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息をさせてくれる青空

 旅館が、小さく軋んだ。

 その音が、妙に胸に残った。

 椀を並べる音。湯気の匂い。出汁の甘さ。

 文ちゃんの「ただいま」。鈴華の「ただいま」。

 紬命の返事の代わりの鍋の蓋の音。

 全部が、今日を閉じる鍵みたいだった。

 俺は、台所の端で手を洗いながら、ふっと窓の外を見る。

 夢幻郷の空は、相変わらず青い。

 青すぎて、嘘みたいなのに、嘘じゃない。

 前の世界の青は、どこか「急げ」と言っていた。

 信号の色、電線の影、ビルの輪郭。青は青でも、息をさせない青だった。

 ここは違う。

 青が、息をさせてくれる。

 俺は、布巾を絞って、指先の水を払った。水滴が床に落ちる音が、やけにきれいに響く。

「……優」

 紬命の声が、背中から来た。

「はい?」

「外、行くなら、道から外れるな」

「分かった」

 紬命は、頷くだけで、また鍋の方へ戻った。台所は湯気が戻り、匂いが戻り、いつもの仕事の流れへ戻っていく。

 文ちゃんは、湯のみを両手で持っている。

 俺は、言葉を足さずに、その場を出た。

 外へ。

 引き戸を開けた瞬間、空気が変わる。

 土の匂いがある。

 木の匂いがある。

 水の匂いがある。

 それなのに、重くない。

 湿り気があっても、肺の奥が嫌がらない。

 庭の池が、日を受けて揺れていた。

 水面は、鏡みたいに空を映しているのに、鏡よりも柔らかい。風が来るたび、光がちぎれて、また繋がる。

 池の縁の苔は、濡れていないのに艶がある。

 少し歩くと、旅館の裏手の小径に出る。

 踏み固められた土。

 石が、ところどころに置いてある。

 足を出すたび、土が受け止める。

 沈みすぎない。

 跳ね返しすぎない。

 俺の体重が、ちゃんと「存在」として扱われる。

 ――それが、妙に嬉しかった。

 森の端、背の低い草が揺れている。草の先に、小さな虫が止まっている。黒い点みたいなものが、光に合わせて少しだけ色を変える。

 目を凝らすと、翅が透けていた。

 透明じゃない。透明に近い白。薄い膜。光を受けると、縁だけが淡く虹になる。

 そんなものを、俺は今まで「ただの虫」で片付けていた。


 森の奥から、鳥の声がする。

 ひとつだけじゃない。ふたつ、みっつ、重なって、でも喧嘩しない。

 鳥の声を追いかけるように、木の葉が揺れる。

 葉が揺れるのは風のせいなのに、この森では、葉が揺れるから風があると分かる。順番が逆みたいで、でも自然だった。

 少し先、森の外側の斜面が、緩やかに広がっている。

 草が短い。そこに、花が混じっている。

 花畑ほど派手じゃない。白、薄紫、淡黄。小さな点が、草の中で呼吸しているみたいに散っている。

 しゃがむと、花の匂いが鼻の奥に入る。

 甘いだけじゃない。

 青い匂い。土の匂い。水の匂い。

 花は、他の匂いの上に乗ってるだけじゃなくて、混ざっている。

 だから、軽いのに、薄くない。

 俺は、指先で草をなぞった。

 触れた瞬間、冷たい。

 草の先に、朝の露がまだ残っている。日が上がっているのに、完全に消えていない。露は露で、消えることを急いでいない。

 俺は、息を吐いた。

 こういう場所があるだけで、生きるのが少しだけ簡単になる。

 頑張る前に、呼吸ができる。

 それが、どれだけ救いになるか。

 俺は、少し前まで知らなかった。


 立ち上がると、遠くに水の線が見える。

 川だ。

 森の外側を、ゆっくり流れている川。水面が陽を受けて、細い銀色の糸みたいに光っている。

 歩いていく。

 道はゆるい。

 川に近づくと、空気の匂いが変わる。

 水の匂いが濃くなる。

 冷たい匂いじゃない。透明な匂い。

 川辺の石は、乾いているのに、触るとひんやりしている。石の冷たさは、嫌じゃない。手のひらの熱を少しだけ落ち着かせる。

 川の音がする。

 細い音がいくつも重なっている。

 浅いところが水を撫でる音。石に当たって形を変える音。小さな泡が弾ける音。

 俺の世界では、音はいつも混ざって、何が何だか分からなかった。ここでは、音が混ざっても、ちゃんと分かれる。音が、自分の場所を持っている。

 川辺に腰を下ろす。

 草の上は柔らかい。湿ってはいない。柔らかいだけ。背中が地面に押されない。地面が背中を支える。

 空を見上げる。

 雲が流れている。

 流れる雲を見ているだけで、「時間」が怖くなくなる。

 運ばれるのは、景色とか、匂いとか、風とか。

 俺の中で固まっていたものも、少しだけ運ばれていく気がした。

 ふと、指にはめた花の輪が目に入った。

 もう枯れているはずなのに、まだ形が残っている。色は薄くなっている。けれど、消えていない。

 文ちゃんの小さな指の力。

「なくさないでください」

 その言葉。

 俺は、花の輪を軽く撫でた。

 指先に、乾いた感触。

 乾いているのに、優しい。

 大事にする、ってこういうことかもしれない。

 俺が、今日の景色を見ているのも、同じだ。

 川から視線を上げると、遠くの森が見える。

 神羅の森。

 広い。

 木の列が、ただの壁じゃない。奥行きがある。重なりがある。湿度と光の層がある。

 森は、ひとつの場所じゃない。

 いくつもの場所が重なって、ひとつになっている。

 森の中に、森の中の町があるみたいに。

 森の中に、森の中の静けさがあるみたいに。

 俺は、深く息を吸った。

 胸が痛まない。

 それだけで、また少し、世界が広がる。

 帰り道、草の上に小さな羽が落ちていた。

 鳥の羽かもしれない。虫の翅かもしれない。触らない。見るだけ。光を受けて、薄い虹を作っている。

 こういうものが、普通にそこにある。

 拾う必要がない。

 持ち帰る必要がない。

 ただ、見て、覚えるだけでいい。


 旅館が見えてきた。

 湯気。

 木の匂い。

 人の匂い。

 戻る匂い。

 俺は、裏口の前で一度止まった。

「……ただいま」

 小さく言って、戸を開ける。

 温度が変わる。

 廊下の奥から、鍋の音がする。

 湯気が上がる匂いがする。

 誰かが生きている気配がする。

 俺は、手を洗って、台所に戻った。

 椀を並べる。

 湯を注ぐ。

 今日の終わりを、今日の形で作る。

 森の豊かさは、外だけじゃない。

 帰ってきた場所の豊かさも、ちゃんとここにある。

 そう思えた。

 思えた、だけで終わらせたくなくて。


 俺は、鍋の蓋を開けた。

 湯気がふわ、と顔に触れる。

 出汁の匂い。

 畳の匂い。

 旅館の匂いは、食べ物だけじゃない。建物の時間の匂いだ。手が触れた場所の匂い。人が通った場所の匂い。

 台所の隅で、文ちゃんが湯のみを拭いていた。

 小さな手で、布巾を丁寧に動かす。

「……文ちゃん」

「……はい……優さん……」

「今日は、森、どうだった?」

 俺は、さっき聞いたばかりなのに、もう一度聞いた。

 文ちゃんは、一瞬だけ考えてから言った。

「……いつもより……鳥さんが……いました……」

 その言葉が、胸に落ちる。

「……そっか」

 俺は、それだけ言う。

 鈴華は、台所の端で野菜の皮をむいていた。包丁じゃない。小さな小刀。

 鈴華が、ぽつりと言った。

「……ねえ、優」

「ん?」

「……この匂い、嫌いじゃない」

「……うん」

 俺は頷いた。

「匂いが嫌いじゃないって、結構すごいことだよ」

 鈴華は、少しだけ目を丸くしてから、笑った。

 紬命は、鍋の前で何も言わない。

 聞いている気配が、台所の空気を整える。

 俺は、椀を並べながら、ふと窓の外を見る。

 空が、少しだけ色を変え始めていた。

 青が薄くなって、透明が混じる。夕方の手前。昼の終わりの気配。

 夢幻郷の光は、急には変わらない。変わる前の色を、ちゃんと残したまま変わっていく。

 俺は、出汁を椀に注いだ。

 湯気が、また立つ。

 椀の内側の白が、湯気で少し霞む。その霞みが、妙に安心する。輪郭が全部はっきりしていなくてもいい。ぼやけたままでも、ちゃんとそこにある。

「……食べるか」

 紬命が短く言った。

 広間に卓を出す。

 文ちゃんは、座る前に一度だけ畳を撫でた。無意識の仕草。

「……いただきます」

 文ちゃんの声。

「……いただきます」

 鈴華の声も、重なる。

 紬命は言わない。言わない代わりに、鍋の蓋を閉める音をさせる。

 俺は、味噌汁を飲んだ。

 温かい。

 食べながら、俺はふと思う。


 この夢幻郷は、豊かだ。

 足りないものを埋めるために、どんどん積む豊かさじゃない。

 必要なものが、必要な分だけ、きちんとそこにある。

 だから、心が焦らない。

 焦らないから、見える。

 草の匂い。

 水の音。

 鳥の声。

 木の呼吸。

 人の呼吸。


 食事が終わると、文ちゃんが小さく言った。

「……ごちそうさま……でした……」

 鈴華も続く。

「……ごちそうさまでした」

 紬命は、短く返す。

「よし」

 片付けを始めると、窓の外が少し赤くなっていた。

 夕方の色が、庭の池に落ちる。水面が、昼の青をまだ少し持っていて、その上に赤が薄く重なる。色が混ざるのに、濁らない。

 俺は湯のみを洗いながら、また外へ行きたくなった。

 さっきの川。

 さっきの空。

 さっきの羽の虹。

 今度は夕方の色で見たい。

 でも、今はやることがある。やることがあるのに、嫌じゃない。それも豊かさだ。

 片付けがひと段落した頃、紬命が言った。

「……縁側」

 それだけ。

 俺たちは縁側へ出た。

 空気が、少しだけ冷たい。昼の温さが抜けていく。

 庭の匂いが濃くなる。

 水。

 苔。

 土。

 それに、夕方の匂い。日が落ちる匂い。

 文ちゃんは、座布団に座ると、膝の上で手を揃えた。

 鈴華は、少し離れて座る。距離はまだある。

 風が通る。

 縁側を抜けて、庭を抜けて、森の方へ流れていく。

 森が、遠くで揺れる。

 俺は、その気配を胸で受け止めながら、空を見た。

 青が薄くなり、赤が増えている。雲の縁が金色になって、すぐに橙に変わる。変わるのが、急じゃない。じわ、と溶けるみたいに変わる。

 前の世界の夕方は、いつも忙しかった。

 帰宅の時間。渋滞。人の波。焦り。夕方が「区切り」になるせいで、夕方そのものが嫌いになっていた。

 ここは違う。

 夕方は区切りじゃなく、続きだ。昼が夜に渡るための橋。橋の上に立っても、落ちない。

 文ちゃんが、ぽつりと言った。

「……空……きれいです……」

「うん」

 鈴華は、黙って空を見る。

「……落ちてこない空って、こういう感じ?」

 声は小さい。けれど、ちゃんと聞こえた。

 文ちゃんが、少しだけ頷く。

「……はい……」

 俺は、何も言わなかった。その空が。答えだと思うから。

 庭の奥で、草が揺れた。

 風のせい。

 俺は一瞬だけ、昨日の森の重さを思い出す。

 鳥が鳴かない日。

 白い背中。

 額の温度。

 遠い匂い。

 ――遠いところに、動物がいる気がする。

 文ちゃんが言ったあの言葉。

 まだ名前がない。まだ説明できない。だけど、確かに「道」みたいなものができ始めている。

 自然って、本当はそういうものだったのかもしれない。

 俺たちは勝手に自然を「優しいもの」か「怖いもの」に分けていた。ここは違う。優しいときは優しい。怖いときは怖い。どっちも同じ自然の顔で、どっちも嘘じゃない。

 紬命が、湯のみを置いた。

 湯気が立つ。

「……冷える」

 それだけ。

 俺は一口飲んだ。温かい。喉が、またほどける。

 文ちゃんも両手で湯のみを持つ。

 ふー、と息を吹いてから飲む。

 鈴華も飲む。両手で、丁寧に。飲み込んだあと、少しだけ目を閉じる。

 その瞬間、庭の奥で、淡い光がひとつ灯った。

 蛍。

 ひとつ。

 消える。

 また灯る。

 ふたつ、みっつ。

 文ちゃんの目が、少しだけ丸くなる。

「……きれい……」

 鈴華も、声を落とす。

「……光ってる……」

 光が増えるたび、夜が来るのが怖くなくなる。夜の始まりが、静かに歓迎されている。

 豊かさって、「明るい」だけじゃない。暗い場所がちゃんとあることも、豊かさだ。暗い場所があるから、光が優しく見える。

 蛍の光が、庭の水面に映る。水面に映った光は、少し伸びて揺れる。揺れるのに消えない。

 この世界のものは、揺れても消えない。

 揺れても、ここにある。

 文ちゃんが、俺の袖を、ほんの少しだけつまんだ。

 指先だけ。

 俺は、何も言わない。

 袖を引かない。

 そのままにする。

 蛍がまた光る。

 庭が、ゆっくり夜になる。

 夜になっても、怖くない。

 俺は、空を見上げた。

 星が、ひとつ、ふたつ。

 夢幻郷の夜は、星が近い。近いのに、落ちてこない。ちゃんとそこにいて、ただ光っている。

 前の世界で星を見たのは、いつだったっけ。

 思い出せないくらい、空を見ていなかった。

 空はいつも頭の上にあったのに、俺の世界にはなかった。

 ここには、ある。

 空がある。

 森がある。

 水がある。

 匂いがある。

 音がある。

 人がいる。

 それだけで、生きるのが少しだけ簡単になる。

 俺は、もう一口湯を飲んだ。

 温かい。

 胸の奥が、静かにほどける。

 ――明日も、息ができる。

 それだけを、強く思った。

 紬命が、ふっと立ち上がった。

「……そろそろ寝ろ」

 文ちゃんが、すぐに立ち上がる。

「……はい……おやすみなさい……」

 鈴華も、少し遅れて立つ。

「……おやすみ」

 俺も立ち上がる。

 縁側から廊下へ戻ると、木の匂いが濃くなる。夜の冷たさが足首で切れて、家の温度が膝まで戻る。

 布団までの道は短いのに、豊かだった。

 廊下の灯り。

 障子の影。

 遠い水の音。

 木の軋み。

 旅館の呼吸。

 部屋に入る。

 布団がある。

 白すぎない白。

 新品すぎない清潔さ。

 俺は、横になった。

 天井の木目が、ゆっくり流れている。

 目を閉じる。

 今日見た川の音が、胸の奥でまだ鳴っている。森の匂いが、まだ残っている。蛍の光が、瞼の裏でまだ揺れている。

 文ちゃんの袖をつまむ指先の重みが、まだ手の甲に残っていた。

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