幽世禊の夜
引き戸を越えた瞬間、空気が、また一段、柔らかくなった。
外の空気が優しかったのだとしたら、ここは――包まれる空気だった。
玄関の床は、深い飴色の木だった。
磨き上げられているのに、光りすぎていない。
足を踏み入れた瞬間、かすかに木の温度が足裏から伝わってくる。
冷たくない。かといって、温かすぎない。
人が触れてきた時間の温度。
そんな感触だった。
天井は高い。
だが、圧迫感はない。
梁が太く、空間を支えているのが分かる。
木の香りが、静かに漂っていた。
乾いた木じゃない。
湿り気を含んだ、生きている木の匂い。
その奥に、わずかに香が混ざっている。
神社の線香のような鋭さはない。
もっと、淡く、柔らかく、心の奥に沈む香り。
玄関の脇には、大きな下駄箱があった。
だが、どこか違う。
ただの収納じゃない。
木の表面に、細い彫りが入っている。
流れるような線。渦を描くような模様。
俺は、靴を脱いだ。
足袋でもない、裸足でもない、曖昧な感覚の足裏が、床に触れる。
その瞬間、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
「こっちだ」
紬命の声が、奥から届く。
振り返ると、すでに少し先を歩いていた。
歩幅は大きすぎない。
でも、迷いがない。
背中が、妙に頼もしかった。
御姫が、静かに俺の隣を歩く。
廊下に入る。
畳ではない。
板張りの廊下だった。
だが、足音がほとんどしない。
板の継ぎ目が、極端に細い。
木同士が、呼吸を合わせているみたいだった。
廊下の壁には、灯りが等間隔に並んでいる。
火ではない。
だが、灯籠の中に、柔らかな光が浮かんでいる。
橙とも、金とも言えない色。
見ていると、胸の奥が落ち着く。
壁には、掛け軸があった。
墨だけで描かれた、森。
だが、ただの絵じゃない。
見ていると、風が吹いている気がする。
葉が揺れている気がする。
歩きながら、紬命が、ちらりとこちらを見る。
「……変に気張るな」
それだけ言う。
怒っているわけでもない。
慰めているわけでもない。
ただ、当然のことを言う声。
「ここじゃ、誰も、お前を評価しない」
足が、少し止まりそうになる。
評価。
その言葉が、胸の奥に刺さる。
「出来るとか、出来ないとか」
「役に立つとか、立たないとか」
紬命は、歩きながら、続ける。
「そういうもんは、ここじゃ、後回しだ」
一拍。
「まず、休め」
それだけだった。
それだけなのに。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
廊下の途中で、大きな空間に出た。
吹き抜けだった。
一階から三階――いや、それ以上かもしれない。
空間の中央に、巨大な柱が一本、立っている。
ただの柱じゃない。そんなことは、俺でさえ直観で理解した。
幹そのものだった。
枝は、天井を貫いている。
葉が、微かに揺れている。
その葉の間から、柔らかな光が落ちていた。
「……すげぇ」
思わず、呟く。
紬命は、少しだけ笑った。
「この旅館の、心臓みたいなもんだ」
吹き抜けの周囲には、廊下が巡っている。
どこかで、水の音がした。
静かな、水の音。
御姫が、小さく言う。
「地下に、湯があります」
湯。
その言葉だけで、身体の奥が、少し緩む。
紬命が、階段の方へ向かう。
階段は、広かった。
段差が低い。
足を上げるのが、楽だ。
登りながら、気づく。
手すりが、ほんの少し、温かい。
人が、ずっと触れてきた温度。
二階に上がる。
廊下の空気が、少しだけ甘くなる。
花の匂い。
紬命が、ある障子の前で止まる。
「……今日は、ここ使え」
障子を開ける。
中は、和室だった。
畳は、新しすぎない。
使われてきた柔らかさがある。
奥には、障子窓。
その向こうに、森。
森と、海。
同時に見えた。
距離感が、おかしい。
でも、不自然じゃない。
ただ、そこに、ある。
部屋の空気が、静かだった。
何も押し付けてこない。
ただ、「いていい」と言っている空気。
紬命が、部屋を一度見渡す。
「……湯は、好きか?」
唐突な質問。
俺は、少し考える。
「……嫌いじゃ、ないです」
紬命が、小さく頷く。
「よし」
短かった。
でも、なぜか、安心する。
「この旅館の湯はな」
一歩、部屋に入りながら言う。
「疲れを、無理に剥がさない」
意味が、分からない。
だが、分かる気もする。
「時間をかけて、ほどく」
その一言で、分かった。
紬命は、戸口に立ったまま言う。
「……腹、減ってるだろ」
図星だった。
言葉に詰まる。
紬命は、少しだけ口角を上げる。
「顔に出てる」
それだけ言って。
「飯、用意させる」
振り返る。
去り際に、もう一言。
「遠慮するな」
それだけだった。
御姫が、静かに会釈する。
「では、私は、ここまでです」
俺は、部屋の真ん中に立ったまま。
何も言えなかった。
ただ。ただ、思った。
――ここなら。
少しだけ。
少しだけなら。
生きても、いいのかもしれない。
障子の向こうで。
風が、森を揺らしていた。
どこかで、水が流れていた。
その音は、遠いはずなのに。
耳の奥では、すぐ隣で流れているみたいに聞こえた。
俺は、しばらく、その場に立っていた。
動かなくてもいい時間。
何かをしなくても、許される時間。
それが、こんなにも、怖くないなんて。
不思議だった。
――コン。
障子の向こうで、小さな音がした。
「入るぞ」
紬命の声だった。
障子が、静かに開く。
手には、盆。
そこに並んでいたのは、湯気を上げる器がいくつかと、小さな急須。
「まず、軽く食え」
部屋の中央に、盆を置く。
香りが、ふわりと広がる。
白いご飯。
味噌汁。
焼いた魚。
煮物。
――腹が、鳴った。
思わず、顔を逸らす。
紬命は、少しだけ笑った。
「いい反応だ」
座るよう、顎で示す。
俺は、畳に座った。
畳が、柔らかい。
沈みすぎない。
ちゃんと、支えてくれる。
味噌汁を、口に運ぶ。
熱すぎない。
舌に触れて、すぐに分かる。
優しい味だった。
派手じゃない。
だけど、身体の奥に、ゆっくり落ちていく。
喉を通った瞬間、体も心も温かくなる。
魚を、一口。
塩が、強すぎない。
身が、柔らかい。
噛むたびに、味が広がる。
食べながら、気づく。
手が、震えていない。
紬命は、何も言わない。
ただ、壁に軽く背を預けて、見ている。
監視じゃない。
見守っている、という距離。
全部食べ終える頃には。
腹だけじゃなく。
胸の奥まで、満たされていた。
紬命が、盆を持ち上げる。
「……よし」
短い一言。
それだけで、褒められた気がした。
「湯、行くか」
その言葉に、何かが、変わりそうな気がした。
紬命が、廊下を歩き出す。
俺は、黙って、後を追った。
階段を、降りる。
空気が、少しずつ、湿り気を帯びていく。
湯気の匂いが、濃くなる。
木の匂いと、湯の匂いが、混ざる。
地下に入ると、空間が、広がっていた。
脱衣所。
木の棚。
籠。
柔らかそうな布。
「……焦るな」
紬命が言う。
「誰も、急がせない」
それだけ言って。
「中にいる」
奥の戸を指す。
俺は、頷いた。
服を、脱ぐ。
妙な感覚だった。
恥ずかしいとかじゃない。
何かを、剥がしていく感覚。
全部脱ぎ終えた時。
肩が、少し軽くなっていた。
戸を、開ける。
湯気が、流れ込む。
外だった。
露天風呂。
石灯籠。
岩。
木。
夜だった。
星が、近い。
湯が、白く、揺れている。
音は、ほとんどない。
静かな、呼吸みたいな水音だけ。
足を、入れる。
熱くない。
でも、ぬるくない。
身体に、触れる。
――包まれる。
ゆっくり、沈む。
息が、漏れた。
「……は……」
声にならない声。
染み込む、みたいだった。
温める、じゃない。溶かしていく。
背中を、岩に預ける。
空を、見る。
満天の星空。
光が、落ちてくるみたいだった。
目の奥が、熱くなる。
気づいたら、涙が、流れていた。
止めようとしない。
止めなくて、いい気がした。
胸の奥の、硬かった何かが。
少しずつ。
ほどけていく。
祖父の声。
暴力の記憶。
笑い声。
全部。
遠くなる。
完全には消えない。
でも、握り潰されない距離まで、離れていく。
湯が、背中を撫でる。
肩を撫でる。
首筋を、撫でる。
「大丈夫だ」と何度も、何度も、言われているみたいだった。
どれくらい、そうしていたか。
分からない。
湯気が、夜空へ溶けていく。
星が、揺れる。
俺は、静かに、目を閉じた。




