲れて帰ってきて急いでご飯の支度してるときに、どうでもいいような学校の話をしつこくしてくるし、この間だって、いきなり甘い卵焼きが食べたいとか言い出すのよ! 今まで一度も、そんなことなかったのに……
困るのよ、こんな風に甘やかされると。私はこの子をこれ以上わがままにしたくないの。相手の事情を考えずに人に迷惑かけるような子になってほしくないのよ」
その瞬間、それまで穏やかな様子で文句を聞いているだけだったばあちゃんが、顔を上げ凛とした表情で母さんの目を見据えた。
「青慈はわがままなんかじゃないよ。この子は、いつも周りのことちゃあんと考えてるよ。
おまえこそ、この子がいつも見えないところでどれだけいろんなことを我慢しているか、考えてみたことあるのかい?」
母さんは一瞬たじろいだような顔をしたが、すぐに吐き捨てるような口調で答えた。
「何? じゃあ、私が青慈のことちゃんとわかってないって言いたいわけ?
これだけふらふらになりながらがんばっても、まだ足りないんだ?
そしたら青慈、このままばあちゃんとこの子供になっちゃえばいいじゃない、そしたら時間が守れないくらいでこんなに怒られなくてすむわ。そうでしょう?私だってそのほうが楽だし、あんたもそれがいいんでしょう? そうよ、私が嫌ならいっそのことばあちゃんに育ててもらいなさいよ!」
最初は抑えていた母さんの口調が激しくなるにつれ、額の傷跡がさらにくっきりと浮き上がってきた。白目も恐ろしいほど興奮して血走っている。
僕の目からは、いつの間にか涙がぽろぽろこぼれていた。
「泣かんでいい、泣かんでいいよ。あんたが悪いわけじゃないんだから」
ばあちゃんがそっと肩をさすってくれた。
母さんはそんな僕を見て、冷たく言い放った。
「ちょっと怒られたくらいで泣くんじゃないの、まったく、情けない」
違う、そんなんじゃない!
でも僕はその気持ちをうまく言葉にできなかった。ただもうこれ以上泣いてはいけないのだと思って、眉間に力を入れ、ぎゅっと唇を噛んだ。だが、そんな僕の様子を見て母さんは言った。
「何、その反抗的な目は。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよっ」
ああ、もう、そうじゃない、にらんでいるんじゃないのに……!
でも、こうなったらもう、何を言っても無駄なのだ。いつもそうだ、母さんは自分が信じるようにしか見ようとしない。母さんの周りにはものすごく頑丈な壁があって、どんなにがんばってみたところでそのままの言葉なんて届きはしないのだ。
ごめんなさい、ばあちゃん。
ばあちゃんは悪くないのに、ぼくのせいで、こんなにもいやな想いをさせてしまった。
その日僕は布団に入る前に、両手を組んで神様にお祈りした。
「今まで、僕だけあんなに楽しい時間を過ごしてごめんなさい。もうしません。これからはいい子でいます。お手伝いも、勉強もします。だからどうか、許してください。
どうかもうこれ以上、母さんが恐ろしい鬼になりませんように。そして僕たちがまた、仲のいい家族に戻れますように」
そして次の日から僕は、ばあちゃんの家に行くことを一切やめてしまった。
それでもまだその頃は、母さんが怒ってばかりいることも、父さんが夜中に飲んだくれて帰ってくることも、自分の家なのにどこか居心地が悪くて、悲しいのか腹が立っているのかわからない変な気分になることも、きっとどの家でもよくあることで、ただ自分がもっとがんばりさえすれば事態はよくなるはずだと思っていた。いや、そう信じようとしていた。
それがものの見事にひっくり返されたのは、小六のゴールデンウィーク明けだった。
いつものように、学校が終わるとまっすぐ家に向かった。母さんが帰る前に洗濯物をたたみ、米をといでおくためだ。
が、玄関に入ると、その日は珍しく父さんの靴があった。きっと仕事が早く終わったのだろう、とにかくこれで今日は、夜中の言い争いを聞かなくて済む。そう思うとホッとして、思わずソファに駆け寄った。
考えてみたら、父さんとちゃんと顔を合わせるのは、ずいぶん久しぶりだった。父さんはいつも僕が寝ているうちに仕事に行ってしまうし、帰ってくるのは僕が布団に入ってからだった。だからかもしれない、なんとなく僕はその時、幼い頃公園で僕を嬉しそうに見ていた父さんの姿を思い浮かべていたんだ。
「父さん、お帰り!」
でも、弾んだ僕の声に驚いたように振り向いた父さんは、あの時と違って、僕を見てもにこりともしなかった。ただ、お酒の匂いをぷんぷんさせて、少し眉をひそめた悲しそうな顔をゆっくりこちらに向けただけだった。どろんと濁った暗い瞳。
今まで見たことのない父さんのその様子に、僕は驚いた。でももっと衝撃的だったのは、そのすぐ後に息を切らして家に帰ってきた母さんの行動だった。
血相を変えて大声で叫びながら父さんにつかみかかる母さんの姿は、まるでドラマのワンシーンのようだった。
……いつから仕事に行ってなかったの……
会社のお金を使い込んで、一体どこで飲んだくれて
……クビになったなんて……
これからどうやって……
母さんの金切り声が、切れ切れに聞こえた。
テーブルはひっくり返り、食器や服や郵便物や、あらゆるものが一面にばらまかれ、その混沌の真ん中で母さんが、般若のような顔で仁王立ちになっていた。額の傷跡がはちきれそうに赤く膨れて見えた。
「一体どういうつもりなのよ! 私がどれだけ頑張ってきたと思ってるの?
毎日毎日仕事して、買いたいものも我慢して必死に倹約して、どんなに疲れてても、家の中のことも、青慈のことだってきちんとやってきたわ。なのにあんただけ好きなように遊んで、呑んだくれて、やりたい放題やって、今度は会社までクビになって……!
どうしてよ、どうしてわかってくれないの? ねえ、私がやってることおかしい? 何か間違ってる?」
母さんは、父さんのはだけたワイシャツの襟元をつかみ、激しく揺さぶりながら詰め寄った。
「あぁ、おかしくないょ、間違ってない。ダメなのはぁ、俺なんだ……俺が悪ぅいんだ。俺さえいなくなぁれば……いいんだ」
父さんは母さんの顔から目をそらすようにして、上手く回らない舌で弱々しくつぶやいた。
「ちゃんと、幸せにしてやろうと、思ってたのになぁ。ああ、思うだけじゃ、ダメだ……俺は、ダメだ。すまんなぁ、おまえも、こんな男と一緒になっちまってぇ、もっと、きちんとした男とぉ、結婚すれば……よかったのになぁ」
そう言って父さんは、がっくりと肩を落とした。重苦しい空気の中で、父さんのすすり泣くような声だけが響き続けた。
僕はその間中、体が平面になってべったりと壁に張り付いているかのように、身動き一つすることができなかった。
永遠とも思えるほどの時間の後、壁に手を伝いながらゆっくりと立ち上がった父さんは、体を危なっかしく揺らしながら、おぼつかない足取りで外に出て行ってしまった。
「ダメって、何よ、すまんって、一体どういうことよ……」
床に座り込んだ母さんは、うわごとのようにその言葉を繰り返していた。と、その息がだんだん荒くなり、肩を激しく上下させ始めた。
「母さん? どうしたの?」
その声が合図であったかのように、苦しそうに顔を歪めた母さんの体からはずるずると力が抜けて、とうとう床に倒れこんでしまった。
「母さん、母さん!」
いくら呼んでも、苦しそうにあえぐばかりで返事にならない。
どうしよう。母さんが死んじゃう!
どうしたらいい?
その時、脳裏にパッとばあちゃんの顔が浮かんだ。
ああ、ばあちゃん、助けて!
ばあちゃんは裸足にサンダルをつっかけ、寝巻きの上にカーディガンをはおっただけの姿で、息を切らし、すぐに駆けつけてくれた。
「うんうん、大丈夫だから。ほら、ゆーっくり吸ってごらん……今度は、吐いて」
声をかけ紙袋を口に当てているうちに、母さんの呼吸はだんだん落ち着いていった。ばあちゃんは、まだ力が入らない様子の母さんを支えながら、奥の寝室に連れて行った。されるがままの母さんは、どこかほっとしているようにも見えた。
その後ばあちゃんは、僕のために風呂の準備をしてくれた。体は鉛のように重く、動くのがひどく億劫だった。とてもシャンプーなんてする気にもなれず、しばらくただぼんやりと湯舟につかっていた。はっと気付くと、ばあちゃんが風呂場のドアをノックしていた。
「青慈、大丈夫かい? のぼせてないかい?」
いつの間にか一時間近くたっていたらしい、慌てて風呂から上がって台所で水を飲んでいると、ばあちゃんが海苔を巻いた塩むすびを僕の手に持たせてくれた。
「そんな気になれんかもしれないけどな、ちょっとでも食べとけ」
僕は言われるままそれにかじりつくと、ゆっくりと口を動かした。これは確かに僕の体のはずなのに、まるで自分が食べているんじゃないようだった。
ねえ、ばあちゃん。
こうなったのは、僕のせい?
僕が悪い子だから?
もしそう問いかけたら、ばあちゃんはきっぱりと「そんなことないよ」って言ってくれるだろう。僕はそれを望む一方で、けれども心の中に頑としてそれを受け入れまいとする何かがあることも感じていた。
ばあちゃんのグレーのカーディガンはあちこち毛糸の結び目が出ていて、どうやら裏返しに着ているようだった。大慌てでそれを羽織って飛び出してくるばあちゃんの姿が目に浮かんだ。そしたら急に、何かの固まりがぐっと喉元に込み上げてきて、ぎゅうっと丸めたハンカチがふわっと広がるみたいに、両目から熱い涙がぽたぽたと落ちて、ご飯粒のついた手に落ちてきた。
「なぁ、なんでだろうなぁ」
そうつぶやくばあちゃんも目頭を押さえながら、何度も何度も僕の頭をなでてくれた。
その後の二年余りは、僕の短い人生の中でも、どうしようもない最悪の時期だった。
学校帰りの川沿いの道をとぼとぼと歩きながら、いつもいつも僕はひそかに期待していた。すべてが夢であることを。そうでなければ、誰かが神様のように、この状況を一気になめらかに解決してくれることを。
だけど、玄関のドアを開け、すえたような臭いが鼻をついた瞬間に、ひっそりと抱いていたかすかな期待は無残にも打ち砕かれ、静かな失望が一気に僕を取り囲む。
ああ、やっぱり。
父さんが、居間のソファにだらしなくもたれかかって、いびきをかいて寝ている。すっかりつやのなくなった髪が何本も抜け落ち、ソファに乱れて張り付いている。ズボンのチャックはほとんど開いていて、その周りに濡れたような染みができている。
僕はそれでもなおあきらめきれず、最後の悪あがきをする。
「父さん、早く起きて。そしてお風呂に入って着替えて。今ならまだ間に合うよ。ねえ、早く。早くしないとお母さんが帰ってくるよ」
「あ……あぁ、わかった、わかったよぅ」
体を揺さぶると父さんは、まったくロレツがまわらない様子で返事をする。
僕は、わかったという父さんの言葉に、必死にすがり付こうとする。が、まるで膜がかかったようなその瞳は、何の光も映しておらず、すぐにその返事が何も意味を持っていないのだと思い知らされる。
僕は父さんから目を逸らして壁にかかった時計を見る。もうすぐ仕事を終えた母さんが帰ってくる。焦りはいつしか無力感に取って代わり、あきらめが僕を支配し始める。
やがて、ガチャガチャと玄関の鍵を開ける音がする。ドアを開けた瞬間の、母さんの失望感が伝わってくる。体中の空気を全部吐き出すかと思うほどの、大きなため息。
「……ねえ。この間お酒やめるって言ったよね? それで仕事もちゃんと探すって約束したじゃない……ねぇ、約束したよね? 今度は本当にお酒やめるって、言ったよね?」
「あぁ……飲んでないよ。今日はちょっと……調子が、わ、悪くて、休んでただけだ。お酒は……飲んでぇ……ないっ」
母さんがキッとこっちを振り向いた。
「青慈、あんた何やってるの、ちゃんと見張ってろって言ったでしょ!」
「ご、ごめんなさい……」
懇願してみたり、泣いてみたり、怒ってみたり、どうにか父さんにお酒をやめさせようと僕なりに思いつくことはすべてやってみたけれど、まったく何の効果もなかった。いや逆に、どんどんひどくなっている気がした。
僕が知ってる父さんは、口下手ではあったけれども、決して嘘をつくような人ではなかった。だから、ひょっとしてここにいるのは父さんのように見えて実は別人なんじゃないか、とか、酔っているように見えても、実は本当にお酒を飲んでないのかもしれない、なんておおよそ現実的でないことを真剣に考えてみたりもした。それで一度だけ、ふらふらと亡霊のように家を出て行く父さんの後を、こっそりつけていったことがある。でも、足をひきずり、体をゆらゆらさせながら父さんが向かった先はやっぱり、近所の酒屋の前にある、自動販売機だった。
ズボンのポケットから小銭を取り出してカップ酒を買った父さんは、その場でふたを開けると、震える両手で大事そうに抱えた。そして唇をきゅうとすぼめながら何度も何度もカップを傾けて、最後までおいしそうに飲み干した。自動販売機の上には、いくつもの空のカップが、几帳面に同じ向きに並べられていた。
僕は体中から力が抜けて、膝を抱えてその場に座り込んだ。もうこれ以上、どうしていいか全然わからなかった。
そうこうするうちに父さんは、食事にほとんど手をつけなくなった。どんどん痩せて顔はどす黒くむくみ、人相が違って見えた。そんな状態でも体を引きずるようにしてお酒を買いに出ようとするのを、母さんは力づくで止めようとした。
毎日毎日父さんに振り回されて、家の中は酒と糞尿の匂いと涙と怒鳴り声でぐちゃぐちゃだった。僕たちはみんなもう、何もまともに考えられないくらい限界まで疲れ果てていた。
ある日とうとう母さんは、仕事を休んで父さんを病院に連れて行った。父さんはもちろん嫌がっていたが、実のところ、もう強く抵抗する力も残っていないようだった。
その日僕が学校から帰った時には、母さんは入院に必要な着替えやコップやスリッパをテキパキと用意して、もう一度病院に戻るところだった。
「やっぱり肝臓の検査の値がひどくて入院だって。これじゃあどっちにしろ、仕事なんかできるわけないわ」
吐き捨てるようにそう言う母さんは、けれどもどこか浮き浮きとしているようにさえ見えた。
そう、病気は父さんに免罪符を与えてくれた。一瞬のうちに父さんは「どうしようもない酔っ払い」でなく「手厚い看護が必要な病人」になったのだ。
その日僕は、本当に久しぶりに、ぐっすり眠ることができた。
週末には母さんに連れられて、面会に行った。
「洗濯してくるから」
母さんは病室に着くなりつっけんどんにそう言うと、椅子の上に置かれていた大きな袋をガサガサと乱暴に抱えて、さっさとどこかに行ってしまった。僕は何の心の準備もないまま、いきなり父さんと二人で取り残された。
ベッドの横の椅子に座り、どす黒くむくんだ顔の父さんと無言で向かい合っていると、そのまま一緒に闇に吸い込まれてしまいそうな気持ちになる。とてもいたたまれなくて、乾いたタオルを無理やり搾るように必死に言葉をひねり出し続けた。
「のど……のど渇いてない?」
「ああ」
「じゃあ、何か必要なものない?」
「……ないよ」
「……どこか痛い?」
「痛くない」
薄っぺらい僕の問いかけに父さんはぼそりと短く答えるだけで、あっという間にまたひどく気まずい沈黙が降りてくる。僕は一刻も早くそこから逃げ出したい気持ちで一杯だった。
そんな不毛な面会を繰り返しながら、それでも病院の治療というのはたいしたもので、週末ごとに父さんの顔色はぐんぐん良くなり、体に力が戻ってきているのが、僕みたいな子供の目にもよくわかった。表情も入院前とは全然違っていて、一ヶ月も経つ頃には、今まで見た父さんの中で、最もすっきりと穏やかな顔つきになっているように思えた。
そんなこともあって、僕たちは、すっかり勘違いしていた。お酒を飲みさえしなければ、父さんは以前のままの父さんなのだから、もうこれで何もかも大丈夫なのだと。
浅はかにもすっかりそう思い込んだまま、僕たち家族は、無事退院の日を迎えてしまったのだ。
「もうお酒はやめる」
家に帰ってきた父さんは、僕たちの前ではっきりそう宣言した。
「本当だね? 本当だよね?」
僕は何度も繰り返し、そのたび父さんは、かすかに笑ってうなずいてくれた。
そして実際に、僕らがそれぞれ仕事や学校にいっている間、今までやったこともない洗濯をし、掃除機をかけ、精力的に仕事を探しに出かけているようだった。それでよけいに母さんも僕も、あのひどい騒ぎはほんの一時的なものに過ぎず、このまま昔のような生活が戻ってくるのだと、そう信じ込んでしまったのだ。
だからこそ、ある日玄関のドアを開けた瞬間に、あの日とまったく同じ光景が再び目に飛び込んできた時のショックといったらなかった。
「今日は疲れたから、一杯だけな。なぁに、ほんの気分転換さ」
目を泳がせ酒臭い息を吐きながら、取り繕うような笑顔で父さんはそう言った。けれどその一杯が二杯になり、また以前のように一日中飲み続けるまで、たいして時間はかからなかった
ある時は酔って転んで、下唇からだらだらと血を流しながら帰ってきた。道端で酔いつぶれて動けなくなり、通報されたたことも一度や二度ではない。母さんはそのたび怒り狂い、興奮して離婚をちらつかせなら、時には包丁まで持ち出して、もう決して飲まないと約束させた。けれどそんなことはまったく意味がなかった。まるで坂道を転げ落ちていく石ころのように勢いを増しながら、父さんは壊れ続けていった。
家がそんな状態だったせいだろう、僕は学校が好きだった。いや、ずっとましだった、というほうが正確かもしれない。いい成績を取ることも先生に気に入られることも、父さんに酒を飲ませないことや母さんを怒らせないことに比べたら、とてもたやすく思えた。勉強は教わった通りに覚えればよかったし、言うことをしっかり聞いてさえいれば先生は僕を褒め、頼りにしてくれる。通知表には何度も「真面目で責任感が強い」と書かれ、クラス委員を任されることもしばしばだった。学校にいる限り、僕は自分を「それなりの人間」であると思えるのだった。
それなのに家に帰ったとたんに、僕はどうしようもない役立たずに成り下がってしまう。
わからないのだ、どうしたら母さんが怒らずにいてくれるのか、父さんが壊れていくのを止められるのか。学校の勉強には正しい答えがあったけれど、家では何が正解なのか、まったくわからなかった。何をしても事態は悪くなる一方で、それを見るたびに僕は消えてしまいたい気持ちになった。
そうして苦しく過ぎていく日々の中で、僕は中学生になった。
真新しい制服に身を包み、頬を紅潮させながらはしゃぐ新入生の群れ。その中に僕は、そのにぎやかな光景をただひっそりと見つめている懐かしい瞳を見つけた。
ぱせり――あの痩せて小さかった女の子は、数年の間に驚くほど背が伸び、そして美しく成長していた。ただ、ビー玉のような瞳とその寡黙さだけは、ちっとも変わっていなかった。
いや、それはもう寡黙などというレベルではなかった。彼女は授業中に指名されても、あきれるほど根気強く黙り通し、入学からひと月が過ぎる頃には、どの授業でもぱせりの順番を飛ばすのが暗黙の了解のようになっていた。彼女がどんな声をしているのか、おそらくクラスの連中も、もしかしたら先生たちも、誰一人として知らなかったに違いない。
もちろんぱせりは、しゃべれないわけではなかった。それは僕が一番よく知っている。ただ、少なくとも学校では、決して口を開こうとはしなかった。
かといって決して愚鈍なわけではなく、テストの成績は、常に学年で十位以内に入っていた。
それだけでも十分理解不能な存在として周囲から浮いていたけれど、さらにぱせりを有名にしていたのが体育の授業だった。背が高くて顔が小さい日本人離れした全身のバランスは、それだけでもたいそう目立っていたが、その動きは別の意味で独特だった。走ってもボールを投げても、曲がるべき関節が突っ張り、逆に伸ばすべきところが変な角度で曲がってしまう。何の競技の時でも、彼女がどこにいるのかはすぐにわかった。それはまるで、ぜんまい仕掛けのおもちゃのようで、傍から見ていると、どうしてもふざけているとしか思えなかった。が、その表情があまりに真剣なので、かろうじてそうではないとわかるのだった。
浅黒い肌に強い光を宿す黒目がちの瞳、濃い影を落とす長いまつ毛、長くすらりとした手足、そして優秀な頭脳。
馬鹿だな、もっとうまく立ち回ればいいのに。普通に振舞えてさえいたら、逆の意味で注目を浴びていただろうに。僕は、ぱせりを見るたびにそう思っては、こっそりと胸を痛めた。
ぱせりがクラスメートから遠巻きにされるには、もうひとつ理由があった。それは、左手首のリストバンドだった。運動部に入っているわけでもないのに、彼女は常に黒いリストバンドをしていて、一部の女子の間では、手首の傷を隠しているのだと噂されていた。何かの拍子にそれがずれて傷跡が見えたとか、ブラウスに血が滲んでいたとか、嘘か本当かわからないような話がまことしやかにささやかれていたのだ。
何人かの女子は、最初のうちこそからかうように、
「それ、とってみせてよ」
としつこく絡んだりしていた。が、ある時からぱったりとそんなこともなくなった。ぱせりのお父さんである僕のおじさんはあちこちに土地を持つ町の有力者で、下手なことをすると信じられないような嫌がらせをされてこの町にいられなくなる、という噂が広まったからだった。が、その結果、彼女はまさにクラスの幽霊みたいな存在になってしまった。
僕もまた、良心の呵責を感じながらも、ぱせりといとこ同士だということは一切誰にも言わず、廊下でも教室でもさりげなく目を逸らし、他人のふりをし続けた。そうしてきっちりと学校での顔を作り上げていなければすぐにでも壊れてしまいそうなギリギリのところで、僕もまた戦っていたのだった。
そうして同じ空間にいながら一度も言葉を交わすことなく、それでもぱせりは、いつも僕を見ていた。
『何で泣いてんの?』
そう問いかけてきたあの頃と同じ、ビー玉のようなまっすぐな瞳で。
けれどもそんな僕の学校生活にも、次第に暗雲が立ち込めるようになってきた。中学生ともなると、もう勉強ができるだけでは周囲に認めてはもらえない。それどころか逆に「先生のお気に入りのくそ真面目な奴」をひどく疎んじるような空気が強くなってくる。
僕は何でもけんか腰で話をする母さんが嫌いだったけれど、自分が同じ性質を受け継いでいることにも薄々気が付いていた。正しいか正しくないか、何をすべきかすべきでないか、それ以外に他人と何を話したらいいのかわからないのだった。僕は冗談というものが言えず、朗らかな会話がひどく不得手だった。
そんな僕が、クラスの男子の中で一番苦手だったのが、健太だった。
授業中もふざけてばかりで、毎時間のように先生に注意されても本人はまったく気にしない。掃除の時間も、ほうきをギター代わりにかき鳴らすふりをして周囲の笑いをとるばかりで、肝心の作業は一向に進まない。
「おい、ふざけてないできちんとやれよ!」
いくら注意しても、
「あれー、学級委員様に怒られちゃった。先生のお気に入りににらまれると、後が怖いから、気をつけなくっちゃ!」
とおどけるばかりで、埒があかない。
「お気に入りなんかじゃねーよ! それに、掃除と関係ないだろ」
そう言って僕がむきになると、
「あらら、怒っちゃった? 今のはうっそでーす」
と、ますます調子に乗ってからかってくる。僕はうまく切り返すこともできず顔を引きつらせるだけで、健太にも、そんな自分にも苛立ちを感じていた。
が、なんという運命のいたずらだろう。奴は、あろうことか、父さんが日に何度も足を運んでいる近所の酒屋の息子だったのだ。
ある時から、目が合うたびに健太が、それまでとは違う何だか意地の悪いニヤニヤ笑いを浮かべるようになった。そして僕のほうをちらちら見ては、近くの男子に何やら耳打ちをするのだ。
なんだかひどく嫌な予感がした。
そして、それが的中していたとわかったのは、それから間もなくのことだった。
ある日の掃除の時間、いつものように理科室に行くと、先に来ていた同じ班の男子が僕を見て言った。
「あれ? なんだか酒臭くない? あーやだな、ここ、すげーくせぇや。みんな、廊下のほう掃除しようぜ」
数人の女子たちが、
「やだー、そんなの、かわいそうじゃん」
と言いながら、困ったような媚びるような顔で、笑いながらついていく。
僕はすぐに、何が起こっているのかを悟った。そして、凍りついたように立ちすくんた。
理科室にただ一人取り残された僕。廊下から聞こえるくすくす笑い。頭にかーっと血が上り、世界が歪んで見えた。
これは、夢じゃないんだろうか。
いや、夢であってほしい。ただの僕の勘違いであってほしい。
が、それはもちろん勘違いなんかではなかった。翌朝、寝不足で鉛のような体を引きずりながら、祈るような気持ちで登校すると、僕の机の上にはワンカップの空瓶が置いてあった。嘲るような、哀れむようなクラス中の視線が、僕の反応に注目している。困ったような顔をして目を逸らす者もいた。
僕は精一杯のプライドで、先生が来る前にカップを片付け、何事もなかったような顔をして授業を受け続けた。
次の日は、黒板に酔った男の絵が描いてあったし、またその次は、僕の机で健太が酔いつぶれたふりをしていた。
「おおっと、飲みすぎた。きちんとしないと、委員長に怒られちゃう」
挑戦的な目で健太が言った。僕はこぶしを握り締め、でもそれ以上何もできないまま、ただ思い切り奴をにらんだ。
「うわ、怖い顔!」
みんながそのやりとりを面白がって見ている。ひどい屈辱感に、体が震えた。
とその時始業の鐘が鳴り、担任が入ってきた。いつもと違う教室の雰囲気に戸惑いながらも、
「どうした? ホームルーム始めるぞ、みんな席に着いて。ほら委員長、号令かけて」
と僕を促した。
委員長?
ふっ、今の僕がクラスをまとめる委員長だなんて、なんて素晴らしいジョークだろう。
もちろん担任は、何も気付きはしない。そう、どうせ大人には、何も見えやしないんだ。僕は起立、礼、と言いながら、心が一層冷たく凍っていくのを感じていた。
二年生になってクラス替えがあっても、状況は変わらないどころか、むしろエスカレートしていった。ノートや教科書は破られ、「アル中」とマジックで大きく殴り書きされた。カバンも靴も隠され、体操服からは酒の匂いがした。休み時間が終わると、みんなわざと僕の席の横を通っていく。小さな声でニヤニヤと「酔っ払い」とささやきながら。
むきになって反撃しても、からかう材料が増えるだけだと知った。これはショーなのだ。ただ面白がるためだけに人々は、僕という存在を暴力的に踏みにじっていく。僕一人の苦痛などなんでもないことのように、日常は流れていくのだ。僕は深い無力感を感じながら、やっとのことで日々をやり過ごした。それでも休まずに登校し続けたのは、一度休んだらもう二度と行けなくなるとわかっていたからだ。
そんな中でぱせりは、相変わらずいつも僕を見ていた。
『何で泣いてんの?』
そう問いかけるように。
当たり前だろう、こんな毎日、泣きたくもなるさ。
心の中でそう答えながらも、やはり実際にぱせりに話しかけることは決してしなかった。だって、いじめられてる二人が実はいとこ同士だったなんて、あいつらにとっては最高においしいネタじゃないか。
その頃になると母さんは、僕に対してはほとんど無関心になっていた。その代わり、まるで持てるすべての情熱を注ぐかのように、父さんの行動に逐一目を光らせた。
どこかに出かけてただの、また飲んだだの、手が震えてるだの、何日もまともに食事をしてないだの、風呂に入らないだの、そんなことを一日中がなり立てるのだ。父さんはお酒に取り憑かれ、母さんは父さんに取り憑かれていた。
ある日家に帰ると、母さんが、父さんの財布やズボンのポケットの小銭までも取り上げている真っ最中だった。だいぶ前からお金は持たせないようにしていたのだが、それでもいつの間にか父さんは、どこからか手に入れたお金でお酒を買ってきてしまうのだった。
母さんは真新しい小さな金庫に、家にある通帳も現金も何もかも入れてしっかりとロックをした。
「飲みさえしければ、父さんはまともなんだから。飲めないようにするしかないのよ。何度約束したってどうせ自分じゃ守れないんだから」
母さんは落ち窪んだ目を血走らせ、醜く顔を歪ませながら、吐き捨てるようにそう言った。額の傷跡がうっすらと赤くなっている。
父さんはひどく情けない様子で、しょんぼりとうなだれていた。
その姿を見ると胸が痛んだ。でももう、仕方がないのだ。今度こそはと約束し、それを信じ期待して、そしてその分深く失望する、一体何度そんなことを繰り返してきただろう。僕だってもう、今の父さんを信じることなんてとてもできそうになかった。僕も母さん伸びきったゴムのように疲れ果て、もうこのくらいしか、思いつくことなどなくなっていた。
ところがその数日後、父さんはあっけなく、それも最悪のやり方で僕たちを裏切った。
その日僕が学校から帰ると、例によって染みだらけになったソファの上で、父さんが酔っ払って寝ていた。
「あー、またか。一体どうやってお金手に入れたんだよ……」
僕は大きなため息をついてひとりごちると、いつものように二階に上がった。すると……なんということだろう。机の上に置いてあった赤いポストの貯金箱がぱっかりと割られていたのだ。
それは、二人の結婚記念日に何か買おうと、こつこつ貯めていたお金だった。もちろんプレゼントくらいで何かが変わるなんて思ってはいなかったけれど、僕にとってそれは、最後の願掛けのようなものだったのだ。
胸の奥が、冷え冷えと音を立てて凍りついていく。
そして僕は気付いたのだ、自分がどこかでまだ信じていたことに。父さんはあんなになってもまだ、僕のものにまでは手を出すはずがない、と。
僕はその場にへたり込み、ひとしきり声を上げて笑った。
しばらくしてから、あれ、顔にごみがついている、そう思って振り払った手の甲についていたのは、涙だった。
ちょうどその次の日、校内の写生大会があった。場所は、ばあちゃんと夜道を歩いた、あの川の土手だった。
みんなは仲のいい友達同士ガヤガヤおしゃべりをしながら、適当な場所を探し始めた。僕は人ごみを避けるように、少し離れた橋の下を目指した。案の定そこには誰もいない。僕はほっと胸をなでおろした。
川面を描こうか、それとも岸辺の桜の木にしようか。あれこれ考えながら、指で作った四角をのぞきこんだ。とそのとき、四角の隅っこに見覚えのあるカーキー色のジャケットが見えて、心臓がドキッとした。
父さんだ。
髪がぼさぼさで、服もひどく乱れている。
こうして見ると目つきもおかしいし、顔もひどく黒ずんでいる。片方の手には、お酒のカップが握られていた。
お酒――僕の貯金箱から盗んだお金で買ったお酒。
僕はぎゅっと唇を噛んで、そこから目を逸らした。
やがて、同級生たちが騒ぎ始めた。意地の悪い笑顔で、父さんを指さして口々に何か言っている。
「なぁ、見ろよあれ、浮浪者じゃね? 頭おかしいのかな」
「酔っ払いじゃん、きったねー格好!」
「なあ、あれってさ、もしかして……」
次の瞬間、たくさんの好奇と悪意に満ちた視線がいっぺんに突き刺さるのを感じた。体がカーッと熱くなり、心臓が大きく脈打っている。僕は精一杯のプライドで、無理やり何でもないような顔を作り、父さんがいるのと真逆の方向に足を向けた。
と今度は背後に、父さんの視線を感じた。父さんはあのどろんとした目で、僕を見ている。少し眉をひそめた、悲しそうな顔で。
ちくしょう、ちくしょう、なんでそんな風に僕を見るんだよ!
大声で叫びたいような衝動を、僕は必死に押さえ込んだ。そして誰にも見えない橋のたもとに隠れて足を踏み鳴らしながら歯を食いしばり、両手で自分の体を震えるほど力一杯握り締めた。
どのくらいそうしていたのだろう。
ようやく波が引くようにその衝動が去っていったのはもう夕方で、みんな帰り支度を始める頃だった。僕は慌てて橋の下から見た風景を、画用紙の上に描きなぐった。
結局それが、生きた父さんを見た最後となった。
その日も、翌日も、父さんは帰ってこなかった。僕は学校が終わると、以前父さんが酔いつぶれて動けなくなっていた路地や、酒屋への道のりや、川のほとりを探し回った。母さんはとうとう警察に捜索願を出した。
そして数日後父さんは、川の下流で遺体となって発見されたのだ。
その後のことは、なんだかよく覚えていない。
警察からの電話も、白い布の下にあった作り物のような父さんの死に顔も、花でいっぱいの祭壇も、やたら声の通る坊さんのお経も、みんなレンズの向こうで起こっている映画の中の出来事のようだった。
母さんは葬儀の間中、背筋をぐっと伸ばしてまっすぐ前を向き、口を真一文字にきつく結んでいた。何かをにらんでいるようでも、何も見ていないようでもあった。
すでに会社をやめてしまっていた父さんの葬式は本当にひっそりしたもので、ごくごく身内だけで執り行われた。ぱせりは相変わらずのへの字口で、今にも泣き出しそうな顔をしていた。千恵子おばさんは、おろおろと泣いてばかりいた。おじさんらしき男性はいかにもやり手と言った風情で、泣き続けるおばさんを見ては何かつぶやき、神経質そうに眉をひそめていた。
ばあちゃんも、ずっと泣いていた。
あったかいばあちゃんのシワだらけの手は、何度も僕の頭や背中にそっと触れた。
だがそのときの僕にはそれさえも現実感のないもので、ああ、とうとう僕は、本格的におかしくなってしまったのかもしれない、と頭の片隅で考えていた。
僕はまるでロボットになったみたいに、何の感情もないままあたりに目を向けていた。気をつけていないと、自分のあまりの冷静さに思わず笑ってしまいそうにさえなった。が、ありがたいことに、それを抑えるくらいの理性は、かろうじて残っているようだった。
遺影には、家族三人で公園に行った、あの日の写真が使われていた。
写真の中の父さんは、たくさんの花に囲まれて、こっちを見て優しげに笑っていた。まるで、この上なく幸せな人生を終えた人であるかのように。
ごめんなさい。
僕がいつも母さんを怒らせて、父さんをがっかりさせてた。
僕がもっといい子だったら、こんなことにはならなかったんだ。
ごめんなさい、ごめんなさい。
自分がどんどん小さくなって、消えてしまいそうな気がした。ううん、そうじゃない、僕はそのまま消えてしまいたかったんだ。
忌引きが終わり一週間ぶりに登校すると、クラスの空気はすっかり変わっていた。
「あの酔っ払いのおっさんさぁ、俺たちにいじめられて、川に飛び込んじゃったのかなぁ」
健太が以前と変わらない意地悪な口調でそう言った瞬間、教室がしーんと静まり返った。慌てて顔を引きつらせる健太に、みんなが冷ややかな視線を投げかけた。
だが、健太に同調する奴もいなかった代わりに、僕を庇う者もいなかった。誰もが何気なく僕から目を逸らし、何もなかったかのように振舞おうと必死だった。
みんな、かつて出会ったことのないほどの特大の不幸を抱えた人間を、どう扱っていいのかわからず戸惑っているのだった。無理もない。これは確かに、いじめのネタにし続けるにはあまりに重すぎる出来事だった。
が、そんな中でひとつわかったことがあった。存在そのものを無視されるよりも、からかわれ馬鹿にされるほうが、まだいくらかはましだということだった。
休み時間に教室にいるのがいたたまれなくて、僕は廊下に出た。そして、壁一面に張り出された写生会の時の絵を、一枚ずつ丹念に眺めるふりをしていた。
ところがある絵のところに来たとたん、射すくめられたかのように僕はそこからまったく目が離せなくなってしまった。
それは、川岸に打ち捨てられた、壊れかけた小舟だった。作者の名前は、森ぱせり。無邪気な色で塗られた川原の風景ばかりが並ぶ中で、遠近法を用いた大胆な構図と、深く暗い、陰鬱とも言える色使いのぱせりの絵は、明らかに異質だった。そしてまるでそれがスイッチであったかのように、次々と脳裏にイメージが現れた。
壊れた父さんが、水の中にゆっくり倒れていく。
僕は何もできずに固まっている。
振り返った父さんの目。
何も映さない膜を張ったような瞳。
無力な自分。
気がつくと僕は、ぎゅっと胸を押さえて壁にもたれかかっていた。今まで味わったことのない奇妙な息苦しさを感じ、あえぐように空気を吸い込んだ。
まるでこの絵と僕の心が共鳴しているようだった。どうにも直視することができないのに、目を離すこともできなかった。
その時、何やら背後に強い視線を感じた。振り返ると、ぱせりがいつものように、僕の方をじっと見ていた。ただいつもと違っていたのは、ビー玉のような瞳には、ひっそりとした悲しみの色が宿っていたことだった。
と、ぱせりの小さな唇が、さび付いたドアを無理やりこじ開けるかのように、かすかに動いた。
「……も、もう、ばあちゃんの家、来ないの?」
目の端に、好奇心をあらわにしたクラスメートたちの顔が見えたその瞬間、ずっと抑えていた何かがぷつんと切れ、僕は絶叫していた。
「あっちに行け、僕に近寄るな!」
可哀想なぱせりは訳もわからないまま、青ざめた頬で怯えたようにうつむいて、これ以上ないというくらいに小さく小さくなりながら静かに後ずさっていった。その様子をみんなが呆気に取られて見ていた。
荒くなった呼吸が収まるにつれ、ひどい後悔の念が襲ってきた。が、その時にはもう彼女は、僕の声が届かないところに行ってしまっていた。
それから間もなく僕らは住んでいた家を売り払い、隣町のアパートに引っ越した。
これで、父さんとのあまりに苦しい思い出とも、僕をねちこくいじめた奴らとも、きれいさっぱりおさらばできる。そう、できるはずだった。けれども僕の精神状態は、そんなことによって簡単に再スタートを切れるような生易しいものではなくなっていた。
もともと周囲の目を気にしてひどく緊張する性格だったが、それはますますひどくなっていた。誰かが少しでも不機嫌そうな顔をしていると不安でたまらなくなり、体が震えて止まらない。自分が何か悪いことをしたのではないかといつまでもくよくよと思い悩み、人と目を合わせるのが怖くていつも下を向いていた。
が、時にその鬱屈した想いが唐突に僕を攻撃的にし、ちょっとしたことでいきなり逆切れしてしまう。
そうして結局、転校前と同じように周囲が僕を遠巻きにする構図を、今度は僕自身が作り出してしまっていた。僕はただの「危ない奴」に成り下がり、いつまでたっても周囲になじむことができないままだった。
まるで、自分が透明人間になってしまったような気がした。透明なままひとりぼっちで真っ暗な空間に放り出されてしまったような、なんともいえない心もとなさ。洗濯機に放り込まれてぐるぐると攪拌され続けているかのように、一瞬たりとも心が休まることがなかった。そして苦しければ苦しいほど、ばあちゃんの家で過ごしたきらめくような時間が、狂おしいほどに胸に蘇ってきた。
僕はあれから何度、こっそりあの家に行こうとしたかしれない。あのシワだらけの手で、そっと頭をなでてほしかった。いや、僕を見てただにっこり笑ってくれるだけでもよかった。でもそう考えるたびに、狂犬のように怒り狂う母さんの前でただただまあるく頭をたれていたあの時のばあちゃんの姿が思い出されて、どうしても足を向けることができなくなった。
そして次に決まって浮かんでくるのは、声にならない声で問いかけてくるぱせりのまっすぐな瞳と、銀杏の木の下でつないだ手の温もりだった。
不思議だ。あの家で一緒に過ごした日々も、会えなかった期間も、そして言葉をかわすことのなかったこの一年余りも、僕はいつもどこかで彼女の想いを感じ続け、心を震わせていた。僕たちはまるで、共鳴しあう音叉のようだった。
けれどもすぐに、底なし沼のように深い後悔と孤独が僕の胸を締め付けた。
もう遅い。僕は彼女を理不尽に拒絶し、傷つけてしまった。もう取り返しがつかないのだ。
僕の居場所は、もうどこにもないのだ。
そんなある日何気なくテレビをつけると、ちょうど自殺したとある少女の特集を流していた。その少女は、二十歳になる少し前に大量の睡眠薬を飲んで海に入り、溺死したのだ。
画面いっぱいに広がる、重たく垂れ込める灰色の空。冷たい風が吹き付ける砂浜に打ち寄せる波。瞬時に僕は惹きつけられ、その映像に釘付けになった。
少女の友人が言った。
「彼女は、なんというか……生きるのに一番大切な核がすっぽり抜け落ちているような、そんな不思議な感じがする子でした」
目の前に一筋の光が射しこんだ気がした。
ああ、ああ。そうか、その手があったのか。いつまでもこの苦しみに耐えていかなければいけないと決まったわけじゃない。無意味で苦痛に満ちた生に、自分でピリオドを打つという道もあるのだ。そして実際に、それをやった人がいる――!
僕の胸は、暗い希望に高鳴っていた。
それでは――それでは僕も彼女のように、二十歳になるまでに死ぬことにしよう。そして、最後に一度だけ、ばあちゃんに会いにあの家に行くことを、自分に許そう。
一体どれくらいの人が知っているのだろう。人は甘い死の誘惑をかみ締めることで、生の苦痛をやり過ごす事ができるのだと。
僕がひっそりと、遠くない未来の死に向かっているということに、誰一人として気付く者はなかった。皮肉なことに、どうせ近いうちに死ぬのだという開き直りにも似た決意は、僕に自信にも似た強さを与えてくれた。そしてそれは他人から見ると、『彼は立ち直り、ようやく新しい環境にもなじむことができた』という解釈になるらしかった。
ちゃんと学校に行っていれば、いい成績をとってさえいれば問題ないと、大人たちはどうしてみんなそう思うのだろう。みんな馬鹿だ。僕が暗い情熱を傾けて勉強している本当の理由なんて、これっぽっちも気付きやしないのだ。誰にも邪魔されずに死という目標に向かって行くための、カモフラージュに過ぎないというのに。
このまま僕が死んだら、母さんは後悔するのだろうか。それともまた、何もなかったかのように日常生活に戻っていくのだろうか。
ばあちゃんは? そしてぱせりは……?
泣いてくれるんだろうか。呑んだくれの父さんのためにも、あんなに泣いていたばあちゃん。悲しんでくれたぱせり。
僕の中の、温かいもの。