天狗に出会った日
文ちゃんの袖をつまむ指先の重みが、まだ手の甲に残っていた。
そのまま眠りに落ちるはずだったのに、夜は一度だけ、俺を引き留めた。静けさの中で、旅館が小さく軋む。息をする音。木が生きている音。ここは、眠りを急がせない。
目を閉じたまま、耳を澄ます。
遠い水の音。庭の池の水面が、夜風に揺れる音。蛍の光が、まだ瞼の裏でふわ、と灯っている気がした。
いつの間にか、眠りが足元まで来て、俺の身体をゆっくり沈めた。
翌朝。
目が覚めた瞬間、最初に分かったのは、森が騒いでいることだった。
鳥の声が多い、とかじゃない。木々の葉擦れが、妙に速い。風が、いつもより荒い。旅館の裏手から入ってくる空気が、さざめいている。穏やかな木が、今日は落ち着きを失っているみたいに。
障子の向こうの光は、いつも通り柔らかいのに。
俺は布団を出て、廊下に出た。足裏が木に触れる。空気は、少しだけ乾いていた。
台所へ行くと、すでに匂いが立っている。出汁。味噌。米。いつもの朝の匂い。
紬命が鍋の前にいた。袖は少し折ってある。
「……起きたか」
「おはようございます」
返事の代わりに、湯のみが置かれる。俺は一口飲む。温い。喉がほどける。
襖の向こうから、小さな足音。文ちゃんだ。
寝癖が少しだけ残っていて、目はまだ眠そう。
「……おはようございます……優さん……」
「おはよう。今日は、風が強いな」
文ちゃんは、少しだけ窓の方を見た。
「ざわざわ……してます……」
もうひとつ足音。鈴華だった。
旅館の借り物の着物を着ている。淡い色。本人はまだ落ち着かなくて、帯の端を指でいじっている。
「……おはよう」
「おはよう、鈴華」
鈴華は俺を見てから、文ちゃんを見る。
「……文ちゃん、今日はどこに行く?」
文ちゃんが少しだけ迷う。森のざわめきが、胸の奥で小さく揺れているのが分かる。
その時、紬命が短く言った。
「……花畑まで」
それだけ。
文ちゃんの肩が、ほんの少しだけ緩む。
「……はい……」
鈴華も頷く。
「一緒に行く」
紬命が俺を見た。
「……優」
「はい?」
「今日は、お前は花畑行くな」
言葉が短いのに、意味は重い。
「……一人で?」
「……そうだ」
鈴華が少しだけ驚いた顔をする。文ちゃんも俺を見る。心配と、頼りたい気持ちが混ざった目。
俺は、すぐに頷いた。
「分かった」
紬命はそれ以上言わない。ただ、鍋の火を弱める。いつもの動き。
朝食は静かだった。だけど、外の風の音が、いつもより大きく聞こえる。
食後、文ちゃんと鈴華は支度をして、裏口へ向かった。文ちゃんは布袋を胸の前で持っている。干し菓子が少し入っていた。
「……優さん」
文ちゃんが、靴を履く前に言った。
「ん?」
「……奥……行かないでくださいね……」
俺は、笑わずに頷いた。
「行かない。道から外れない」
文ちゃんが、小さく頷く。
鈴華も言った。
「……優、変だと思ったら戻って」
「分かった」
俺がそう答えると、鈴華は少しだけ安心した顔をした。
紬命は、二人の背中に短く言う。
「……花畑までだ。風が変なら、戻れ」
「……はい」
文ちゃんが返す。
「……うん」
鈴華が返す。
二人は、並んで森へ入っていった。鈴華は文ちゃんの歩幅に合わせる。文ちゃんは、少しだけ胸の前の布袋を握る。
――残ったのは、俺と、旅館と、風の音だった。
俺は裏口を出た。
いつもより乾いた空気。いつもより強い風。森の端の草が、ざわざわと揺れている。穏やかな揺れじゃない。
木々が、今日は騒めいていた。
俺は、森の中を歩く。
紬命の言いつけを守りながら、ゆっくり進む。
鳥の声が、急に止まる。
風が、ふっと強くなる。葉が一斉に鳴る。音が波みたいに押し寄せて、また引く。
俺は、唾を飲んだ。
奥に進んでいると、急に突風が吹き荒れた。
風が、ただの風じゃない。木々の間を走り抜ける音が、人の声みたいに聞こえる。誰かが囁いている。怒っている。笑っている。全部が混ざって、意味だけが残る。
一気に心細くなった。恐怖が芽生えてくる。旅館の匂いが遠くなった気がする。
それでも、歩み進み続けた。
この先に、何かがある気がしたから。
木々の色が少し濃くなる。光が薄くなる。風の音だけが妙に近い。自分の足音が大きく感じる。
進み続けていた俺だが、山奥まで来てしまったらしく迷ってしまった。
道が、道じゃなくなる。踏み跡が薄い。景色が変わらない。気づくと、同じ形の木、同じ色の苔、同じ匂いの風の中にいる。
心細さも相まって、一刻も早くここから抜け出したい気持ちに駆られる。
「やばい。やばい」
心の声が口から自然と出る。
迷い始めてから一向に景色が変わらない。ついには、自分が来た方向すらも分からなくなっていた。
喉が乾く。唇が冷える。手のひらに汗が滲む。森の中で汗をかくと、自分の匂いが急に強くなる。獲物みたいに。
俺は足を止めた。
息を吸う。吐く。焦りを押し込める。
――落ち着け。
落ち着かないと、もっと迷う。
その時だった。
バッサバッサと大きな鳥の羽音が、頭上から聞こえて来た。
あまりに大きな羽音に、全身が硬直した。恐る恐る上を見上げる。
見上げた先には、赤ら顔で、高い鼻を持ったヒトが、こちらを見ていた。
心臓が跳ねる。
「誰ですか?」
自然と話しかけていた。
「天狗。人間のお主ならこの名前の方が、伝わりやすいだろ」
そう言った天狗は、真っ白な翼を広げ舞い降りて来た。そして、俺の目の前に着陸する。
「会えて嬉しい。白仁田 優」
「何で名前を?」
「神通力で、お主の事を見させてもらったからな」
「神通力?」
「神仏の力を借りて、全てを見通す力じゃ」
天狗と神仏が、あまり結びつかない印象で少し驚いた。
「お前の未来を見させてもらった。これから先様々な試練が待ち受けている。仲間と乗り越えるもの、一人で乗り越えるもの。しかし、今のお前には試練を乗り越えれる力がない」
初対面で遠慮のかけらもない言葉だが、悪意は感じられない。
「そこで、わしが稽古をつけてやろうと思ってな」
「え?」
天狗に稽古を教わる。どこかの昔話に出てきそうな話だった。
「これから先、自分も他人も助ける手段となるだろう」
ヒーローになりたい願望があるわけではないが、助けを求めている人が居て、その人を助けることが出来る力があるとするなら、俺はその力が欲しい。
「お願いします」
気がついたら、俺は力を授けてくれる師に頭を下げた。
「そうかそうか。わしが教えられる全てを教えてやる」
野太く笑う天狗を見て、ふと疑問に思う。
「どうして俺に神通力を教えてくれるのですか?」
「昔々に交わした契りを果たしているだけじゃ」
「契り?」
「老いぼれの昔話みたいなものだ」
天狗は、穏やかな口調に変わっていた。
――そこから先は、時間の感覚が少し曖昧になった。
羽音が近くで鳴って、止まって、また鳴る。天狗は笑いながら、俺に呼吸の仕方を教えた。
息を吸う場所。
吐く場所。
目を向ける場所。
足の置き方。
体重の預け方。
全部が「力」だった。拳を振るうとか、敵を倒すとか、そういう派手な力じゃない。生き残るための力。迷っても戻る力。恐怖に飲まれない力。
天狗は言った。声はでかいのに、言っていることは妙に現実的だった。
――森を敵にするな。森を味方にしろ。味方にするには、まず自分が壊れないこと。
俺は何度も失敗した。息が乱れる。足がふらつく。風の音に心が引っ張られる。
そのたび天狗は笑う。
笑うけれど、突き放さない。
もう一回、と言う。
何回でも、と言う。
――稽古が終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
天狗が指差した方向を見ると、遠くに、旅館の屋根が見えた。あんなに迷っていたのに、今は「戻れる線」が見える。
俺は、もう一度天狗に頭を下げた。
天狗は、笑って、真っ白な翼を広げる。
風が鳴る。
天狗はそのまま、森の上へ飛び上がっていった。
――俺は、走らなかった。
走らなくても戻れる、と分かったから。
足を置く。呼吸を合わせる。空気を受け止める。森の匂いを嗅ぐ。鳥の声を数える。川の方向を感じる。木の太さの違いを拾う。
旅館が近づくにつれて、木の匂いに、湯の匂いが混ざってくる。
戻る匂い。
俺は裏口の前で一度止まって、小さく息を吐いた。
戸を開ける。
温度が変わる。
家の温度。
生きている匂い。
台所の方から、包丁の音がした。
俺は、息を整えて、台所へ向かった。
「天狗と会ってきたの?」
「うん」
「天狗ってあの??」
「鈴華の想像しているので合ってると思う」
宿に帰って来てからの鈴華の質問攻めが、止まらない。速攻で湯舟に浸かり、食事処にやってきてから息つく暇もない。
「癒雨命さんは、天狗のこと知らないですか?」
夕食を持ってきてくれた癒雨命さんに、天狗のことを聞く。
「優の出会った天狗かは分からんが、天狗が時々この地に来ていることは知っている」
この日は、緊張から解き放たれた脱力感で、夜が更けていくのを待てずに眠った。
――そこから先、俺の意識はふっと落ちた。
湯の温度がまだ身体に残っていた。天狗の羽音がまだ耳の奥で鳴っていた。森の「声」に似た風のざわめきが、今はただの風になっていた。
布団に入った瞬間、文ちゃんの顔が浮かぶ。
白狐は、今日もどこかで息をしているだろうか。
遠い匂いは、まだ文ちゃんの中にあるだろうか。
答えは分からない。
今日、俺は迷って、出会って、戻ってきた。
それだけで、明日は少し違う気がした。
旅館が小さく軋む。
呼吸の音。
俺は、目を閉じたまま、小さく言った。
「……ただいま」
誰に言ったわけでもない。
けれど、その言葉は、ちゃんとこの家の中に落ちていった。




