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白狐と干し菓子

 翌朝。

 台所の匂いが、昨日より少しだけ早く立ち上がっていた。出汁の湯気が、まだ目に見えるほど濃くない時間。俺は廊下を歩きながら、ふっと思う。

 ――旅館が、いつもより機嫌がいい。

 理由は分からない。でも、木の軋み方が柔らかい。

 紬命がすでに鍋を見ていた。朝の光を吸い込むみたいな着物。袖口はいつも通り少しだけ折ってある。

「……起きたか」

「おはようございます」

 俺がそう言うと、紬命は返事の代わりに、湯のみを一つ置いた。

 俺は黙って受け取って、一口。

 温い。喉の内側が、ほどける。

 少し遅れて、畳を擦る小さな音がした。

 文ちゃんだった。

 寝癖が少しだけ残っていて、目がまだ完全に開ききっていない。それでも、襖の前で小さく頭を下げる。

「……おはようございます……優さん……」

「おはよう。よく眠れた?」

 文ちゃんは一瞬だけ迷って、こくん、と頷いた。

「……はい……」

 昨日までの薄い怯えがほとんど混ざっていない。

 それだけで胸が軽くなるのに、同時に、昨日の森の重さも思い出す。守られた温度。額の、あの短い触れ方。

 もう一つ足音がして、鈴華が入ってきた。髪はまとめている。制服ではなく、この旅館の借り物の着物。淡い色がよく似合うのに、本人はまだ慣れなくて、帯の端を無意識に指で触っていた。

「……おはよう」

「おはよう、鈴華」

 鈴華は、俺の目を見たあと、文ちゃんを見た。

 言葉は少ない。


 朝食は、いつも通り静かだった。呼吸を合わせる静けさ。

 文ちゃんは味噌汁を両手で持って、ゆっくり飲む。

 鈴華は白飯を口に運んで、飲み込んでから、ほんの少しだけ目を細める。

 紬命は何も言わないが、二人の椀の減り方を全部見ている。

 食事が終わって、紬命がふっと息を吐いた。

「……今日は」

 短い前置き。視線が俺じゃなく、文ちゃんに落ちる。

「……森に返す」

 言い方は短い。けれど、意味は真っ直ぐだった。借りを返す。受け取ったなら、返す。それがこの旅館の作法なのだろう。

 文ちゃんが、小さく頷く。

「……干し菓子……」

「……それと、塩」

 紬命が言って、棚から小さな包みを出した。紙じゃない。薄い布。香りが移らない布だ。

「……塩は、境界の礼だ」

 森は、境界を持っている。境界を守るものがいる。

 鈴華が、少しだけ声を出した。

「……私も、行っていい?」

 文ちゃんが顔を上げる。

 紬命が一度だけ鈴華を見る。

「……無理はするな」

「……うん」

 鈴華は、それをちゃんと受け取って頷いた。

 俺は立ち上がった。

「俺も行く」

 紬命は、一瞬だけ俺の前腕を見る。

「……走るなよ」

「走らない」

「……ならいい」


 裏口を出ると、空気が変わる。旅館の温度が足首から切れて、森の匂いが胸の奥まで入ってくる。

 土と葉と水。今日は、鳥が鳴いていた。

 文ちゃんは、胸の前で布袋を持っていた。干し菓子が少し。紬命の塩。あとは、小さな花を一本。昨日、文ちゃんが寝る前にこっそり選んだらしい。

「……花も……持ってくるの、いいですかね?」

 文ちゃんが、恐る恐る俺に聞いた。

「いいと思う」

 俺が言うと、文ちゃんの口元が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 鈴華は、森に入るとき、無意識に息を浅くした。

 でも、文ちゃんが半歩前で歩いているのを見て、その息をゆっくり戻した。

 怖いのが消えるわけじゃない。怖いまま、歩けるようになる。その変化が、鈴華の背中に少しだけ見えた。

「……文ちゃん」

 鈴華が、小さく呼ぶ。

「……はい……?」

「……昨日みたいに、変だと思ったら、すぐ言ってね」

 文ちゃんは、迷わず頷いた。

「……はい……鈴華さんも……」

 少しだけ間。

「……怖かったら……帰りましょう……」

「……うん」

 花畑の手前で、風が一度止まった。文ちゃんの指が布袋を少しだけ強く握る。

 そして、白が見えた。

 木の根元。影の縁。白狐。

 今日の白狐は、昨日ほど鋭くない。でも、目がちゃんとこちらを見ている。

 文ちゃんと、紬命と、俺と、鈴華。ひとつずつ、順番に確認しているみたいだった。

 文ちゃんが一歩だけ前に出る。走らない。急がない。足音を立てない。

「……狐さん……」

 声は小さい。礼儀正しい声。

「……昨日……守ってくれて……」

 言いかけて、文ちゃんは一度息を飲む。

「……ありがとうございます……」

 白狐は答えない。でも、尾が、ゆっくり一度揺れた。

 紬命が、塩の包みを少しだけ前に置いた。

 置く、というより、渡す。土の上に、音を立てずに。

「……返す」

 俺は、干し菓子をひとつ布の上に置いた。

 文ちゃんも、花を一本。花は、白狐の前じゃなく、少しだけ離れた苔の上に置いた。祠に置いたときと同じ、丁寧さだった。

 鈴華は、何も置けずに、ただ立っていた。

 文ちゃんが花を置いたのを見て、鈴華はそっと膝を折った。

 地面に、指先だけつける。

 白狐の目が、ほんの少しだけ細くなる。

 その瞬間。

 空気が、ふわ、と軽くなった。

 白狐が立ち上がる。数歩進む。止まる。振り返る。

 文ちゃんの顔が、少しだけ揺れる。昨日の影を思い出している。でも、今日は重くない。今日は、返しに来た日だ。守られた日じゃない。関係を繋ぎ直す日だ。

 文ちゃんが、俺を見る。

 俺は、首を横に振らない。

「行くなら、奥には行かない。花畑の手前まで。狐さんの後ろを、同じ距離で」

 文ちゃんは、小さく頷く。鈴華も、息を飲みながら頷いた。

 白狐は、急がない速さで歩く。文ちゃんの歩幅に合わせる。鈴華の足が遅れても、止まって待つ。

 やがて、小さな湧き水の音。

 昨日の場所より、少しだけ違う。似ているけれど、違う。水の流れが細い。石が少し白い。花の匂いが淡い。

 白狐が、そこに座る。

 文ちゃんがしゃがむ。手を水に触れる。冷たい。

「……ここ……」

 文ちゃんの声が、少しだけ揺れた。

「……昨日と……似てます……」

 白狐は答えない。でも、尾が地面を一度払った。草の上に、見えない線を引くみたいに。

 鈴華が、ゆっくり近づく。

「……綺麗」

 文ちゃんが、布袋から干し菓子を一つ出して、湧き水の横の石の上に置く。

「……森さん……狐さん……」

 文ちゃんは、言葉を選ぶ。

「……また……お願いするかもしれません……」

 お願い。甘える。頼る。

 今までの文ちゃんなら、その言葉が怖かったかもしれない。頼ったら、怒られる。頼ったら、奪われる。そんな世界を、文ちゃんは知っている。でも、今、文ちゃんは言った。

「……でも……ちゃんと……返します……」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で何かが小さく鳴った。

 受け取って、返して、また受け取って。世界と取引をする。怖いままでも、手を出す。

 白狐が、ゆっくり立ち上がる。文ちゃんに近づく。

 昨日みたいに額に触れる――のではなく、今日は、文ちゃんの袖口に鼻先を軽く当てた。

 文ちゃんの指が、無意識に袖を握る。

 その瞬間、文ちゃんの目が少しだけ遠くを見る目になった。

 何を見ているのかは分からない。でも、俺の背中が、ぞく、とした。

 森の奥のさらに奥。ここじゃないどこか。遠い場所の匂いが、一瞬だけ混じった気がした。鳥とも獣とも違う匂い。海の塩にも似ている。でも、海じゃない。もっと生き物の匂い。

 鈴華も、同じ瞬間に息を止めた。

「……今……」

 鈴華が言いかけて、言葉を飲み込む。怖がらせないように、文ちゃんを見ている。

 文ちゃんは、目を一度閉じて、ゆっくり開けた。

「……あの……」

 声は震えていない。

「……遠いところに……動物さんが……いる気がしました……」

 俺は、返事をすぐにしなかった。

 否定も、肯定も、まだ早い。

「……そっか」

 それだけ。

 紬命が、少しだけ顎を引いた。目が鋭くなる。

「……文」

 紬命が、短く呼ぶ。

「……はい……」

「……今日は、ここまでだ」

 線引きだった。踏み越えないための線。

 文ちゃんの中に何かが芽を出したなら、今日は水をやりすぎない方がいい。

 白狐が、少し離れて座る。帰る合図みたいに、尾がゆっくり揺れた。

 来た道を戻る。鳥の声が増える。風が戻る。光が丸くなる。文ちゃんの背中が、少しだけ軽い。

 旅館の裏口が見えた時、文ちゃんがぽつりと言った。

「……優さん」

「ん?」

「……今日……怖くなかったです……」

 俺は、少しだけ笑った。

「……怖くてもいいんだよ」

 文ちゃんは、迷って。

「……はい……」

 それから、もう一度。

「……でも……大丈夫でした……」

「……文ちゃん、すごいね」

 文ちゃんは首を振る。

「……狐さんが……」

 言いかけて、止まる。

「……みんなが……いるから……」

 その言葉が、俺の胸の奥を静かに温めた。

 旅館に入ると、木の匂いが戻る。湯の匂いが戻る。人の匂いが戻る。戻ってきた、の匂い。

 紬命が、台所へ向かいながら言った。

「……返した」

 短い報告。

 俺は頷いた。

「……うん。返した」

 文ちゃんは、靴を揃えた。

「……ただいま……」

 その声は、小さいのに、ちゃんと家の中へ届いた。

 鈴華も、少し遅れて言う。

「……ただいま」

 紬命は返事をしない。けれど、鍋の蓋を開ける音がした。湯気が上がる。匂いが広がる。

 俺は、ふと思う。

 文ちゃんは、白狐に守られた。

 でも、守られたままじゃない。

 返した。

 繋いだ。

 そして、ほんの一瞬だけ――遠い世界の気配に触れた。

 まだ名前のないもの。まだ説明できないもの。

 それが大きくなるのは、きっと、ずっと先だ。

 今は、まだ。

 湯気の中で、椀を並べて。

 ちゃんと今日を終わらせればいい。

 文ちゃんが、俺の方を見て、小さく言った。

「……優さん……」

「ん?」

「……また……会いましょう……」

 誰に言ったのかは、言わなかった。

「……うん」

 俺は、それだけ返す。

 旅館が、小さく軋んだ。

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