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19/27

境界に息づく日常

 その日は、朝から空気が少しだけ乾いていた。

 旅館の裏庭。

 洗濯物が、ゆっくり風に揺れている。

 紬命は、桶の水を流し終えると、袖を少しだけ折り直した。

「……文」

「……はい……」

「……鈴華」

「……はい」

「……支度しろ」


 声の温度が、いつもより少しだけ「外」に向いていた。

 文ちゃんは、小さく頷く。

 鈴華は、一瞬だけ優の姿を探す。

「……優は?」

「……置いていく」

 短い。

 鈴華は、少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。

「……はい」


 旅館の裏口。

 神羅の森には――入らない。

 その、外側。

 森と、人の土地の境目を、横に辿る道。

 草の背が低い。

 空が、広い。

 文ちゃんは、布袋を胸の前で持っている。

 中には、紬命が渡した小さな道具。

 小刀。

 布。

 小瓶。

「……今日は」

 紬命が言う。

「……森の外のもの、取る」

 鈴華が、少しだけ首を傾げる。

「……外にも、あるんですか?」

「……ある」

 少し、間。

「……外の方が、人に近い」

 それだけ。

 最初に見つけたのは――

 低い場所に生える、細い葉の草だった。

 朝露を、まだ持っている。

 紬命は、しゃがむ。

「……根ごと、抜くな」

 文ちゃんは、すぐ頷く。

「……はい……」

 指で、土を少しだけ崩す。

 刃は、使わない。

 根の横。

 脇だけ、切る。

「……残す」

「……また、生える」

 鈴華は、それを黙って見ていた。

 文ちゃんが、同じようにやる。

 少しだけ、不器用。

 切りすぎない。

 紬命は、何も言わない。

 それが、合格だった。

 少し歩く。

 今度は――

 低木の、白い実。

「……三つまで」

 紬命が言う。

「……全部、取るな」

 鈴華が、そっと手を伸ばす。

 触れる。

 少し迷う。

 三つだけ、取る。

 残りを、見る。

 ――置いていく。

 風が、少しだけ、抜けた。

 偶然かもしれない。

 鈴華は、少しだけ息を吐いた。

 文ちゃんは、小さく言った。

「……怒られません……」

 鈴華が、少しだけ笑う。

「……誰に?」

 文ちゃんは、少し考えて。

「……森……です……」

 鈴華は、何も言わない。

 でも。

 その言葉を、否定しなかった。

 少し離れた場所。

 地面に、淡い青の茸。

 紬命が、止まる。

「……これは」

 少し、間。

「……文、だけ」

 文ちゃんは、小さく頷く。

 素手で触らない。

 布越し。

 根元を、軽く捻る。

 音もなく、外れる。

 鈴華が、小さく言った。

「……なんで?」

「……この子は」

 紬命が言う。

「……嫌う」

 鈴華は、少しだけ驚く。

 文ちゃんは、茸を布に包む。

 丁寧に。

 壊さないように。

 それは――

 触り方じゃない。

 扱い方だった。

 昼に近い光。

 草の匂いが、少しだけ強くなる。

 紬命が、立ち上がる。

「……今日は、ここまで」

 鈴華は、少しだけ、ほっとした顔をした。

 文ちゃんは、小さく頷く。

 帰り道。

 文ちゃんが、小さく言う。

「……鈴華さん……」

「……ん?」

「……疲れて……ませんか……」

 鈴華は、少しだけ笑った。

「……大丈夫」

 少しの間。

「……でも」

「……ちょっとだけ、いい疲れ」

 文ちゃんは、少しだけ安心した顔をした。


 旅館の屋根が見える。

 湯気。

 木の匂い。

 帰る場所の匂い。

 紬命が、最後に言う。

「……今日は」

 少し、間。

「……上出来だ」

 誰に、とは言わない。

 でも。

 二人とも、分かっていた。

 裏口を開ける。

 温度が、変わる。

 生きている場所の空気。

 文ちゃんは、小さく言った。

「……ただいま……」

 鈴華も、少し遅れて言う。

「……ただいま」

 紬命は、何も言わない。

 でも。

 先に、台所へ向かった。

 それが―― 「帰ってきた扱い」だった。



 その日は、妙に静かだった。


 台所の火の音。

 湯の沸く音。

 それが、やけに大きく聞こえる。


 紬命たちは、もう出ている。

 文ちゃん。

 鈴華。

 紬命。

 旅館に残っているのは――

 俺、一人。

 守られている音が、少し減った感じは、あった。

 洗い終えた湯のみを、棚に戻す。

 布巾を絞る。

 水の音が、やけに澄んでいる。

 紬命がいないと、

 この旅館は――

 「静かな建物」に近づく。

 でも。

 死んだ静けさじゃない。

 呼吸を、浅くしている静けさ。

 裏口を開ける。

 朝と昼の間の光。

 強すぎない。

 でも、影は、ちゃんとできる。

 裏庭。

 洗濯物が、まだ少し揺れている。

 さっきまで、人がいた気配。

 でも、今は、俺だけ。

 少しだけ、歩く。

 旅館の裏手。

 いつもは、用事がない場所。

 石が積んである。

 薪が置いてある。

 古い桶。

 全部。

 ちゃんと、使われているもの。

 ――置かれ方が、少しだけ整いすぎている。

 旅館の裏手には、

 小さな、石の列がある。

 最初に来た時は、ただの、境界石だと思っていた。

 近くに立つと。

 少しだけ、空気が重い。

 怖い重さじゃない。

 ――踏み越えるな、の重さ。

 俺は、その外側を歩く。

 内側には、入らない。

 理由は――

 分からない。

 でも。

 入らない方がいい。

 そう、身体が知っていた。

 少し離れた場所。

 井戸がある。

 使っている形跡は、ない。

 でも。

 枯れても、いない。

 中を覗く。

 水面。

 静か。

 でも。

 深さの感覚が――

 少し、おかしい。

 石を、小さく落とす。

 音。

 ……遅い。

 距離より、少しだけ遅い。

 俺は、それ以上、確かめない。

 井戸の横。

 小さな祠。

 文ちゃんが見つけた祠より――

 もっと、古い。

 触らない。

 でも。

 手を合わせる。

 祈りじゃない。

 挨拶に、近い。

 風が、吹く。

 旅館の方から。

 湯の匂い。

 木の匂い。

 戻る匂い。

 ぐるり、と一周する。

 旅館の表側。

 客の来ない道。

 でも。

 踏み跡は――

 ある。

 人のじゃない。

 でも。

 獣でもない。

 「重さ」だけが残る足跡。

 俺は、追わない。

 ここは。

 追う場所じゃない。

 迎える場所だ。

 多分。

 旅館に戻る。

 戸を開ける。

 空気が、少しだけ柔らかくなる。

 建物が、

 少しだけ、息を吐いた気がした。


 台所に戻る。

 火を入れる。

 湯を沸かす。

 米を研ぐ。

 包丁を持つ。

 いつも通りの音を、戻す。

 少しして。

 風向きが、変わる。

 森の匂い。

 草の匂い。

 土の匂い。

 ――帰ってくる匂い。

 俺は、手を止めない。

 でも。

 少しだけ、笑った。

 多分。

 この旅館は。

 人を守っている。

 でも。

 俺たちも。

 この場所を、守っている。

 そんな気がした。

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