戻るって決めた日
その夜、俺は布団の中で何度も吸って、吐いて、吐いてをした。
吐き切ったあとに、もう少し吐く。
胸が空っぽになる手前で、肩が落ちる。肩が落ちると、畳の匂いが少し濃くなる。
旅館が、小さく軋む。
木が呼吸する音。
障子の向こうの夜が、静かに息をしている。
俺は、目を閉じたまま小さく言った。
「今日も戻れた」
その言葉は畳に落ちて、木の目に染みて、旅館の呼吸に混ざった。
そのまま眠った。
眠りは深かった。
――夢の中で、風の音が一度だけ、人の声に似た。
俺は目を開けないまま、吐いた。
長く。
吐き切って、さらに吐く。
声はただの風になって、遠くへ流れた。
それで、朝が来た。
目が覚めた瞬間、分かった。
今日は、重い。
鳥は鳴いている。
風もある。
水も流れている。
起き上がると、肩が少し張る。
昨日の疲れが、きれいに残っている。
廊下へ出る。
板の冷たさが足裏にくっきり来る。
冷たさの奥に、少しだけ湿り気がある。空気が濡れている。
台所へ行くと、出汁の匂い。
味噌の匂い。
米の匂い。
いつも通りの匂いのはずなのに、そこに、もう一つ混じっている。
鉄っぽい。
乾いた風。
羽の粉みたいな白い匂い。
俺は、息を止めないまま、台所の端で立った。
紬命が鍋の前にいた。
袖口は少しだけ折ってある。
背中がまっすぐで、無駄がない。
「……起きたか」
「おはようございます」
返事の代わりに、湯のみ。
俺は受け取って一口飲む。温い。
温いのに、喉の奥が少しだけピリ、とする。
襖の向こうから、小さな足音。
文ちゃん。
眠そうな目。
「……おはようございます……優さん……」
「おはよう。今日は、どう?」
文ちゃんはすぐ答えない。
そのかわり、胸の前で両手を合わせて、三回、小さく息をした。
吸って、吐いて、吐いて。
「森が……呼んでます……」
天狗が言っていた呼ばれ始める。
それが、もう始まっている。
もう一つ足音。
鈴華。
淡い色の借り物の着物。
帯は昨日より整っている。
けれど、指先が少しだけ落ち着かなくて、袖口をつまんで離す。
「……おはよう」
「おはよう、鈴華」
鈴華は俺を見てから、文ちゃんを見る。
それから、窓の方へ視線をやって、眉を少しだけ寄せた。
「……今日は音が嫌な感じがする」
「嫌な感じ?」
「……うん。直観だけど」
朝食は静かだった。
箸の音。
椀が畳に置かれる音。
味噌汁の湯気。
今日は、外の森の気配が、その静かさの隙間に入り込んでくる。
食べ終わる頃、紬命がふっと息を吐いた。
「……優」
「はい?」
「今日は、奥へは行くな」
俺は、息を止めた。
「……天狗に会いに行く」
紬命は鍋の蓋を閉めた。
カン、と小さな音だった。
「……行くなら、戻ってこい」
俺はすぐ答えない。
吸って、吐いて、吐いて。
「……戻ってきて、ちゃんと二人も戻す」
ちゃんと、その言葉が、精一杯の覚悟の表し方だった。
紬命の動きが一瞬だけ止まる。
止まって、それから、いつも通りに戻る。
「……文」
「……はい……」
「今日は、花畑までだ。鈴華も」
「……うん」
「様子が、少しでも変なら戻ってこい」
文ちゃんが俺を見る。
心配と、頼りたい気持ちが混ざった目に見えた。
「……優さん……」
「大丈夫かどうかは、途中で決める。でも、必ず戻れるようにするから」
文ちゃんは、迷ってから頷いた。
「……はい……」
鈴華は、袖口から指を離した。
「……優、今日も一緒に行く?」
「花畑までは一緒に行く。そこで、変わりが来たら戻るよ」
「……天狗のところは?」
「そこは、俺だけ」
鈴華が一瞬だけ唇を噛む。
文ちゃんも同じように、小さく息を止めかける。
俺は先に吐いて、空気を落ち着かせる。
「二人は、紬命さんの言う通りにして欲しい」
鈴華が、小さく頷く。
「……分かった」
文ちゃんも頷く。
「……はい……」
出発の前、俺は裏庭で枝を一本拾った。昨日と同じような枝。
今日は昨日より軽い。
強く握らない。
逃げない程度に。
潰さない程度に。
落とさない程度に。
息を吐く。
吐いたぶんだけ、指を緩める。
枝は落ちない。
裏口を開ける。
空気が変わる。
土の匂い。
木の匂い。
水の匂い。
そして、今日はそこに、薄い金属みたいな匂い。
森の奥で何かが擦れている匂い。
文ちゃんは布袋を胸の前で持っている。
鈴華は袖口を少し握っている。
握り方は強すぎなかった。
俺たちは森へ入った。
土が柔らかい。
光が丸い。
葉が揺れる。
鳥が鳴く。
いつもの風景だった。
しかし、歩くたび、胸の奥に薄い圧が乗る。
押しつぶされるほどじゃない。
油断したら息が浅くなる種類の重さ。
俺は先頭に立つ。
二人の呼吸が追いつく場所に、自分を置く。
文ちゃんがぽつりと言った。
「……今日、匂いがきついです……」
「うん。きついね」
鈴華が少しだけ眉を寄せる。
「……なんか森が、近い感じがする」
近い。
それも正確だった。
今日は森の輪郭が近い。
木の影が、いつもより一歩前に出ている。
枝先がふわ、と揺れる。
風は左。勢いは、弱い。
なのに、葉が揺れすぎている。
風と揺れが合っていない。
俺は息を吐く。
長く。
吐き切って、さらに吐く。
少し、気合を入れる。
音が分かれる。
鳥は鳥。
葉は葉。
水は水。
でも、その間に、細いものが一本混じっている。
――擦る音。
爪じゃない。
枝が枝を撫でる音でもない。
もっと乾いた、薄い音。
文ちゃんが一度だけ立ち止まりそうになる。
俺は振り返らずに言う。
「止まらない。息だけ合わせて」
「……うん」
「……はい……」
花畑の手前。
光が少し開ける場所。
草が短い。
白、薄紫、淡黄。
小さな点が、草の中で呼吸しているみたいに散っている。
鈴華が立ち止まって言った。
「……すごい」
「綺麗だろ」
文ちゃんは花を摘まない。
ただ近くで見て、匂いを吸う。
「……やわらかい……」
鈴華もしゃがむ。
花に触れる。
その指先が、少し震えている。
――枝先が、引かれた。
ほんの少し。
ほんの少しなのに、引かれ方が鋭かった。
耳が、痛い。
音が分かれる。
鳥の声はある。
風もある。
葉も揺れている。
揺れの重さが、一瞬だけ違う。
重さのある揺れ。
昨日より近い。
匂いも、近い。金属みたいな匂いが、花の匂いの上に薄く乗る。
文ちゃんが息を止めそうになった。
鈴華も、口を開きかけて閉じる。
俺は先に言う。
「ここまで。今日はここで戻ろう」
鈴華が、顔を上げる。
「……もう?」
「うん」
文ちゃんも顔を上げる。
「……狐さん……」
文ちゃんの声が少し揺れる。
「狐さんに会えたら嬉しいよ。でも、会えなくても戻るべきなんだ」
鈴華が俺の枝を見る。
「……それで分かるの?」
「枝だけじゃない」
俺は耳に力を入れすぎない。
匂いも探しすぎない。
目も一点に置かない。
「変わりがあるんだ」
文ちゃんが、小さく頷いた。
「……はい……」
俺たちは、戻り始める。
戻る時に大事なのは、焦らないこと。
俺は吐きながら歩く。
吐くと、後ろの二人の足音が聞こえる。
文ちゃんの足音は小さい。
土を踏む音が柔らかい。
鈴華の足音は少し硬い。
まだ森に慣れていない硬さ。
でも、昨日より少しだけ柔らかくなっている。
途中で、鈴華がぽつりと言った。
「……優」
「ん?」
「……私、今、すごく怖い」
「……うん。今は、怖いままでいい」
「……戻る?」
「もう戻ってる」
鈴華が少しだけ息を吐いた。
「……そっか」
花畑を抜ける。
木々の影が増える。
森の奥で葉が揺れた。重さのある揺れ。
鳥の鳴き方が短くなる。
さっきより近い。
背中に冷たいものが走る。
吐く。
吐き切って、さらに吐く。
音が分かれる。
揺れは左。
匂いは右。
鳥は後ろ。
擦る音は前。
全部が分かれると、選べる。
俺は、枝を少しだけ上げて、枝先の揺れを抑える。
揺れを抑えるんじゃない。揺れ方を選ぶ。
天狗の言葉が、身体の中で動く。
道を少しだけ外側へずらす。
道から外れない範囲で、踏まれていい場所を選ぶ。
土が支える。
森が支える。
俺は心の中で言った。
――森を敵にするな。森を味方にしろ。
その瞬間、視界の端に白が見えた。
木の影の縁。
白狐。
今日の白狐は、昨日より近い。
目がこちらを見つめている。
文ちゃんが、息を飲むのが分かった。
しかし、文ちゃんは走らない。急がない。
礼儀正しく、小さく頭を下げた。
「……狐さん……」
白狐は答えない。
尾が、ゆっくり一度揺れた。
それだけで十分だった。
白狐が一歩前に出る。
木の影の縁に立ったまま、こちらの進行方向を塞ぐように見せる。
「ありがとう」
鈴華が小さく言った。
「……今の、私にも分かった気がする」
「何が?」
「……行くな、って」
文ちゃんが頷いた。
「……はい……」
白狐はもう一度尾を揺らして、森の奥へ溶けるみたいに消えた。
匂いが薄くなる。
揺れが遠くなる。
森が呼吸を戻した。
俺は二人を見る。
「戻ろう」
二人とも頷く。
戻る。
ただ戻る。
裏口が見えた時、二人の肩が同時に少し落ちた。
旅館の屋根。
湯気。
木の匂い。
人の匂い。
戻ってきた匂いだ。
俺は裏口の前で一度止まって、三回息をした。
吸って、吐いて、吐いて。
それから戸を開ける。
温度が変わる。
家の温度。
生きている匂い。
文ちゃんが靴を揃える。いつもより丁寧に。
鈴華も揃える。
揃えた指先が、少しだけ震えている。
怖さが抜けた震え。
台所へ行くと、紬命が鍋の前にいた。
振り返らない。
「……戻ったか」
「うん。戻った」
俺は短く言う。余計なことを言わない。
文ちゃんが小さく言った。
「……ただいま……」
鈴華も少し遅れて言う。
「……ただいま」
紬命は返事をしない。
代わりに鍋の蓋を開ける。湯気が上がる。
その湯気が、二人の胸を少しだけ緩める。
俺は枝を壁に立てかける。
枝を見て、鈴華が言った。
「……優、これが耳なんだよね」
「そうだよ」
「私、いつか自分でも持ってみたい」
「いいよ。でも、頼り切らないようにね」
鈴華が小さく笑う。
「うん。分かった」
文ちゃんが俺の袖をほんの少しだけつまんだ。
「……優さん…」
「ん?」
「……今日、狐さんいました」
「いたね」
「……守ってくれました……」
「うん。守ってくれた。でも、文ちゃんも守ったんだよ」
「……え?」
「走らなかった。急がなかった。ちゃんと戻った。あれは文ちゃんの力だ」
文ちゃんは少しだけ目を丸くする。
それから、ゆっくり頷いた。
「……はい……」
紬命が鍋の前で、ふっと息を吐いた。
それは、ほとんど音のない肯定だった。




