迷い森の師匠
誰に言ったわけでもない「ただいま」は、畳に落ちて、木の目に染みて、旅館の呼吸に混ざった。
そのまま眠った。
眠りは深かった。重いのに、沈みすぎない。
翌朝。
俺は、目が覚めた瞬間に分かった。
森が、呼んでいる。
もっと静かな、でも、断りにくい呼び方。音じゃないのに、胸の奥が引っ張られる。
廊下に出ると、紬命がすでにいた。朝の光を吸う着物。目線は、俺の顔に一瞬だけ落ちて、すぐ外へ抜けた。
「……行くなとは言わん」
紬命が言う。
「……だが、戻ってこい」
「うん」
俺は頷いて、裏口の戸を開けた。
空気が変わる。
森の匂いが、肺の奥に入る。昨日より少し湿り気がある。
風は強くない。なのに、葉が揺れている。
足を踏み出す。
森の土は柔らかい。けれど、今日は「受け止め方」が違う。
沈む場所と沈まない場所が、妙に細かく分かれている。踏み外したら、足首を取られる種類の柔らかさ。
足の裏で探る。
昨日の天狗の言葉が、勝手に戻ってくる。
息を吸う場所。吐く場所。目を向ける場所。
俺は、息を吸った。
ゆっくり。
背中が膨らむ感覚。
吐く。長く。口は小さく開ける。
吐いた分だけ、肩が落ちる。
これだけで、足元が少し見える。
木の間を抜けると、風が一度だけ、頬を撫でた。
――羽音。
頭上じゃない。斜め前。
木の上から降りてくる音だ。あの重さのある羽の打ち方。
「おお、来たか」
天狗がいた。
赤ら顔。高い鼻。
昨日ほど威圧はない。森の空気に馴染んでいる。
白い翼が、朝の光を受けて、ふわ、と薄く透けた。
「昨日は、迷子の顔じゃったが」
「……今日は、昨日よりはマシです」
俺が言うと、天狗は腹の底で笑った。
「そうかそうか。なら、今日は一段上じゃ。――座れ」
天狗が指差したのは、苔の乗った岩だった。
座ると冷たい。身体の熱を少し落ち着かせる冷たさだった。
「まずは、耳じゃ」
「耳?」
「森の声に、飲まれるな。森の声を、聞き分けろ」
天狗は、指を二本立てる。
「いま、お主が聞いとるのは“全部”じゃ。葉が鳴る、枝が擦る、鳥が鳴く、土が沈む。そこに、怖さが混ざると、全部が同じ音になる」
俺は、息を吸った。
「じゃが、森は“全部”で出来とるくせに、音は分かれとる。分けられないのは、人間の方じゃ」
天狗は、俺の額を軽く指で弾いた。
意識が戻る。
「息を吸え。背中で吸え。吐け。長く。吐き切ったあと、吐け」
俺は言われた通りにする。
吐き切ったと思ったあとに、もう少し吐くのは、地味にきつい。腹が勝手に空気を吸いたがる。
吐いたあと、森が少し静かになった。
いや、静かになったんじゃない。俺の中で、音が分かれ始めた。
鳥の声は鳥。葉は葉。水は水。
風は風。
「よし」
天狗が言う。
「次じゃ。立て」
立つと、足が少しふらつく。
腹の奥が空っぽになっているみたいで、身体の芯が軽い。
天狗は枝を一本拾って、地面に線を引いた。
「ここから出るな」
「……線、一本ですよ」
「一本で足りるように立て」
言い方が乱暴なのに、目が真剣だった。
「足の指を使え。踵を地面に刺すな。膝を固めるな。腰で立つな。背骨で立て」
分かったようで分からない。
でも、やってみるしかない。
俺は線の中で立った。
最初の十秒で、足が疲れた。ふくらはぎがじわ、と熱い。足の指が攣りそうになる。
天狗が笑う。
「ほら、すぐ力む。力むと、森が引っ張る。引っ張られたら迷う。迷ったら恐れる。恐れたら、また力む」
悪循環。
俺は息を吸って吐いた。背中で吸って、細く吐く。
すると、足の裏の接地が少し変わった。
踵に乗っていた重さが、土踏まずに移って、指先が地面を掴む。
線の中に、体重が落ちる。
天狗が、少しだけ頷く。
「それじゃ。――次、目」
天狗は、森の奥を指差した。
「一点を見るな。全部を見るな。揺れを見るな。“変わり”を見る」
「変わり……」
「鳥が止まった。風が止まった。匂いが変わった。葉の揺れが重くなった。そういう“変わり”だけ拾え」
俺は森を見る。
全部が動いている。全部が呼吸している。
天狗は、俺の横で急に手を叩いた。
パン。
乾いた音。
俺の肩が反射で跳ねる。
「いま、何が変わった」
「……鳥の声が、一瞬止まった」
「よし。次」
天狗は、足元の小石を蹴った。
コツ、と音。
「何が変わった」
「……自分の目線が下に引っ張られた」
「よし。引っ張られたら戻せ。目線を戻すんじゃない。息を戻す」
俺は息を吐く。長く。
目線が、勝手に戻る。
「お主は、強い力が欲しいと言ったな」
天狗が急に言う。
「はい」
「強い力とはな、殴る力じゃない。戻る力じゃ」
戻る。
迷っても戻る。怖くても戻る。失敗しても戻る。
戻るために必要なのは、派手な技じゃない。呼吸と、足と、視線。
天狗は、腕を組んで俺を見る。
「次は歩くぞ。線の外へ出ろ」
線から出て、少しだけ歩く。
天狗が言う。
「足を置く前に、置く場所を決めるな。置きながら決めろ。決めながら置け」
また、分かったようで分からない。
土は柔らかい。苔は滑る。落ち葉は裏切る。根は引っ掛ける。
それなのに、森の中で歩くのは、どこか気持ちがいい。
「お主、昨日は迷ったと言っておったな」
「……はい」
「迷ったとき、何をした」
「……焦って……走りそうになって……」
「走るな」
天狗が即答する。
「走ると、息が乱れる。息が乱れると、音が混ざる。音が混ざると、森が“声”になる。声になると、怖くなる」
「じゃが、走るなと言うだけでは意味がない。走りたくなる身体を、別のことに使え」
天狗は地面の枝を拾って、俺に渡す。
「これを持て」
俺は枝を持つ。
「枝を武器にするな。杖にするな。耳にする」
「耳……?」
「枝の先が揺れたら、風の方向が分かる。枝の先が引っ張られたら、森が変わったのが分かる。自分の身体の外側に、“もう一本の感覚”を増やせ」
俺は枝を持って歩く。
枝の先が、確かに揺れる。風が目に見えるみたいだった。
天狗が言う。
「その枝は、お主を助ける。じゃが、頼り切るな。枝がなくても戻れるようにしろ」
俺は頷いた。
歩く。
息を吸う。吐く。
足を置く。体重を預ける。
視線は変わりを拾う。
枝の先で風を感じる。
――それを繰り返す。
気がつくと、俺の背中が汗ばんでいた。
身体の内側が熱い。筋肉が熱い。足の裏が熱い。
天狗の稽古は、地味なのに、きつい。
殴られるわけじゃない。走らされるわけでもない。
でも、身体の「癖」を全部剥がされる。
生き延びるために身につけた癖だ。
焦ったら固める。怖かったら見る。見えなかったら走る。
その全部が、森では逆になる。
固めたら引っ張られる。見たら混ざる。走ったら声になる。
「休め」
天狗が言って、俺に水を渡した。
竹筒だった。冷たい。口に含むと、喉が一瞬で生き返る。
俺は息を吐いた。
「……天狗さん」
「何じゃ」
「なんで……俺に」
昨日も聞いた。けど、今日も聞きたくなった。
天狗は、少しだけ目を細める。
「昔々の契りじゃ。遠い昔のな」
意味が分からない。
でも、分からないままで良かった。
天狗は立ち上がる。
「さて、次じゃ。――森の“重い日”に、森の歩き方を覚えろ」
「重い日……?」
「今日みたいな日じゃ。森が騒ぐ日は、迷いやすい。迷いやすい日は、出会いやすい」
出会い。
俺は、昨日の白狐の話を思い出す。文ちゃんが守られた話。遠い匂いの話。
この森は、ただの森じゃない。
ここは夢幻郷だ。境界がある。守るものがいる。借りを返す作法がある。
天狗は、俺の肩を軽く叩いた。
「帰り道を教えるんじゃない。帰り道を“作る”んじゃ」
「作る……」
「息と足でな」
天狗は、俺を少しだけ奥へ連れて行った。
木の太さが違う。苔の色が違う。風の匂いが違う。
俺は、少しずつ分かるようになっていた。
「ここから、ひとりで戻れ」
天狗が言った。
「え?」
「戻れ。走るな。焦るな。怖がるな。――怖がってもいいが、怖さに手を渡すな」
俺は唾を飲んだ。
「……旅館へ?」
「そうじゃ。屋根の匂いまで戻れ」
屋根の匂い。
湯の匂い。木の匂い。人の匂い。
戻る匂い。
俺は、息を吸った。
背中で吸う。長く吐く。
足を置く。
視線は変わりを見る。
枝の先で風を見る。
一歩ずつ。
心臓が速くなる。怖い。迷うかもしれない。
でも、その怖さを「走る」じゃなく「息」に使う。
吐く。
吐くと、音が分かれる。
鳥の声が戻る。遠くの水の音が分かる。
水は、旅館の庭の池じゃない。川の方向。
川の方向が分かると、旅館はその反対にある。
そんなこと、昨日までは考えられなかった。
今日は、考えなくても身体が動く。
気づくと、光が少しだけ明るくなっていた。
木の隙間が開いている。風の匂いが柔らかい。
遠くに、湯の匂いが混ざった。
木の匂いが、少しだけ甘くなる。
見えた。
旅館の屋根。
俺は立ち止まって、天狗の方角を振り返った。
当然、いない。
だけど、羽音が遠くで一度だけ鳴った気がした。
俺は、歩いて裏口へ向かった。
戸を開ける。
温度が変わる。
家の温度。
生きている匂い。
台所の包丁の音。
湯気の匂い。
俺は、玄関で靴を脱ぎ、揃えた。
揃えた指先が、少し震えていた。
怖かったからじゃない。
戻れたからだ。
戻れたことが、身体に遅れてきた。
俺は、台所へ向かって、息を整えてから言った。
「……ただいま」
紬命は振り返らない。鍋の蓋を閉める音だけが返事だ。
文ちゃんがこっちを見て、小さく言った。
「……おかえりなさい……優さん……」
鈴華も、少し遅れて言う。
「……おかえり」
俺は、笑う代わりに、息を吐いた。
吐いた息が、湯気に混ざって、見えなくなる。
見えなくなるのに、消えない。
――今日、俺は森で迷って、天狗に会って、稽古して、戻ってきた。
派手な力はまだない。
でも、戻る力が、少しだけ芽を出した。
それで、十分だった。
紬命の声が、背中に落ちる。
「……明日も、行くか」
俺は、湯気の中で頷いた。
「うん。行く」
怖いままでも、歩ける。
歩けるままでも、帰れる。




