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森を味方にするために

 怖いままでも、歩ける。

 歩けるままでも、帰れる。

 その言葉が、胸の奥に落ちて、ゆっくり沈んだ。

 沈んで、底に触れた。


 翌日も、森はそこにあった。

 昨日ほど騒いでいない。

 でも、静かすぎもしない。

 風は風で。

 鳥は鳥で。

 水は水で。

 それぞれが、ちゃんと自分の場所で鳴っている。


 俺は、朝の湯を一口飲んでから、裏口を開けた。

 紬命は、昨日とと同じ顔で、鍋の前にいる。

 止めない。

 あの人の優しさはいつも、境界の形をしている。


 森に入ると、土が少し冷たい。

 日が上がり切る前の冷たさ。

 前腕の痛みはもう鈍いに近い。

 忘れられる痛み。

 だから、調子に乗りそうになる。

 その瞬間、昨日の天狗の笑い声が、頭のどこかで鳴った。

 ――走るな。

 ――固めるな。

 ――戻れ。

 俺は、息を吸う。

 背中で。

 吐く。

 長く。

 吐き切ったと思ってから、もう少し。

 森が、また少し分かれる。

 葉は葉。

 鳥は鳥。

 今日は、枝を拾わなかった。

 天狗に「頼り切るな」と言われたのが、少し悔しかったから。

 木の間を抜ける。

 ふと、羽音。

「おお、偉い顔になったのう」

 天狗は、昨日と同じ場所――いや、同じに見える場所で待っていた。

 森の中で「同じ」は信用しない方がいい。

 けれど、天狗の匂いは覚えた。

 鉄っぽい。

 乾いた風。

 羽の粉みたいな、白い匂い。

「……偉い顔って」

「戻れる顔じゃ」

 天狗は腹の底から笑う。

「さて、今日からは“戻る”を太くするぞ」

「太く?」

「細い紐で戻ると、途中で切れる。切れたら、お主はまた走り出す」

 天狗は、地面に指で円を描いた。

 枝でも石でもない。

 指先だけで、土に線が残る。

 残るのに、すぐ消えそうな線。

「ここが“今”じゃ。お主の足の下じゃ」

「はい」

「ここから、“戻る”を始める。始められなかったら戻れない。始められるなら、どこからでも戻れる」

 天狗は、俺の背中を軽く叩いた。

 背骨の真ん中。

 そこを叩かれると、息が勝手に落ちる。

「まず、立つ」

 天狗は線を一本引かない。

 かわりに、俺の周りを歩き始めた。

「目を動かすな」

「……一点を見るなって」

「一点を見るな、とは恐れの一点を探すな、という意味じゃ。いまは“自分”を一点にしろ」

 言葉が難しい。

 けれど、身体は理解した気がした。

 俺は、足の指を使って立つ。

 踵で地面を刺さない。

 膝を固めない。

 背骨で立つ。

 天狗が、急に後ろから葉を投げてくる。

 顔の横を、ひらりと落ちる。

 反射で目が追いそうになる。

 俺は吐く。

 長く。

 目が戻る。

「よし」

「次は、“揺れ”じゃ」

「揺れないのは無理です」

「揺れていい。揺れ方を選べ」

 天狗は、俺の前に立つ。

 赤い顔が、近い。

 鼻が高い。

 目が、子供みたいに澄んでいる。

「森は揺れる。風も揺れる。水も揺れる。揺れないのは石だけじゃ」

「お主は石になろうとするから、折れる」

 俺はずっと、石になろうとしていたのか。

 折れて、砕けて、砂になって、それでも石のふりをしていた。

「揺れて、そして、戻れ」

「揺れて、戻る……」

「そうじゃ。揺れたら戻す。戻したらまた揺れる。それを繰り返して、太くする」

 天狗は、俺の肩に手を置く。

「歩くぞ」

 天狗は森の中へ進む。

 昨日より、少しだけ奥。

 木が太くなる。

 苔が厚い。

 地面が柔らかい。

 足を置く。

 置きながら決める。

 決めながら置く。

 ぐに、と沈む。

 でも、沈むのを拒まない。

 沈んだら、その分だけ戻す。

 足の指で掴む。

 土が、足を受け止める。

 天狗が言う。

「よい。今のは“森の許し”じゃ」

「許し?」

「森は踏まれるのを嫌う場所と、踏まれてもいい場所がある。嫌う場所を踏むと、引っ張られる。いい場所なら、支える」


 天狗が急に立ち止まった。

 俺も止まる。

 息を止めない。

 吐きながら止まる。

「匂い」

「……え?」

「匂いが変わった。拾え」

 俺は鼻で吸った。

 森の匂い。

 土。

 苔。

 水。

 そこに、薄い金属みたいな匂いが混ざっている。

 鉄でもない。

 血でもない。

「……何か、います」

「よい」

「怖いか」

「……少し」

「それでいい」

 天狗は、少し笑う。

「見えないものを、目で探すな」

「目は、変わりだけ見ろ」

「見えないものは、耳と匂いで拾え」

 俺は吐いた。

 吐いたぶん、肩が落ちる。

 肩が落ちると、音が分かれる。

 遠くで、鳥が鳴いた。

 鳴き方がいつもと違う。

 短い。

 天狗が、ふっと鼻で笑った。

「鳥は正直じゃ」

 その瞬間、葉が揺れた。

 風じゃない。

 重さのある揺れ。

 昨日、文ちゃんが言っていたのと同じ揺れ。

 俺の背中に冷たいものが走る。

 逃げたい。

 走りたい。

 天狗が、俺の後ろに立つ。

「走るな」

「……はい」

「走りたいぶん、吐け」

 俺は吐く。

 長く。

 吐き切って、さらに吐く。

 視界が、少しだけ明るくなる。

 明るくなるのに、怖さは消えない。

 音が混ざらない。

 葉の揺れは、左。

 匂いは、右。

 鳥の鳴き方は、後ろ。

 それぞれが分かれる。

 分かれると、選べる。

「どうする」

 天狗が言う。

「戻る」

 俺は即答した。

 天狗が笑った。

「よし。それが“強さ”じゃ」

 俺たちは、三歩だけ下がった。

 葉の揺れが、少し遠くなる。

 匂いが薄くなる。

 鳥の鳴き方が普通に戻る。

 森が、呼吸を戻した。

 天狗が言う。

「お主は、今、勝った」

「何に?」

「自分の中にある癖じゃ」

 その言葉は、妙に胸に残った。

 天狗は、少しだけ顔を真面目にする。

「次は“手”じゃ」

「手?」

「お主は助けたいと言った。なら、手が使えねばならぬ」

 天狗は、地面に落ちている木の実を拾って、俺に渡した。

 丸い。

 固い。

 少しだけ温い。

「握れ」

 俺は握る。

 力が入る。

「強く握るな」

「……え?」

「逃げない程度に握れ。潰さない程度に握れ。落とさない程度に握れ」

 握るって、こんなに難しかったか。

 天狗が言う。

「誰かを支える手は、押さえつける手ではない」

 紬命の触れ方が、また頭に浮かぶ。

 文ちゃんの背中に回る腕。

 抱き上げないのに、倒れない位置。

 天狗は、俺の手元を覗く。

「もっと、息で握れ」

「息で?」

「吐け。吐いたぶんだけ、指を緩めろ」

 俺は吐く。

 指が、ほんの少しだけ緩む。

 木の実は落ちない。

 潰れない。

「よし」

 天狗が言う。

「それが、支える手じゃ」

 次は、木の枝。

 次は、苔のついた石。

 次は、落ち葉。


 天狗が急に言った。

「お主、文という子を守っておるな」

 心臓が跳ねた。

「……はい」

「鈴華という娘も」

「……はい」

「守るとはな、前に立つだけではない。倒れないことでもある」

 天狗は、木の上に飛び乗った。

 軽い。

 翼を使っていないのに軽い。

「次は“間”じゃ」

「間……?」

「返事を急ぐな」

 天狗は枝を折って、下へ落とす。

 パキ、と音。

 葉に当たって、ふわ、と落ちる。

 地面に着く。

「落ちる間に、森は何回息をした」

 俺は息を止めずに数える。

「……三回」

「よし。なら、お主の返事も三回息をしてからにしろ」

 天狗は笑う。

「お主は優しいのに、急ぐと乱暴になる」

 図星だった。

「だから、息じゃ」

「息が、全部を繋ぐ」

 俺は頷いた。

 頷いたあとも、三回息をした。

 それだけで、少し落ち着く。

 天狗は、次の稽古に入る。

 今度は、道を作る。

 森の中に、目印を作るんじゃない。

 枝を折るな。

 石を積むな。

 傷をつけるな。

「お主の身体に道を作れ」

「……身体に」

「息と足と匂いと音に、順番を作れ」

 天狗は、俺を少しだけ遠回りさせる。

 川の音が近い場所。

 苔が厚い場所。

 風が抜ける場所。

 木の太さが変わる場所。

 それぞれを通って、戻る。

 戻るとき、逆の順番で戻る。

「順番が、道じゃ」

「順番を覚えるのは、頭じゃない」

「腹じゃ」

 腹。

 息。

 吐く。

 俺は、順番を腹で覚えようとする。

 難しい。

 天狗は、嬉しさにすら釘を刺す。

「喜びすぎるな」

「……え?」

「喜びすぎると、油断する」

 俺は苦笑した。

 天狗は大笑いした。

 笑い声が森を揺らす。

 その日の稽古は、昼まで続いた。

 長いのに、短い。

 汗は出る。

 足は疲れる。

 喉は渇く。


 最後に天狗は、また言った。

「帰れ」

「……はい」

「今日は、枝を持つな」

「……はい」

「枝なしで戻れたら、明日は枝を持って“誰かを連れて”戻れ」

 誰かを連れて。

 文ちゃん。

 鈴華。

 俺の胸の奥が、少しだけ熱くなる。

「できるか」

 天狗が聞く。

 俺はすぐ答えない。

 三回息をする。

 吸って、吐いて、吐いて。

「……やります」

 天狗は満足そうに頷いた。

「よし。昔々の契りも、少しずつ形になる」

 また、それだ。

 契り。

 分からない。

 だが、分からないままでも、今日は戻れる。

 俺は、天狗に頭を下げて、歩き出した。


 帰り道。

 森は、少しだけ軽い。

 俺は、足を置く。

 息を吐く。

 匂いを拾う。

 音を分ける。

 変わりを見る。

 遠くに、湯の匂いが混じる。

 木の匂いが少し甘くなる。

 旅館の屋根が見える。

 戻れた。

 戻れたことが、身体に遅れてくる。

 指先が少し震える。

 裏口を開ける。

 温度が変わる。

 家の温度。

 生きている匂い。

 台所の包丁の音。

 湯気の匂い。

「……ただいま」

 紬命は振り返らない。

 文ちゃんがこっちを見て、小さく言う。

「……おかえりなさい……優さん……」

 鈴華も、少し遅れて言う。

「……おかえり」

 俺は、三回息をした。

 それから、笑う。

「うん。戻ってきた」

 紬命の声が、背中に落ちる。

「……明日も、行くか」

 俺は頷く。

 今度は、頷いたあとに息をする。

「うん。行く」

 怖いままでも、歩ける。

 歩けるままでも、帰れる。

 それを、明日は、誰かのためにも、使えるようにする。

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