名を持たぬ店、息を持たぬ客
朝は、少しだけ早かった。
まだ鳥の声が、はっきりと形になっていない時間。
光も、夜の名残を引きずっている。
俺は、布団の中で目を開けた。
人の足音じゃない。
旅館の木が、ほんの少しだけ軋む音。
それに混じって――
布が擦れる音。
起き上がる。
障子の向こう。
廊下の気配。
出る。
そこにいたのは、紬命だった。
今日は、深い墨色の着物。
帯は、暗い群青。
朝の光を、ほとんど反射しない色。
「……起きたか」
「……はい」
「支度しろ」
理由は言わない。
裏口を出る。
朝の空気が、まだ少しだけ冷たい。
神羅の森の入口――では、なかった。
その少し手前。
いつもは通らない、細い獣道。
俺は、何も聞かない。
紬命の後ろを、半歩遅れて歩くだけ。
森は、いつもの森だった。
最初は。
土。
光。
葉の揺れ。
風。
少し進むと――
音が、減る。
鳥の声が、遠くなる。
風の音も、布越しみたいになる。
俺は、無意識に息を浅くしていた。
「……優」
「はい」
「離れるな」
「……はい」
それだけ。
しばらく進むと、森の色が、少しだけ変わった。
濃くなる。
影が、深くなる。
怖いわけじゃない。
でも――
人間が長く居ていい場所じゃない気がした。
やがて。
開けた場所に出た。
そこには――
石があった。
祠じゃない。
もっと、粗い。
自然の岩に、何かが、刻まれている。
文字じゃない。
意味は、分からない。
でも。
――ここは、誰かの場所だ。
紬命が、前に出る。
袖から、小さな布包みを出す。
中には――
乾燥させた薬草。
塩。
干した果実。
それと、小瓶。
岩の前に、置く。
音を立てない。
置く、ではなく、返す、に近い。
紬命は、低く言った。
「……来たぞ」
祈りじゃない。
報告だった。
その瞬間、風が、止まった。
完全じゃない。
だが、確かに森は、息を止めた。
背中が、少しだけ冷える。
でも、逃げたいとは思わなかった。
紬命がいる。
それだけで。
岩の影。
暗い場所。
何かが、動いた。
形を、すぐには認識できなかった。
人型じゃない。
獣でもない。
影が、重なったみたいな――
輪郭。
高さは、人間より少し低い。
「いる」
それだけは、はっきり分かった。
空気が、少しだけ重くなる。
息を吸うのが、ほんの少しだけ遅れる。
紬命は、動かない。
「……今日は、これだ」
布包みを、軽く押し出す。
影が、近づく。
音は、しない。
存在だけが、近づく。
俺は、視線を逸らさない。
怖くないわけではない。
ここで逸らすのは、違う気がした。
影が、包みの前で止まる。
少しだけ、揺れる。
――消えた。
いや。
「持って行った」
そう感じた。
代わりに、岩の前に。
小さな、何かが落ちていた。
黒い。
石みたい。
紬命は、それを拾う。
布で包む。
触れすぎない。
影は、もう、いなかった。
風が、戻る。
鳥の声が、少しだけ戻る。
森が、呼吸を再開する。
紬命が、歩き出す。
俺も、ついていく。
「……怖かったか」
珍しく。
紬命が、聞いた。
俺は、少し考える。
「……少し」
「……そうか」
少しの間。
「……でも」
「……逃げたいとは、思いませんでした」
紬命は、何も言わない。
でも。
ほんの少しだけ。
歩幅が、ゆっくりになった。
森の色が、戻る。
光が、戻る。
音が、戻る。
神羅の森の、いつもの呼吸。
石灯籠が見えた時。
胸の奥が、少しだけほどけた。
旅館の裏口。
戸を開ける。
木の匂い。
湯の匂い。
人の匂い。
――帰ってきた。
「……優」
「はい」
「……さっきのは」
少し、間。
「……客だ」
それだけ。
俺は、小さく頷いた。
台所に戻ると。
湯気が、いつも通り上がっていた。
文ちゃん。
鈴華。
紬命。
いつも通りの景色。
でも。
この旅館は。
ただの、旅館じゃない。
守られている場所。
そして――
守っている場所でもある。
その道は、森の中にあるのに、森の匂いがしなかった。
土は、確かに土だ。
葉も落ちている。
木も、ちゃんと立っている。
でも――
「自然にできた道」じゃない。
踏み固められたわけでもない。
石が敷いてあるわけでもない。
なのに、歩くと、足が沈まない。
紬命は、振り返らない。
「……ここから先」
声は、いつもより少し低い。
「……余計なこと、考えるな」
「……はい」
空気が、変わる。
冷たいわけじゃない。
重いわけでもない。
ただ。
音が、少し遠くなる。
色が、ほんの少しだけ鈍くなる。
風が吹いているのに――
葉が、あまり揺れない。
やがて。
建物が、見えた。
最初。
それは、廃屋に見えた。
古い木。
色の抜けた暖簾。
傾いた軒。
近づくほどに、分かる。
――崩れていない。
壊れている「形」をしているだけ。
戸口には、看板。
文字は、読めない。
「開いている」
紬命は、躊躇なく入る。
俺も、続く。
中は――
静かだった。
埃は、ない。
掃除された感じも、ない。
時間が、ここだけ止まっているみたいだった。
棚がある。
商品は――
最初、見えない。
目を慣らす。
すると。
少しずつ、形が浮かぶ。
瓶。
布。
石。
乾いた何か。
どれも。
「名前が、ない」。
「……来たか」
声がした。
すぐ近くから。
誰も、いない。
俺は、反射的に周囲を見る。
紬命は、動かない。
「……用だ」
短い。
いつもの声。
その時。
カウンターの向こう。
空間が――
少しだけ、歪んだ。
「形」が、ある。
はっきり見えない。
人間の輪郭に、近い。
でも、固定されていない。
煙みたいに、揺れている。
顔が、ある気がする。
でも、認識しようとすると、崩れる。
「……珍しい」
声。
少し、笑っている。
「……人、連れてきたな」
紬命が、少しだけ顎を引く。
「……問題ない」
「……そうか」
沈黙。
棚の奥。
何かが、動く。
音は、しない。
でも。
「選ばれている」
カウンターの上に。
小さな包みが、現れた。
置かれたわけじゃない。
――そこに、あった。
紬命が、袖から布袋を出す。
中身は、
乾燥薬草。
細かい塩。
銀色の糸。
カウンターに置く。
「……釣り合う」
声が言う。
少し、間。
「……今日は、安い」
紬命は、何も言わない。
ただ、包みを取る。
その瞬間。
空気が、少しだけ軽くなる。
取引は――終わり。
帰り際。
声が、もう一度だけ言った。
「……そいつ」
俺の方を指している気配。
「……変わった匂いがする」
俺の背中に、冷たいものが走る。
でも。
紬命は、止まらない。
「……まだ、子供だ」
それだけ。
外に出た瞬間。
森の匂いが、戻る。
風が、ちゃんと吹く。
鳥が、鳴く。
世界が――
元に戻る。
しばらく歩いて。
紬命が、言った。
「……あそこは」
少し、間。
「……数が合わない場所だ」
「……数?」
「……物も」
「……時間も」
「……客も」
それだけ。
石灯籠が見えた時。
胸の奥が、少しだけ、ほどけた。




