魂帰りの間 ― 祈りなき救い
紬命が障子を閉めたあと、部屋の中に残ったのは、灯りでも匂いでもなく――呼吸の音だった。
文ちゃんの、細い呼吸。
俺の、遅れて痛みを思い出した呼吸。
握られている指先が、熱を持っている。
小さな手は、まだ震えているのに、離そうとしない。
まるで、握っていないと、この部屋ごと消えてしまうとでも思っているみたいに。
俺は、何も言わずに、ただ座っていた。
励ます言葉を探すと、言葉が嘘っぽくなる。
「大丈夫」なんて、万能の呪文みたいに使いたくない。
それでも、文ちゃんの目が、時々、俺の顔を確かめるように上がる。
そのたびに、俺は小さく頷いた。
言葉じゃなくて、存在で返す。
前腕が、じわ、と疼いた。
固定された布の下で、鈍い痛みが波みたいに広がってくる。
痛みに顔をしかめると、文ちゃんの指が、きゅっと強くなる。
「……優さん……痛い、ですか……」
掠れた声。
ちゃんと「さん」をつけるところが、文ちゃんらしくて、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
「うん、痛い。でも、大丈夫」
俺は、正直に言った。
「紬命が、ちゃんと巻いてくれたからな」
文ちゃんは少し安心したのか、まばたきがゆっくりになる。
けれど、次の瞬間、また目が泳いだ。
知らない天井。
知らない匂い。
知らない静けさ。
怖いのは当然だ。
身体はここにあっても、心はまだ、あっち側に置き去りになってる。
「……ここ……どこ、ですか……」
文ちゃんが、恐る恐る訊く。
その声の小ささが、俺の胸を刺す。
訊いたら壊れるかもしれない。
でも、訊かないと余計に壊れる。
文ちゃんは、そのギリギリのところで踏ん張ってる。
「……旅館だよ」
俺は、ゆっくり言う。
「神癒旅館。あの人が女将で――さっきの、紬命がいる場所」
文ちゃんの眉が、少しだけ寄った。
理解できるか、できないかじゃない。
「覚えていい情報か」を確かめている顔だった。
「……優さんは……ここに……?」
「いる。俺はここにいる」
同じ言葉を、もう一度。
今度は、少しだけ強く。
文ちゃんの喉が、小さく鳴った。
安心と、怖さが、まだ混ざってる音。
「……あの……」
文ちゃんが、言いかけて、止まる。
何かを頼りたいのに、頼り方が分からないみたいに。
俺は、急がせない。
待つ。
待つことが、今の俺にできる一番の助けだ。
すると、文ちゃんは、俺の指を握ったまま、ほんの少しだけ身体を動かした。
布団の中で、もぞ、と。
それだけで、痛かったんだろう。
顔が、きゅっと歪む。
「無理に動かなくていい」
俺が言うと、文ちゃんは小さく頷く。
頷いた瞬間、また目が潤んだ。
「……優さん……いなく、ならない……?」
その問いは、刃物みたいに鋭くない。
でも、刺さる。
柔らかい声のまま、深いところへ突き刺さる。
俺は息を吸った。
嘘はつきたくない。
でも、この瞬間に必要なのは、正確な未来じゃない。
今、目の前の手を離さないこと。
「……いなくならない」
俺は言った。
言い切ると、前腕が疼いた。
痛みと一緒に、覚悟が締まる。
「少なくとも、文ちゃんが眠るまで。起きて、飯を食って、歩けるまで」
少しだけ、現実的に。
少しだけ、掴める形にする。
文ちゃんの肩が、ふっと落ちた。
張っていたものが、ほんの少し緩む。
その時、廊下の向こうから、足音がした。
ほとんど音を立てないのに、空気が動く気配で分かる。
障子が、静かに開いた。
紬命が戻ってきた。
手には、小さな桶と、湯気の立つ布。
それから、湯のみと、深めの椀。
「……起きてたか」
短い言葉。
でも、状況を全部把握した声。
紬命は寝台の横に、桶を置く。
湯気の匂いが、ふわっと広がった。
薬草の匂いが少し混ざっている。
鼻の奥が、ふっと楽になる匂い。
「湯、ここに置く。汗、拭くぞ」
紬命は文ちゃんを見る。
顔色、呼吸、手の震え――全部を一瞬で見て。
それから、俺の方へ視線を投げた。
「お前も、顔色悪い」
「……寝てないだろ」
俺は、返事に詰まった。
寝てない、というより、寝られなかった。
目を閉じても、瓦礫の重みが戻ってくる。
紬命は、ため息みたいな息を吐いた。
「……後で、交代だ」
それだけ。
命令でも、叱責でもない。
「当然そうする」という宣言。
紬命は、湯気の立つ布を手に取って、文ちゃんの額にそっと当てた。
押さえつけない。
逃げ道を残したまま、安心だけ渡す触れ方。
文ちゃんの睫毛が、少しだけ震えた。
でも、拒まない。
「……熱、下がったな」
紬命が小さく言う。
次に、椀を持ち上げる。
「粥。飲めるか」
文ちゃんの喉が、小さく動いた。
空腹というより、身体が「必要」を思い出した反応。
「……少し……」
文ちゃんが言った。
丁寧に、丁寧に。
それだけで、胸が詰まる。
紬命は、椀を文ちゃんに渡さない。
無理に持たせない。
自分で、匙を取って、ほんの少しだけ口元へ運ぶ。
「熱い。ふーってしろ」
紬命の言い方が、姉さんだった。
乱暴じゃないのに、逆らいにくい。
安心の圧。
文ちゃんは、言われた通りに、ふー、と息を吹いた。
小さく、慎重に。
それから、ひとくち。
喉が動く。
飲み込めた。
文ちゃんの目が、少しだけ丸くなる。
「食べられた」っていう驚き。
紬命は、何も褒めない。
ただ、もう一匙運ぶ。
「……よし」
短い一言が、褒め言葉だった。
文ちゃんが二口、三口。
ほんの少しずつ、身体に戻っていく。
その間、俺は黙って見ていた。
指は握られたまま。
紬命が、ふと俺の手元を見る。
「……いつまで握らせてる」
責める声じゃない。
様子を見る声。
俺が言うより先に、文ちゃんが小さく言った。
「……すみません……」
反射みたいに謝る。
その癖が、胸を締め付ける。
俺は首を振った。
「謝らなくていい。握ってていい」
言ってから、少しだけ笑う。
「俺も、離したくないし」
文ちゃんの目が揺れた。
泣きそうで、泣けない目。
だけど、今度は逃げない。
紬命が、ふっと鼻で笑った。
「……はいはい」
照れ隠しみたいに言って、布を桶の上に戻す。
「優」
紬命が呼ぶ。
呼び方が短いのに、まっすぐ届く。
「飯、食ったか」
「……さっき、少し」
俺が答えると、紬命は頷いた。
「なら、水飲め」
湯のみを顎で示す。
「お前、今、身体の中カラカラだ。後で倒れる」
俺は湯のみを取って、一口飲んだ。
温い。
熱すぎない。
喉を撫でて、胸の奥へ落ちていく。
その瞬間、急に、眠気が落ちてきた。
身体が今まで「やること」で固まっていたのが、緩んだせいだ。
紬命は、それを見逃さない。
「……文、もう少し飲んだら寝ろ」
文ちゃんを「ちゃん」と呼ばない。
でも、冷たいわけじゃない。
この距離が、紬命の優しさなんだと分かる。
文ちゃんは小さく頷いた。
「……はい……」
紬命が俺に目を向ける。
「お前もだ」
「ここで突っ立って見張るな。交代する」
俺は反射で「でも」と言いかけた。
その瞬間、背中で文ちゃんが小さく動く気配がした。
不安になったのかもしれない。
俺は言葉を飲み込んで、文ちゃんを見た。
文ちゃんは、俺の指をまだ握っていた。
でも、さっきより少し弱い。
眠気が戻ってきた手の力。
「……優さん……」
文ちゃんが、薄い声で呼ぶ。
「ん?」
「……寝たら……」
言葉が切れる。
怖い言葉の前で、止まる。
俺は、息を吐いて、ゆっくり言う。
「起きたら、いる」
「ここにいるし、紬命もいる」
紬命が、横から短く足す。
「逃げねぇよ」
それだけ。
文ちゃんの睫毛が、ふっと落ちた。
安心が、身体の重さに変わっていく。
眠れる重さ。
俺は、握られていた指を、そっと握り返した。
強くしない。
でも、確かに返す。
「……おやすみ、文ちゃん」
文ちゃんは、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑いじゃない。
でも、柔らかい形。
「……おやすみなさい……優さん……」
その言い方が、子供なのに、ちゃんと礼儀正しくて。
それでも甘えたくて、声の端が震えていて。
俺は、胸の奥がいっぱいになった。
文ちゃんの呼吸が、ゆっくりになる。
指の力が、少しずつ緩んでいく。
けれど、最後まで離さないまま、眠りに落ちた。
紬命が、俺の肩を軽く叩いた。
「……ほら。今度はお前が寝る番だ」
「……でも」
「でも、じゃねぇ」
姉さんの声。
優しさの形をした、強制。
俺は立ち上がろうとして、前腕がずき、と鳴った。
痛みが現実を引っ張ってくる。
疲労が、膝の裏に溜まっている。
呼吸も、少し浅い。
紬命は俺の顔を見て、言った。
「お前が潰れたら、文が次に掴まる指が無くなる」
「……それ、嫌だろ」
俺は、返事ができなかった。
嫌だ。
そんなの、嫌だ。
紬命はそれ以上言わない。
障子を少しだけ開けて、廊下へ顎を向ける。
「行け。布団、用意させる」
「文は私が見てる」
俺は一度だけ、文ちゃんを見る。
寝顔は、まだ緊張が残っている。
眉が少し寄っている。
でも、呼吸はさっきより落ち着いている。
俺は、そっと、握っていた指を抜いた。
抜く瞬間、文ちゃんの指が微かに追ってくる。
でも、眠りの方が勝つ。
小さな手が、布団の上に落ちる。
俺は、胸の奥で何度も言った。
離したくない。
でも、離さないために、休む。
廊下に出ると、旅館の匂いがした。
木。
湯。
出汁。
全部が、「ここに戻ってこい」と言っている匂い。
数歩歩いただけで、脚が重い。
部屋に入り、敷かれた布団を見た瞬間、身体が勝手に崩れそうになる。
横になる。
布団が受け止める。
沈みすぎない。
支える。
神癒旅館の布団は、昨日と同じ顔をして、今日も俺を受け入れる。
天井を見る。
木目が、ゆっくり流れている。
意識が落ちる寸前、頭の片隅に浮かんだのは、文ちゃんの声だった。
「……優さん……」
俺は、胸の奥で答えた。
いる。
ここにいる。
そして、眠りが、静かに俺を沈めた。
――どれくらい眠ったか、分からない。
夢を見たかも、分からない。
ただ、次に目を開けたとき、胸の奥の重さが、ほんの少しだけ、軽くなっていた。
立ち上がって、文ちゃんの部屋へ戻る。
障子の前で、足が止まる。
中から聞こえるのは、文ちゃんの寝息と、紬命の気配。
紬命は、そこにいるだけで部屋の温度を保っているみたいだった。
俺は、障子を少しだけ開ける。
紬命が、こちらを見た。
声を出さず、顎で「静かに」を示す。
俺は頷く。
文ちゃんは、まだ眠っていた。
でも、手が布団の端を掴んでいる。
起きてもいないのに、離さないための掴み方。
俺は、その手元に視線を落とし、息を吐いた。
――次に起きたら。
また、あの声で「優さん」と呼んでくれるだろうか。
その願いが、願いだと気づいた瞬間。
俺は少しだけ、生きる方に寄っていた。




