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黄泉境より還りし幼魂の目覚め

 沈んで。

 ようやく。

 俺は、自分の身体の重さを、思い出した。

 前腕が、遅れて。

 ずき、と脈打つ。

 さっきまでは、感じなかった。

 いや、感じないようにしていたのかもしれない。

 守ることだけで、頭がいっぱいだったから。

 紬命は、文ちゃんの肩に、そっと手を置いた。

 触れているのに、押さえつけない。

 逃げ道を残す触れ方。

「……立てるか」

 低い声。

 でも、威圧じゃない。

 文ちゃんは、小さく頷こうとして――

 少し、揺れた。

 紬命の手が、自然に背中へ回る。

 支える。

 抱き上げない。

 でも、倒れない位置。

 絶妙だった。

「……よし」

 短く言って。

 紬命は、俺を見た。

「優、座れ」

 命令じゃない。

 でも、逆らえない声音。

 俺は、近くの柱に手をついて、ゆっくり座り込んだ。

 膝が、遅れて震えた。

 ああ。

 限界、超えてたんだな。

 紬命は、文ちゃんの顔を、正面から見た。

 目線を、完全に合わせる。

「……怖かったな」

 それだけだった。

 文ちゃんの喉が、小さく鳴った。

 声にはならない。

 張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだのが分かった。

「……来い」

 紬命は立ち上がる。

 文ちゃんの手を、握らない。

 代わりに、袖を、少しだけ差し出す。

 選ばせる仕草。

 文ちゃんは、一瞬迷って。

 そっと、袖を掴んだ。

 そのまま、紬命は、奥へ歩き出す。

「優」

 振り返らないまま、言う。

「お前も来い。……その腕、放っとくと、あとで泣くぞ」

 俺は、苦笑した。

 ……もう、泣いてる気もするけど。

 立ち上がる。

 脚が、少しだけ重い。

 廊下を進む。

 木の匂い。

 湯の匂い。

 それが、やけに、濃く感じた。

 生きてる、って。

 こういうことかもしれない、って。

 奥の部屋。

 障子が、静かに開く。

 中は――

 治療部屋、というより、静養室だった。

 白木。

 畳。

 低い寝台。

 薬草の、柔らかい匂い。

「ここに寝かせる」

 紬命が言う。

 文ちゃんを、ゆっくり寝台へ座らせる。

 そのまま、膝をつく。

「……痛いとこ、言えるか」

 文ちゃんは、迷った。

 紬命は、少しだけ、息を吐いた。

「……言わなくても、分かる」

 袖を、そっと捲る。

 腕。

 擦り傷。

 煤。

 軽い火傷。

 紬命の動きは、迷いがない。

 水で、拭く。

 薬草を、当てる。

 布を、巻く。

 早い。

 でも、乱暴じゃない。

 その間、文ちゃんは、一度も、声を上げなかった。

 歯を、食いしばっていた。

 紬命は、それを見て、小さく、言った。

「……強いな」

 それだけ。

 文ちゃんの目が、少しだけ、揺れた。

 次に。

 肩。

 背中。

 肋骨。

 触診。

 指先が、静かに、確かめていく。

「……折れてねぇ」

 短く、安心を置く。

 文ちゃんの呼吸が、少し、落ちた。

「……寝ろ」

 紬命は、そう言って。

 布団を、掛ける。

 包むように。

「……ここにいるから」

 それだけ。

 文ちゃんは、少しだけ、紬命の袖を握って。

 限界が来たみたいに。

 意識が、落ちた。

 眠った。

 深く。

 沈むみたいに。

 紬命は、袖を引き抜かない。

 そのまま、少しだけ、座っていた。

 やがて、ゆっくり、手を外す。

 振り返る。

「……次、お前」

 俺だった。

 前腕を、掴まれる。

 痛みが、遅れて爆発する。

「っ……!」

「……我慢すんな」

 低く言う。

 消毒。

 布。

 固定。

 あっという間だった。

「……ひび、入ってるかもな。折れてはいねぇ」

 それだけ言って、俺の肩を、軽く叩いた。

「……よくやった」

 小さい声だった。

 それだけで、胸の奥が、崩れそうになった。

 文ちゃんは、そのまま――

 丸二日、眠った。


 一日目。

 ほとんど、目を覚まさない。

 時々、呼吸が、少しだけ速くなる。

 夢を、見ているのかもしれない。

 紬命は、何度も、体温を測る。

 薬草湯を、少しだけ、口に含ませる。

 それだけ。

 無理に起こさない。

「……身体が、戻ろうとしてる」

 俺に、そう言った。


 二日目。

 汗を、かく。

 紬命が、静かに、拭く。

 布を替える。

 髪を、軽く整える。

 俺は、何度か、部屋を出た。

 でも、結局、戻ってきた。

 近くに、いたかった。

 二日目の夜。

 文ちゃんの指が、少しだけ、動いた。

 紬命が、すぐ、気づいた。

「……起きるな」

 優しく言う。

 命令じゃない。

 安心の言葉。

 文ちゃんの眉が、少しだけ動く。

 そして、また、眠った。


 三日目の朝。

 障子の向こうで、鳥が、一度、鳴いた。

 その瞬間。

 文ちゃんの瞼が――

 ゆっくり。

 開いた。

 焦点が、すぐには合わない。

 光を、怖がるみたいに。

 まばたきが、少しだけ、増える。

 呼吸が、浅い。

 ちゃんと、ここに戻ってきている呼吸だった。

 紬命が、すぐ、気づいた。

 寝台の横に、静かに座る。

「……起きたか」

 低い声。

 柔らかい。

 文ちゃんの視線が、ゆっくり動く。

 天井。

 白木。

 布団。

 それから――

 紬命の顔。

 一瞬だけ。

 怖さが、目に浮かぶ。

 紬命は、何もしない。

 近づかない。

 ただ、そこにいる。

「……ここ、安全だ」

 それだけ言う。

 説明しない。

 言い聞かせない。

 ただ、置く。

 文ちゃんの喉が、小さく鳴った。

 それから。

 視線が、部屋の奥へ、ゆっくり流れる。

 俺が、そこにいた。

 壁に寄りかかって。

 ずっと様子を見ていた。

 文ちゃんの目が、止まる。

 止まって。

 少しだけ、大きくなる。

 俺は、ゆっくり、立ち上がった。

 近づきすぎない距離で、止まる。

「……おはよう」

 それしか、言えなかった。

 文ちゃんの唇が、少しだけ、動く。

 でも、声が出ない。

 喉が、乾いている。

 紬命が、湯のみを、そっと差し出す。

「……少しだけ、飲め」

 文ちゃんは、両手で受け取ろうとして――

 少し、震えた。

 紬命が、下から、支える。

 触れすぎない。

 でも、落とさない。

 文ちゃんは、小さく、一口、飲んだ。

 それだけで。

 喉が、少し、戻る。

 湯のみを、戻して。

 それから。

 文ちゃんは、ゆっくり――

 俺を、見た。

 真っ直ぐ。

 逃げずに。

 小さく、息を吸う。

 震える。

 でも。

 逃げない。

「……優さん……」

 俺は、小さく、頷いた。

「うん」

 文ちゃんの目が、少し、潤む。

 でも、泣かない。

 必死に、堪えている。

 それでも。

 ちゃんと、言おうとしているのが、分かった。

 布団の上で。

 小さく、手を、ぎゅっと握って。

 それから。

「……助けて……くれて……」

 声が、震える。

 息が、少し、乱れる。

 それでも。

 止まらない。

「……ありがとう……ございます……」

 子供なのに。

 怖かったのに。

 胸の奥が、ぎゅっと、締まる。

 俺は、少しだけ、困ったみたいに、笑った。

「……文ちゃん」

 そう呼ぶと。

 文ちゃんの肩が、少し、震えた。

「……お礼は、いい」

 少しだけ、間。

「……元気になって、本当に良かった」

 思ってたより、自然に出た。

 文ちゃんの目が、大きく揺れる。

 唇が、少しだけ、震えて。

「……でも……」

 小さく、言う。

「……怖かった……」

 その一言で。

 張っていたものが。

 少し、崩れた。

 俺は、ゆっくり、寝台の横に座る。

 距離を、少しだけ、詰める。

「……うん」

 それだけ、返す。

 慰めない。

 否定しない。

 ただ、受け取る。

 文ちゃんの目から。

 涙が、一粒、落ちた。

 それから。

 もう一粒。

 それでも。

 声は、出さない。

 泣き方を、忘れているみたいに。

 俺は、ゆっくり、手を、差出す。

「……掴まる?」

 文ちゃんは、一瞬、迷って。

 それから、そっと、俺の指を、握った。

 小さい。

 でも。

 必死に、握る。

「……もう……大丈夫……?」

 小さな声。

 子供の声。

 甘えたい声。

 俺は、少しだけ、息を吐いて。

「……大丈夫」

 そう言った。

「……ここにいる」

 それだけ。

 文ちゃんの指が、少しだけ、強くなる。

 それから。

 本当に、小さく。

 身体を、少しだけ、俺の方へ寄せた。

 遠慮がちに。

 確実に。

 甘えようとしていた。

 紬命は、それを見て。

 何も言わない。

 ただ。

 静かに、立ち上がる。

「……湯、用意する」

 それだけ言って。

 部屋を、出た。

 部屋に、静けさが、残る。

 文ちゃんの呼吸が、少しずつゆっくりになる。

 指の力も、少しだけ、緩む。

 俺は、そのまま、手を握ったまま。

 そこに、いた。

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