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白い狐と帰り道

 その日の森は、少しだけ、重かった。

 風は吹いている。

 光も、ある。

 しかし、空気の奥に、もう一枚、薄い膜があるみたいだった。

 文ちゃんは、神羅の森の中を、ゆっくり歩いていた。

 急がない。

 足音を、立てない。


 土は、柔らかい。

 葉の光も、いつも通り。


 ――鳥が、鳴かない。

 その違和感に、文ちゃんは、少しだけ足を止めた。

「……?」

 怖い、とは少し違う。

 進む。

 数歩。

 その瞬間、視線があった。


 背中に、触れる感じ。

 振り返る。

 いない。

 でも、その存在には、気づいていた。

 文ちゃんは、無理に探さない。

 森の中で、見えないものを追うのは、良くない。

 それは、もう、身体が覚えていた。

「……狐さん……?」

 小さく、呼ぶ。


 風が、少しだけ、流れた。

 白。

 少し先、木の影の中。

 白狐が、いた。


 いつもの距離だ。

 三歩先。

 今日は、目が、少しだけ鋭かった。

 尾が、ゆっくり揺れる。

 低い位置。

 警戒の揺れにも見えた。

 文ちゃんの心臓が、少しだけ速くなる。

「……どうしました……?」

 白狐は、答えない。

 代わりに、一歩、前に出る。

 進行方向を、塞ぐ。

 座らずに、立ったまま。

 ――行くな。

 そう言われた気がした。

 文ちゃんは、少しだけ、迷う。

 足を、止める。

 森の奥で――

 葉が、揺れた。

 風じゃない。

 重さのある揺れ。

 文ちゃんの背中に、冷たいものが走る。

 白狐が、低く鳴いた。

 初めて聞く声だった。

 白狐は、文ちゃんの前に立つ。

 森の奥。

 影が、少しだけ、動いた。

 形は、分からない。

 空気が、重くなる。

 息が、少しだけ、浅くなる。

 文ちゃんは、動かない。

 逃げない。

 その時、白狐の尾が、文ちゃんの足首に、軽く触れた。

 温かい。それだけで、少し安心できた。

 影が、少しだけ、近づく。

 白狐が、前足を一歩、踏み出す。

 音は、しない。

 だが、空気が、変わる。

 白狐の毛が、少しだけ、光を帯びた。

 月に近い白。

 影が、止まる。

 少しの、沈黙。

 影が、ゆっくり、森の奥に戻っていく。

 音は、最後まで、しなかった。

 風が、戻る。

 鳥の声が、少しだけ戻る。

 森が、呼吸を、再開する。

 白狐は、しばらく、動かなかった。

 文ちゃんの方を、振り向く。

 距離は、二歩先。

 近い。

「……守って……くれたんですか……?」

 白狐は、何も言ってくれない。

 一歩、近づく。

 文ちゃんの、すぐ前。

 鼻先が、文ちゃんの額に、軽く触れた。

 ほんの、一瞬。

 温かい。

 それだけ。

 胸の奥のざわつきが、すっと、消えた。

 白狐は、すぐに離れる。

 背を向ける。

 数歩、歩く。

 止まる。

 振り返る。

 ――帰ろう。

 そう言われた気がした。

「……うん……」

 文ちゃんは、小さく頷く。

 来た道を、戻る。

 白狐は、少しだけ前を歩く。

 振り返らない。

 森の光が、少しずつ、柔らかくなる。

 音が、増える。

 空気が、軽くなる。

 花畑の手前。

 白狐は、止まって、振り返る。

 尾が、ゆっくり揺れる。

 いつもの、白狐だった。

 文ちゃんは、少しだけ笑う。

「……ありがとうございます……」

 白狐は、目を細める。

 それから。

 光の中へ。

 森の奥へ。

 溶けるみたいに、消えた。

 残ったのは。

 森の呼吸。

 風。

 光。

 文ちゃんは、胸の前で、手を握る。

 まだ額に。

 温度が、残っていた。

「……また……会いましょう……」

 森が、少しだけ、揺れた。

 揺れたのは、葉じゃない気がした。

 空気の奥――見えない膜が、一枚だけ、ふわ、と撫でられたみたいに。

 手は胸の前で握ったまま、歩き出す。

 来た道を戻る。

 土の柔らかさ。

 葉の光。

 鳥の声。

 戻ってきたはずの音が、今日はやけに大きい。


 文ちゃんは、息を吸う。

 森の匂い。

 水の匂い。

 それから――ほんの少しだけ、獣の匂い。

 さっきの白い毛並みの匂いが、袖のあたりに残っている気がした。

 花畑の端を抜ける。

 いつもなら、胸の中が少しだけ軽くなる場所。

 でも、今日は、その軽さの下に、薄い重さが残っている。


 ――さっきの影。


 形が分からなかったのに、覚えている。

 文ちゃんは、唇を小さく結ぶ。

 泣きそうでもない。

 震えてもいない。

 ただ、ちゃんと覚えて帰る。

 それが、今の文ちゃんにできることだった。

 木々が、少し薄くなり、その隙間から空が見える。


 石灯籠。

 旅館の裏口。

 湯気。

 木の匂い。

 文ちゃんは、戸の前で一度止まって、息を整えた。

「ただいま」

 その言葉を、ちゃんと形にできるように。

 戸を開ける。

 温度が、変わる。

 森の冷たさが、足元で切れて、家の温かさが足首から上に上がってくる。

 文ちゃんは、靴を脱いで揃える。

 いつもより丁寧に。

 廊下を歩くと、台所の方から音がした。

 湯が沸く音。

 包丁がまな板に当たる音。

 人がいる音。

 台所の入口。

 紬命が、鍋の前に立っていた。

 今日は、薄い煤色の着物。

 袖は少し折られている。

 文ちゃんを見て、紬命は何も言わない。

 視線が一度、文ちゃんの額に落ちて、すぐ戻った。

「……帰ったか」

「はい」

 声が少しだけ小さい。

 紬命は、鍋の火を弱める。

 それから、台所の隅に置いてある湯のみを一つ、文ちゃんの前に置いた。

「……飲め」

「ありがとうございます……」

 湯のみを、両手で持つ。

 湯が、喉を通る。

 文ちゃんは、ようやく呼吸が深くなった。

 その時、襖の向こうから足音がして、鈴華が顔を出した。

 髪はまだ少し湿っている。

 昼過ぎの手伝いの途中だったのか、袖を少しだけまくっている。

「……文ちゃん」

 鈴華が、名前を呼ぶ。

「……おかえり」

「……ただいまです」

 鈴華は、文ちゃんの顔をじっと見た。

 文ちゃんは、少しだけ頷く。

 だが、今日のことは、置いていかない。

 だから、文ちゃんは、ゆっくり言う。

「……今日……」

 言葉が、喉で一度止まる。

 鈴華が、少しだけ近づく。

 紬命は、何も言わない。

 その沈黙が、文ちゃんの背中を押した。

「……森……少しだけ……重かったです……」

 鈴華の眉が、ほんの少し動く。

「……鳥が……鳴かなくて……」

「……それで……」

 文ちゃんは、湯のみを両手で包んだまま、続ける。

「……影……みたいなのが……いました……」

 紬命は、鍋の蓋を閉める。

 その音が、台所に小さく響いた。

「……白い狐さんが……」

 文ちゃんは、額に残る温度を思い出す。

 あの鼻先の、軽い触れ方。

 命令じゃないのに、胸が静かになったあの瞬間。

「……止めて……くれました……」

「……行くな、って……」

 鈴華は、言葉を探している顔をした。

 怖い、でもない。

 驚き、でもない。

 その間にある、ちゃんとした感情。

 紬命が、ようやく言った。

「……奥へ、行ったか」

「……いえ……」

 文ちゃんはすぐ首を振る。

「……花畑の……手前です……」

 紬命は、短く頷く。

 それから、湯のみをもう一つ出して鈴華の前に置く。

「……飲め」

「……はい」

 鈴華は、両手で受け取る。

 その手が、ほんの少し震えているのを、文ちゃんは見た。

 襖の向こう。

 今度は、優の足音。

 台所に入ってきて、すぐ空気を読んだ顔になる。

「……文ちゃん、帰ってたんだ」

「……はい……優さん」

 俺は、文ちゃんの目を見る。

 それから、鈴華を見る。

 最後に、紬命を見る。

 誰も大きな声を出していないのに、何かがあったと分かる視線。

「……何かあった?」

 文ちゃんは、今度は優にも言う。

 ちゃんと、みんなに渡す。

「……白い狐さんが……」

「……守って……くれました……」

 俺は、少しだけ息を止めた。

 それから、ゆっくり吐く。

「……そっか」

 それだけが、ちょうどよかった。

 文ちゃんの今日を、今日の大きさのまま受け取る。

 鈴華が、ぽつりと言った。

「……文ちゃん、怖かった?」

 文ちゃんは、少しだけ考える。

 さっきの影を思い出す。

 音のない近づき。

 重さのある揺れ。

 その前に立った白い背中。

 そして、額に触れた温度。

「……少しだけ……」

「……でも……」

 文ちゃんは、ちゃんと顔を上げる。

「……帰ろう、って……思えました……」

 鈴華の目が、少しだけ潤む。

 紬命が、鍋から椀に汁をよそい始めた。

 湯気が立つ。

 出汁の匂いが広がる。

「……今日は」

 紬命が言う。

「……森に、借りができた」

 俺の眉が、少しだけ動く。

「……借り?」

「……受け取った」

 紬命の言い方は、いつも通り短い。

「……返さないとな」

 文ちゃんは、思わず小さく頷いた。

 俺は、少しだけ笑う。

「……じゃあ、何か、森に返せるもの考えないとな」

「……干し菓子……」

 文ちゃんが言う。

 鈴華が、ふっと笑う。

「……それ、いいね」

 紬命は、否定しない。

 椀を四つ、並べる。

「……食え」

 それが、今日の終わらせ方だった。

 文ちゃんは、汁を飲む。

 温かい。

 舌に、優しい。

 胸の中の重さが、少しだけ沈む。

 沈んで、落ち着く。


 夜。

 文ちゃんは、布団に入っても、すぐには眠れなかった。

 怖いわけじゃない。

 額の温度が、まだ残っているから。

 残っているのに、消えそうで。

 文ちゃんは、布団の中で小さく手を伸ばして、額に触れそうになって、やめた。

 触れなくても、分かる。

 今日、自分は守られた。

 そのことだけは、ちゃんと残っている。

 目を閉じる。

 すると、森の匂いが少しだけ濃くなる。

 湧き水の冷たさ。

 祠の苔の匂い。

 白い毛の温度。

 それが一つに混ざって、文ちゃんの胸の中に小さな道を作る。

 ――遠いところに、何かがいる。

 ここじゃない。

 でも、いなくはない。

 そんな感覚が、ふっと触れた。

 文ちゃんは、息を吸って、吐く。

「……大丈夫……」

 誰に言うでもなく。

 布団の外で、旅館が小さく軋む。

 呼吸している音。

 文ちゃんの呼吸と、少しだけ重なる。

 そのまま、いつの間にか眠った。


 翌朝。

 起きた時、文ちゃんは、額が少しだけ温かい気がした。

 昨日の温度じゃない。

 もっと、薄い。

 文ちゃんは、布団の中で、小さく笑った。

 今日は、森へ行くかは、まだ分からない。

 だけど、行けなくても、もう大丈夫な気がした。

 文ちゃんは、白い狐の目を思い出す。

 あの鋭さと、優しさが同じ場所にある目。

 そして、心の中で小さく言った。

「……また……会いましょう……」

 返事はない。

 でも、旅館の空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。

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