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神泉渡魂

 朝の匂いが、廊下に漂っていた。

 出汁。

 味噌。

 焼いた魚。

 それだけなのに、胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 俺は、足を止めず、その匂いの方へ歩いた。

 廊下の灯りは、夜より少しだけ淡かった。

 朝の光と混ざって、柔らかく空間を満たしている。

 広間に入ると、低い卓が、ひとつ用意されていた。

 湯気が、静かに立っている。

「座れ」

 紬命が、短く言った。

 それだけだった。

 でも、不思議と、安心する声だった。

 俺は、素直に座った。

 白い飯。

 味噌汁。

 焼き魚。

 漬物。

 小鉢。

 昨日と似ているのに。

 少しだけ、違う。

 ――朝の味だった。

 味噌汁を、口に運ぶ。

 優しい。

 身体の奥に、ゆっくり沈んでいく。

 気づく。

 腹が、空いている。

 ちゃんと、空いている。

 俺は、黙って食べた。

 紬命は、少し離れた柱にもたれて、見ている。

 何も言わない。

 急かさない。

 全部食べ終えた時。

「……よし」

 紬命が、短く言った。

 それだけで、十分だった。

「食後、少し歩け」

「急に動くなよ」

 姐さんみたいな言い方だった。

 俺は、小さく頷いた。

 廊下を歩いていると、ふっと、空気が変わった。

 振り向く前に、分かった。

「……よく眠れましたか」

 御姫だった。

 白い髪が、朝の光を受けて、少しだけ透けて見える。

 俺は、少し考えて。

「……眠れました」

 それが、少しだけ、信じられなかった。

 御姫は、小さく頷いた。

「それは、とても良いことです」

 それだけ言って、彼女は微笑んだ。

 慰めでも。

 評価でもない。

「……ここ、静かですね」

 俺は、なんとなく、そう言った。

「はい」

「必要な音だけが、ある場所ですから」

 少しだけ、間。

「……慣れなくても、大丈夫ですよ」

 その言葉が、胸に落ちる。

 俺は、少しだけ、笑った。

「……はい」

 御姫は、それ以上、何も言わなかった。

「では、私はこれで」

 軽く頭を下げて。

 静かに、去っていった。

 

 外に出る。

 空気が、少しだけ冷たい。

 でも、痛くない。

 肺の奥まで、入ってくる。

 旅館の裏手へ、自然と足が向く。

 石灯籠が、並んでいる。

 火は無いのに、淡く光っている。

 森の入口。

 俺は、息を吸って。

 歩き出した。

 森は、静かだった。

 木が、呼吸している。

 土が、生きている。

 歩く。

 ゆっくり。

 その時。

 ――声。

「……たす……け……」

 俺は、止まった。

 風じゃない。

 葉の音じゃない。

 声だった。

 子供の声。

 かすれていて。

 必死で。

 胸の奥が、強く締まる。

「……助けて……」

 今度は、はっきり聞こえた。

 俺は、迷わなかった。

 歩き出す。

 少し、速く。

 水の匂いが、濃くなる。

 やがて、木々が、開ける。

 泉。

 静かな、水面。

 底が、見えない。

 深い。

 空気が、少しだけ重い。

 境界。

 直感で、分かった。

 その瞬間。

「たすけてぇ……!」

 声が、はっきり響く。

 泉の水面が、震えた。

 外じゃない。

 内側から。

 俺の心臓が、強く打つ。

 怖い。

 でも。

 もう、戻れなかった。

 泉の縁に立つ。

 水面に映る俺が。

 少しだけ、歪んでいた。

 向こう側に、別の空気があるみたいに。

 声。

 小さく。

「……おねがい……」

 俺は、息を吸った。

「……今、行く」

 そして。

 一歩。

 泉へ、踏み出した。

 泉に足を踏み出した瞬間、世界は「濡れる」より先に「沈む」感覚だった。

 水は冷たいはずなのに、冷たさが皮膚に届く前に、胸の奥へ直接入り込んでくる。

 息を吸う間もなく、耳の内側がぼう、と鳴った。鼓膜が水に触れたんじゃない。音そのものが、遠ざかっていく。

 身体が落ちる。

 落ちているのに、底がない。

 泉の水面は、さっきまで鏡みたいに静かだった。

 それが今は、俺の周囲で黒い布みたいに揺れている。

 上も下も分からない。

 ただ、引かれる。

 ――助けて。

 声が、近い。

 水の中なのに、はっきり聞こえる。

 頭の中じゃない。胸の奥の骨に触れるみたいに響く。

 俺は無理やり手足を動かした。

 泳ぐ、じゃない。掻く。必死に掻く。

 泉の水は抵抗が薄い。なのに、身体だけが重い。

 この世界が俺を試しているみたいだった。

 息が苦しい。

 水を飲む。喉が痛い。

 だが、怖さより先に、焦りが勝った。

 ――今、行く。

 そう言ったのは、俺だった。

 だから、行くしかない。

 次の瞬間、視界が白く弾けた。

 水面が破れる音。

 肺が勝手に空気を吸い込む。

 咳が、爆発みたいに出た。

「げほ……っ、は……!」

 膝をついた場所は土じゃなかった。

 砂利。湿った泥。

 細かい煤の匂い。

 空気が、違う。

 夢幻郷の空気は、肺に入るだけで心をゆるめる匂いがした。

 ここは――喉の奥が刺される。

 煙の残り香。焦げた木。鉄の熱が冷えた匂い。

 鼻の奥が、つんと痛い。

 耳に、遠い音がある。

 風じゃない。葉でもない。

 金属のこすれる音。

 どこかで、壊れたものが落ちる音。

 それから――低い、長い音。

 サイレンだ。

 俺は顔を上げた。

 空は灰色だった。

 雲じゃない。薄い煙が空の色を奪っている。

 太陽がいるはずの場所が、ぼんやり白い。

 世界の輪郭が、全体的にくすんでいる。

 周囲を見渡す。

 家――だったはずの骨組み。

 瓦が崩れ、柱が折れ、壁が剥がれている。

 道の端には焼けた木片。

 黒い粉が、風が吹くたび舞い上がる。

 そして、また声。

「たすけて……っ……!」

 すぐ近くだった。

 右。

 瓦礫の山。

 俺は走った。

 足元が危ない。

 釘のようなもの。割れたガラス。尖った石。

 それでも止まれない。

 息が切れる。喉が痛い。肺が煙臭い。

「どこ! どこだ!」

 自分の声が、荒れていた。

 夢幻郷で出せたはずの静かな声じゃない。

 焦りで、喉の奥が裂けそうだ。

「こっち……!」

 小さな手が、瓦礫の隙間から伸びた。

 煤で汚れている。指先が震えている。

 子供だ。

 俺は膝をついた。

 瓦礫の隙間を覗き込む。

 暗い。

 土と埃と灰が混ざった空気。

 そこに、小さな顔が見えた。

 女の子。

 髪は黒。結い方は崩れて、ところどころ煤が絡みついている。

 頬に、灰の筋。

 目は大きく、真っ直ぐで――涙で濡れていた。

 それでも、その目は俺を見て「お願い」を言っている。

 息を飲む。

 直感じゃない。

 あの声だった。

「助けを呼んでいたのは君?」

 呼ぶと、女の子は必死に頷いた。

 でも、泣き声は出さない。

 声を出したら危ないと知っているみたいだった。

「……動ける?」

 俺が問うと、彼女は小さく首を横に振った。

 肩が、瓦礫に押さえつけられている。

 腕が、自由に動かせない。

 身体の下にも何か挟まっている。

 血の匂いがした。

 でも、どこから出ているのか、暗くて分からない。

 俺は歯を食いしばった。

 大丈夫じゃない。

 でも、大丈夫って言うしかない。

「今、出す。絶対に出す」

 言い切った瞬間、背中が冷たくなった。

 根拠がない。

 力もない。

 でも――言わないと、彼女の目が折れそうだった。

 俺は瓦礫に手をかけた。

 重い。

 石と木が絡まっている。

 びくともしない。

 腕に力を込める。

 肩が軋む。

 指の皮が擦れる。痛い。

 それでも、引く。

「っ……!」

 動いた。ほんの少し。

 瓦礫が、ずるりとずれた。

 その瞬間、遠くで爆ぜる音がした。

 ドン――と、腹に響く。

 俺は反射的に身をかがめた。

 空気が、震えた。

 灰が舞う。

 怖い。

 でも、止まれない。

「……ごめん、揺れる」

 謝るのも変なのに、口から出た。

 俺は瓦礫の上に手を突っ込んだ。

 引っかかる。

 尖っている。

 掌が切れた。熱い。

 でも、気にしていられない。

 木片を持ち上げる。

 次に石。

 次に、焼けた梁のようなもの。

 腕が震える。

 息が上がる。

 喉が焼ける。

「……すみません……」

 俺は、一瞬理解できなかった。

 何に、すみませんだ。

「謝らないで」

 声が、思ったより強く出た。

 自分でも驚く。

「謝るの、今じゃない。今は――生きる」

 泣きそうで、泣けない目。

 俺はもう一度、梁を持ち上げた。

 今度は、持ち上がった。

 が、同時に瓦礫が崩れかけた。

 石が転がり、落ちそうになる。

 俺は反射で腕を突っ込んだ。

 石が前腕を打った。

「――っ!」

 鈍い痛み。

 骨が鳴った気がする。

 でも、石は止まった。

 俺は痛みを飲み込んだ。

「大丈夫。大丈夫だから」

 全然大丈夫じゃないのに、言う。

 言うことで、俺自身も立っていられる。

 瓦礫の隙間が、少し広がった。 

 服――布の端が、焦げている。

 でも、完全に燃えてはいない。

 必死に守られてきたみたいに。

 俺は周囲を見た。

 長い棒。

 折れた柱の一部。

 それを拾う。

 梁の下に棒を差し込む。

 支点になる石を探す。

 挟む。

 体重をかける。

 棒が軋む。

 頼む。折れるな。

 俺は全体重を押し込んだ。

 ――持ち上がった。

 梁が、わずかに浮く。

 その隙間に、俺は手を差し込んで、肩を引いた。

「っ……!」

 少女が、苦しそうに顔を歪めた。

 痛みが走ったんだ。

 でも、声を上げない。歯を食いしばる。

 俺の胸が、ぐちゃぐちゃになる。

「ごめん……! でも、今だけ!」

 引く。

 もう一度。

 さらに。

 梁が、また少し上がる。

 その瞬間、少女の身体が、瓦礫から抜けた。

 軽い。

 想像していたより、ずっと軽い。

 抱えた瞬間、彼女の腕が俺の浴衣の袖を掴んだ。

「……離さないで……」

「離さない。絶対に離さない」

 俺がそう言った瞬間。

 彼女は、俺の胸元に顔を押し付けたまま、小さく、息を吸って。

「……わたし……文って言います……」

 かすれた声。それでも、ちゃんと、名乗ろうとしていた。

 礼儀正しく。

 怖くても。

 泣きそうでも。

「……助けてくれて……ありがとう……」

 言い終わる前に、声が震えた。

 俺の胸の奥が、強く、締め付けられる。

「……俺は優」

 自然に、そう言っていた。

「もう、大丈夫だ。文ちゃん」

 俺は文ちゃんを抱えた。

 細い。骨ばっている。

 体温が低い。

 俺は立ち上がった。

 足がふらつく。

 腕が痛い。

 息が切れている。

 でも、抱えた重みが、俺を前へ進ませた。

 周囲を見る。

 ここは危ない。

 瓦礫が不安定だ。

 さっきの爆ぜる音――まだ続くかもしれない。

 俺は走りたいのに、走れない。

 文ちゃんを揺らしたくない。

 だけど、遅いのも危ない。

 中途半端な速さで、瓦礫から離れる。

 広い場所へ。

 すると、文ちゃんが小さく震えた。

 音がしたからじゃない。

 空気が、変わった。

 ざわり、と。

 背中に、視線。

 俺は反射で振り向いた。

 人影。

 複数。

 遠い。

 けれど、こちらを見ている。

 軍服かどうかは分からない。

 でも、まとっている空気が硬い。

 この世界の「危険」の匂いだった。

 俺は喉を鳴らした。

 逃げるべきだ。

 でも、どこへ。

 文ちゃんが、俺の胸に顔を押し当てる。

「……見つかった……」

 掠れた声。

 小さな身体が、さらに縮こまる。

 俺は、唇を噛んだ。

「大丈夫」

 また言う。

 何度でも言う。

 言わなきゃ、俺が折れる。

 俺は走り出した。

 足元が危ない。

 瓦礫を避け、崩れた塀を越え、狭い路地に入る。

 壁は焼け、木は焦げ、どこも灰色。

 それでも、路地の影は少しだけ安全だった。

 息が切れる。

 腕が痛い。

 でも、文ちゃんがいる。

 文ちゃんの重みが、俺の「生きる理由」を、今だけ作ってくれている。

 路地の奥に、壊れた井戸のようなものがあった。

 いや、井戸じゃない。

 石で囲まれた穴。

 底が見えない。

 泉と似ている。

 胸が跳ねる。

 ――繋がってる。

 理屈じゃない。

 そう思った瞬間、背後で足音が増えた。

 近い。

 俺は迷わない。

 文ちゃんを抱き直し、穴の縁に立つ。

 風が、吹いた。

 灰が舞い上がる。

 文ちゃんが、俺の浴衣をきつく掴む。

「……こわい……」

 震える声。

 それでも、泣かない。

 俺は、囁くように言った。

「怖いよな」

「でも――帰ろう」

 帰る。

 どこに。

 答えは一つしかない。

 神癒旅館。

 夢幻郷。

 あの、包まれる空気。

 俺は息を吸った。

「目、閉じて。ぎゅっと掴まって」

 文ちゃんが、必死に頷いた。

 俺は、穴へ飛び込む寸前で、もう一度だけ背後を見た。

 追ってくる影が、こちらへ手を伸ばしている。

 間に合わない。

 俺は、文ちゃんを抱えた腕に力を込めた。

 そして――

 飛び込んだ。

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