第1話 霊っているの?
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
終業時刻を迎え、オフィスから徐々に人が減っていく。そんな中、聞き慣れた甘い声が背後から聞こえた。
「エステラ、何してるの? もう行こうよ!」
私はため息をつき、オフィスチェアの背もたれに寄りかかりながら、凝った腕をぐっと伸ばした。
「ごめん、れい、ちょっと待って。仕事上がる前に、このメールだけは終わらせないと」
れいは興味深そうに、私のパソコンの画面を覗き込んだ。
「英語だ…。これ、誰に送るの?」
「シンガポールの部長に。うちの専用ソフトの導入でちょっと問題があって、向こうでシステムを再起動できるように、リカバリーファイルを送ってるところ」
「へえ、そうなんだ」
彼女は励ますように私の背中をポンと叩き、にこっと笑った。
「じゃあ、先にカフェ行って席取っとくね。いつものアイスカプチーノでいいよね?」
「うん、ありがとう」
「お礼なんていいから、あんまり遅くならないでね〜」
こんなことを言うのは少し恥ずかしいけれど、日本に来てこの会社で働き始めてもうすぐ三年が経つのに、私にはれい以外に「友達」と呼べる人ができなかった。
そもそも、同僚のほとんどは四十代や五十代。お酒の席以外では、共通の趣味や話題がほとんどないのだ。それに、私と入社時期が同じ数少ない若い同期たちも、どうやら同じ大学の出身らしく、いつも彼らで固まっている。
私に話しかけてくるのは、たまの挨拶くらいのものだ。
結局、今年の初めに入社したれいだけが、人懐っこい笑顔で、ためらいもなく私に話しかけてきて、友達になってくれた。
彼女は、私のたどたどしい日本語をとやかく言わず、日々の会話で練習相手になっては「もっと上手くなるよ」と励ましてくれた。その代わり、仕事の後に週一回、英語を教えてほしいと頼まれた。
別に無理な頼みだとも思わなかったので、私は二つ返事で引き受けた。
「はい、アイスカプチーノ」
「わあ、ありがとう」
まず一口すすると、満足のため息が漏れた。濃厚でクリーミーな味わいが、舌の上でとろけるように広がる。
「疲れた体に染みるなあ…」
れいはカモミールティーを一口すすると、バッグからノートを取り出した。
「先週エステラが言ってたみたいに、ネットで英語のニュース記事を読んでみたんだ。それで、分からない単語をこのページに書き出してみたんだけど、意味を教えてもらえる?」
「うん、いいよ。ちょっと見せて」
私はノートを開き、ページに並んだ几帳面な文字の英単語リストを眺めた。
「この ‘exist’ っていう単語は、『存在する』って意味だよ。例えば、‘I believe that ghosts exist’ は、『私は幽霊がこの世に存在するって信じてる』っていう意味になるの」
彼女はこくりと頷いた。
「エステラは、本気で幽霊の存在を信じてる?」
「いや、今のはただの例だよ」
「ふーん。じゃあ、私が存在してるって信じてないんだ?」
「どういうこと?」
れいがくすくすと笑った。
「私の名前、『れい』って、『幽霊』の『霊』って漢字で書くんだ」
「幽霊の『霊』? それ、すごく珍しい名前だね」
「でしょ。よく『それ本名?』って聞かれるのにうんざりして、もう普段はひらがなにしてるの」
「へえ、そうだったんだ…」
れいが少し照れたように手を振った。
「そんなことより、次の単語は?」
私はアイスカプチーノにもう一口つけ、改めて彼女のノートに目を落とした。
「この ‘momentary’ っていうのは形容詞で、『ほんの一瞬だけ』ってことを表すんだよ。例えば、花火。花火って一瞬で終わっちゃうから、‘momentary’ って表現できる」
「花火、か…」 れいはカフェの窓から、どんよりとした夜空を見つめた。 「そういえば、もうすぐ夏だね。今年は長岡の花火、見に行けるといいなあ」
「ちょっと、こっちに集中して」
私はノートを指でトントンと叩いた。
「で、こっちの ‘visceral’ っていう単語は、普通、すごく強い感情を伝える時に使うんだ。説明しづらいんだけど、なんていうか、もっとこう、体の奥底から感じるような、強烈な感情のこと」
「じゃあ、例えば ‘my love for you is visceral’ って言える?」
「うーん、あんまり…。‘visceral’ は、どっちかっていうと恐怖とか憎悪とか、ネガティブな感情に使われることが多いかな」
「なるほど、分かった!」
そんなレッスンを続けているうちに、カップの氷はすっかり溶けてなくなっていた。最寄りの駅に向かって歩きながら、私はノートに熱心に何かを書き込んでいるれいを眺めた。
前から気になっていたことを、私はつい口にしてしまった。
「れいって、なんでそんなに熱心に英語を勉強してるの?」
「ん? どうしてそんなこと聞くの?」
「いや、ちょっと気になっただけだから」
れいは手を止めると、考え込むような仕草で、ペンを顎にトントンと当てた。
「学ぶ言語が多ければ多いほど、異世界で生き残りやすくなるから!」
「え?」
驚きを隠せない私を見て、れいが笑った。
「冗談だよ〜」
「もう、からかわないでよ!」
まだ自分の冗談がおかしいのか、くすくす笑いながら、彼女は駅の入り口で足を止めた
「それじゃ、良い週末を」
「うん、れいもね。また月曜日に、会社で」
そこで私たちは別れた。私は家路を急ぐため駅の中へ、れいはバス停へと向かっていく。
それが、私が見た最後のれいだった。
Thank you for reading!
日本語まだあんまり上手じゃないから、間違ってたらごめんね!




