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寂しさの遺伝子  作者: 小日向冬子
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プロローグ

 教室の中からきらきらとはじけるような笑い声が聞こえてくる。

 僕は思わず立ち止まり、全身にまとった見えないバリアをもう一度しっかり確認すると、慎重にドアを開けた。

「あ、林君、おはよう!」

 クラスの女子が、白いふくよかな両手をひらひらとさせながら、満面の笑みで挨拶してきた。誰にでもオーバーな笑顔を作りながら馴れ馴れしく話しかけてくるこのクラスメートが、僕はたまらなく苦手だ。

 仲良くなる気もないのに自分から挨拶をするのは偽善だ。かといって、無視するほどの確固たる理由はない。だから僕は、挨拶をされた時だけは返す、というマイルールを決めた。それなら最低限の借りは返したと思える。

 そのルールにのっとって、僕は表情を崩さずに「おはよう」とつぶやき、窓際の席に向かった。

 教室の真ん中ではテンポのいい会話が軽やかに弾み、屈託のない笑顔と甲高いおしゃべりの輪が広がる。それだけで僕は、反吐が出そうになる。くだらない会話。うそ臭い笑顔。だいたい、日常がいつもそんなに楽しいわけがない。

 僕はバッグから文庫本を取り出して机の上に広げる。キルケゴールの『死にいたる病』だ。もちろん、面白いわけじゃない。ほとんど内容は理解できない。でも、だからいいのだ。哲学書なんて、誰も突っ込んで聞いてこようとはしないから。

 邪魔するな。誰も近付くな。

 それだけが伝わればいいのだ。


 六時間目はホームルームだった。

 一ヶ月ほど前に、十代のファッションリーダーともてはやされていた女性タレントが、突如自殺した。そしてその直後から、同じように理由のはっきりしない十代の自殺が一種のブームのように次々と起きており、連日テレビや新聞をにぎわせていた。

 隣の市でも先月、十三階のマンションの屋上から女子高生が飛び降りて亡くなっている。それで今日は、自殺をテーマに全クラスで話し合いを持つことになった。

「他人に言えないような悩みがありますか」

「自殺を考えたことがありますか」

 数日前にアンケート用紙が配られたとき、僕は思わず笑い出しそうになった。

 本当に悩んで死のうと思っている人間が、はいはい、私は死にたいですと素直に答えると思っているのだろうか。心底絶望し救いなんか望んでいない人間は、そんな問いに決して答えたりはしない。そんなこともわからない奴らに、一体何ができるというのか。

 教師だけではない。クラスメートたちの発言だって、虫唾が走るほど薄っぺらいものばかりだった。

「私は……ええと、いくら死にたいと思ったとしても、自分が死んだら親がどんなに悲しむかってこと考えると、やっぱり簡単にはできない気がします」

 確かにそうだよね、と皆が頷いている。

「……君。林君? 何か意見ありませんか」

 急にこちらに矛先が向いた。

 ああ、面倒くさい。

 が、この能天気な空気に苛立って、何かひとこと言ってやりたいと思っていたのも確かだった。僕は、少し高ぶっている自分の感情に十分注意を払いながら、慎重に口を開いた。

「いや、死ぬしかないところまで追い詰められて本当に覚悟してしまった奴だったら、親なんてストッパーにはならないと思うんだけど。

 それに、死にたい理由にもよるでしょう? そもそも、実はその親が一番の原因だってことも、十分あり得るわけだし」

 できる限りさりげなく言ったつもりだったが、僕の口から出たその言葉は、自分で意図していたよりずっと、皮肉な響きを帯びてしまっていた。

 さっき発言した女子生徒は、その答えに一瞬気色ばみ、それでもなんとか冷静さを保ちながら反論してきた。

「そうかなぁ。そりゃあ親とぶつかったり、わかってもらえなくて悲しくなって、その勢いで死んでやるって思うことはあるけど、でもそれって一時的なものでしょ? なんだかんだ言っても結局親なんだし、けんかもするけど最終的には心配してくれてて、嫌いと思うこともあるけどやっぱり有難いし、だから親の気持ちを考えずにはいられないっていうか……みんなそうなんじゃない?」

 僕は思わずふっと鼻で笑った。

「何か私、おかしいこと言ってる?」

 その声に、今度は明らかに非難の色が含まれていた。

「いや、別に何も」

 慌てて否定したが、かすかに頬を紅潮させまっすぐ反論してくる彼女の姿は、自分とはまるで別の生き物のように思えた。

 そっか、みんな、幸せなんだ。

 もし僕が死んだら、こいつらはどう思うのだろう。その時にやっと、この言葉の本当の意味に気付くのだろうか。

 いや、きっと今日僕が言ったことなんて、覚えてもいないに違いない。そのくせ神妙な顔つきで、

「もっと早く気付いてあげられたら……」

 なんて、さめざめと泣いてみせたりするのだろう。

 ああ、本当にくだらない。

 だって、そもそも誰一人として気付いちゃいないんだから、いずれ本当にそんな日が来ることなんて。


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