花畑からの帰還
それを、明日は、誰かのためにも、使えるようにする。
その夜、俺は布団の中で何度も吸って、吐いて、吐いてをした。
吐き切ったあとに、もう少し吐く。
俺は、選べることが嬉しいのに、嬉しさに飲まれないように、また吐いた。
俺は、目を閉じたまま、旅館の軋みを聞いた。
木が呼吸する音。
畳が少しだけ沈む音。
遠い水の音。
俺は小さく言う。
「……明日も、戻る」
誰に言ったわけでもない。
けれど、その言葉は、畳に落ちて、木の目に染みて、旅館の呼吸に混ざった。
そのまま眠った。
眠りは深かった。重いのに、沈みすぎない。
翌朝。
台所の匂いが、少しだけ早い。出汁の湯気が、まだ薄い時間。
廊下に出ると、紬命がいた。鍋の前。袖口はいつも通り少しだけ折ってある。
「……起きたか」
「おはようございます」
返事の代わりに湯のみ。俺は受け取って一口飲む。
温い。喉の内側がほどける。
襖の向こうから小さな足音。
文ちゃん。
寝癖が少し残っていて、目がまだ完全に開いていない。
「……おはようございます……優さん……」
「おはよう。よく眠れた?」
文ちゃんは迷って、こくん、と頷いた。
「……はい……」
もう一つ足音。鈴華。
淡い色の借り物の着物。
「……おはよう」
「おはよう、鈴華」
鈴華は俺を見て、それから文ちゃんを見る。
言葉は少ない。けれど、視線が前より優しい。
朝食は、いつも通り静かだった。
安心して言葉を使わなくていい静けさ。
文ちゃんは味噌汁を両手で持って飲む。
鈴華は白飯を口に運び、飲み込んでから少しだけ目を細める。噛み締めるみたいに。
紬命は何も言わない。けれど二人の椀の減り方を全部見ている。
食べ終わる頃、紬命がふっと息を吐いた。
「……優」
「はい?」
「今日も、行くか」
俺は、すぐに答えない。
三回、息をする。
吸って、吐いて、吐いて。
「……行く」
紬命は頷くだけ。
それから、視線が文ちゃんに落ちた。
「……文」
「……はい……」
「今日は、花畑まで」
文ちゃんの肩が少し緩む。
「……はい……」
鈴華が、小さく言う。
「……私も」
紬命は鈴華を見る。
「……無理はするな」
「……うん」
そこまでで、話は終わったみたいだった。紬命は湯のみを片付け始める。
俺は少しだけ迷ってから言った。
「……今日、俺は、二人を連れて行きたい」
包丁の音が止まる。紬命は止めない。止めないけれど、目が少しだけ鋭くなる。
「……森へ?」
「うん」
鈴華が驚いた顔をする。
「……え、優、私たちを?」
文ちゃんも俺を見る。心配と、頼りたい気持ちが混ざった目。
俺は、焦らずに吐いた。
「花畑まで、道から外れないし、変だと思ったら戻る」
紬命が、しばらく黙る。
鍋の蓋を閉める。カン、と小さな音。返事の代わり。
「……条件がある」
「うん」
「奥へ行くな」
「行かない」
「風が変なら、すぐ戻れ」
「戻る」
紬命は、それ以上言わない。
文ちゃんが小さく言う。
「……優さん……大丈夫……ですか……」
俺は、笑わない。
代わりに三回息をしてから言った。
「大丈夫かどうかは、途中で決める。でも、戻れるようにするよ」
文ちゃんは、迷って、それから頷く。
「……はい……」
鈴華は、帯の端から指を離した。
「……優。私、足、遅いかもしれない」
「遅くていい」
「……迷惑じゃない?」
「迷惑なら連れてこないよ」
鈴華は、ほんの少しだけ笑った。
出発の前、俺は裏庭で枝を一本拾った。
昨日は持たないと言ったのに、今日は持つ。
誰かを連れて戻るため。
枝は武器じゃない。杖でもない。
枝先が揺れたら風。枝先が引かれたら森の変わり。
俺は、枝を持って、息を吐いた。
裏口を開ける。
空気が変わる。
土の匂い。木の匂い。水の匂い。
文ちゃんは布袋を胸の前で持っていた。
鈴華は、袖口を少し握りながら歩く。
握り方が強すぎない。
天狗の言葉が、勝手に重なる。
俺たちは森へ入る。
土が柔らかい。光が丸い。葉が揺れる。
鳥が鳴いている。
俺は先頭に立つ。
後ろの二人の呼吸が追いつく場所に、自分を置く。
文ちゃんがぽつりと言う。
「今日……鳥さん……多いです……」
「うん。多いね」
鈴華が少しだけ息を吸って、吐く。
「……音が、分かれる」
「分かれる?」
鈴華は小さく頷いた。
「……昨日まで、全部が一緒に聞こえてた」
俺は、それが嬉しかった。
枝先が、ふわ、と揺れる。風は左から。弱い。
俺は視線を一点に置かない。
鳥が止まったら、風が止まったら、匂いが変わったら、葉の揺れが重くなったら。
花畑の手前。
光が少し開ける場所。
文ちゃんの歩幅が、ほんの少しだけ速くなる。
走らない。急がない。
花畑が見える。
白、薄紫、淡黄。
小さな点が、草の中で呼吸しているみたいに散っている。
鈴華が、立ち止まって言った。
「……すごい……」
俺は息を吐く。
「綺麗だろ」
文ちゃんは、花を摘まない。ただ、近くで見て、匂いを吸う。
「……やわらかい……」
鈴華もしゃがむ。花に触れる。
その時、枝先がほんの少しだけ引かれた。
俺は吐いた。
長く。吐き切って、さらに吐く。
音が分かれる。
鳥の声はある。風もある。葉も揺れている。
揺れの重さが、一瞬だけ違った。
重さのある揺れ。
文ちゃんが、息を止めそうになったのが分かった。
俺は、先に言う。
「ここまで。今日はここで戻る」
鈴華が顔を上げる。
「……もう?」
「うん」
文ちゃんも顔を上げる。
「……白い狐さん……」
文ちゃんの声が少しだけ揺れる。
俺は三回息をしてから言った。
「狐さんに会えたら嬉しいよ。でも、会えなくても戻るべきなんだ」
鈴華が、俺の持っている枝を見る。
「……それで分かるの?」
「枝だけじゃない」
俺は、耳に力を入れすぎない。匂いも探しすぎない。目も一点に置かない。
「変わりがあるんだ」
文ちゃんが、小さく頷いた。
「……はい……」
俺たちは、ゆっくり戻り始める。
戻る時に大事なのは、焦らないこと。
俺は息を吐きながら歩く。
吐くと、後ろの二人の足音が聞こえる。
文ちゃんの足音は小さい。土を踏む音が柔らかい。
鈴華の足音は少し硬い。まだ慣れてない。
途中で、鈴華がぽつりと言った。
「……優」
「ん?」
「……私、今、怖い」
俺はすぐ答えない。
三回息をする。
「……うん。怖いままでいいんだ」
「……戻る?」
「もう戻ってる」
鈴華が、少しだけ息を吐いた。
「……そっか」
花畑を抜ける。
木々の影が増えてくる。
森の奥で葉が揺れた。重さのある揺れだった。
鳥の鳴き方が、短くなる。
俺の背中に冷たいものが走る。
だけど、走らない。
吐く。
吐き切って、さらに吐く。
音が分かれる。揺れは左。匂いは右。鳥は後ろ。
俺は、二人の前に立ちすぎない位置に身体を置いて言う。
「止まらない。歩き続ける。息だけを合わせて」
文ちゃんが頷く。
鈴華が頷く。
俺は枝を少しだけ上げて、枝先の揺れを抑える。
俺たちは、道を少しだけ外側へずらす。道から外れない範囲で、踏まれていい場所を選んでいく。
土が支える。
森が支える。
俺は、心の中で言った。
――森を敵にするな。森を味方にしろ。
その瞬間、視界の端に白が見えた。
木の影の縁。
白狐。
今日の白狐は、遠い。目がこちらを見つめている。
文ちゃんが、息を飲むのが分かった。
しかし、文ちゃんは走らない。急がない。
ただ、礼儀正しく、小さく頭を下げた。
「……狐さん……」
白狐は、答えない。
尾が、ゆっくり一度揺れた。
それだけで十分だった。
白狐が一歩前に出る。
木の影の縁に立ったまま、こちらの進行方向を塞ぐように見せる。
俺は吐いた。
「ありがとう」
俺が言うと、鈴華が小さく言った。
「……今の、私にも分かった」
「何が?」
「……行くな、って」
文ちゃんが頷いた。
「はい……」
白狐は、もう一度尾を揺らして、森の奥へ溶けるみたいに消えた。
匂いが薄くなる。揺れが遠くなる。
森が呼吸を戻した。
俺は、二人を見る。
「戻ろう」
二人とも頷く。
戻る。
ただ戻る。
裏口が見えた時、二人の肩が同時に少し落ちた。
旅館の屋根。湯気。木の匂い。人の匂い。
戻ってきた匂いだ。
俺は、裏口の前で一度止まって、三回息をした。
吸って、吐いて、吐いて。
それから戸を開ける。
温度が変わる。
家の温度。
生きている匂い。
文ちゃんが靴を揃える。いつもより丁寧に。
鈴華も揃える。
台所へ行くと、紬命が鍋の前にいた。
振り返らない。
「……戻ったか」
「うん。戻った」
俺は短く言う。余計なことを言わない。
文ちゃんが小さく言った。
「……ただいま……」
鈴華も少し遅れて言う。
「……ただいま」
紬命は返事をしない。
代わりに、鍋の蓋を開ける。湯気が上がる。
俺は、枝を壁に立てかける。
枝を見て、鈴華が言った。
「……優、これが耳なんだよね」
「そうだよ」
「私、いつか自分でも持ってみたい」
「いいよ。でも、頼り切らないようにね」
鈴華が、小さく笑う。
「うん。分かった」
文ちゃんが、俺の袖をほんの少しだけつまんだ。
「……優さん…」
「ん?」
「……今日、狐さんいました」
「いたね」
「……守ってくれました……」
「うん。守ってくれた。でも、文ちゃんも守ったんだよ」
「……え?」
「走らなかった。急がなかった。ちゃんと戻った。あれは文ちゃんの力だ」
文ちゃんは少しだけ目を丸くする。
それから、ゆっくり頷く。
「……はい……」
その日の午後、俺は一人で森へ向かった。
天狗に会うため。
紬命は止めない。
「……優」
「はい?」
「戻ってこいよ」
「うん」
俺は裏口を出る。
森の匂いが入る。
俺は息を吸って吐いた。
背中で吸って、長く吐く。
木の間を抜ける。
羽音。
「おお、戻ってきたか」
天狗がいた。
赤ら顔。高い鼻。白い翼。
今日は翼を畳んで、木の幹にもたれている。妙に人間っぽい姿勢。
「……はい」
「顔が違うのう」
天狗は笑う。腹の底から。
「できたか」
「できました。花畑まで。変わりを拾って、戻りました」
「よし」
天狗が頷く。
「では、次じゃ」
「次……?」
「戻る紐を、さらに太くする」
「……どうやって」
天狗は、俺の目を見た。
「“戻る”を太くするにはな」
「戻れないものを、一つ増やすんじゃ」
「戻れないもの?」
「守るものじゃ」
天狗は、そう言って笑った。
笑ったまま、森の奥を指差す。
「明日は、もっと“重い日”にしてやる」
「……え?」
「怖さが来る」
「迷いが来る」
「そこで、お主が“戻れる”のが本物じゃ」
天狗が、ふっと真面目な声になる。
「そして」
少し間。
「文という子も、鈴華という娘も、森に呼ばれ始めておる」
俺の背中に冷たいものが走る。
天狗は、俺を見る。
「お主は」
「戻る力を芽にした」
芽。
まだ芽。
だから、折れるかもしれない。
折れないように、太くする。
天狗は、俺の肩を軽く叩く。
「帰れ」
「……はい」
「今日は、喜びすぎるな」
「……はい」
俺は苦笑した。
天狗は大笑いした。
笑い声が森を揺らす。
俺は、息を吐いて、戻る。
旅館の屋根の匂いまで戻る。
湯の匂い。木の匂い。人の匂い。
戻る匂い。
裏口の前で一度止まる。
吸って、吐いて、吐いて。
戸を開ける。
温度が変わる。
家の温度。
生きている匂い。
台所の包丁の音。
湯気の匂い。
「……ただいま」
紬命は振り返らない。
文ちゃんがこっちを見る。
「……おかえりなさい……優さん……」
鈴華も言う。
「……おかえり」
「ただいま」
たったの四文字。
それだけで、十分だった。
明日は、もっと重い日になるだろう。
天狗がそう言った。
怖い。
だけど、明日が少しだけ待ち遠しい。




