白尾の導きと、朝陽の禊ぎ
台所の湯気が、ゆっくり天井に溶けていく。
文ちゃんは、小皿の干し菓子を、もう一つだけ取った。
ゆっくり、味を確かめるみたいに、嚙んでいく。
鈴華が、横目でそれを見る。
何か言いたそうで。
「……文ちゃん」
鈴華が、少しだけ近づいて言った。
文ちゃんは、顔を上げる。
「……はい……?」
「……さっき話していた……白い狐……」
言葉が、少しだけ止まる。
鈴華は、視線を少しだけ下に落としてから。
「……綺麗、だった?」
文ちゃんは、少しだけ考えた。
「……はい……」
小さく。
「……雪……みたいで……」
「……でも……」
文ちゃんは、少しだけ胸の前で手を握る。
「……あったかかった……です……」
鈴華の呼吸が、ほんの少しだけ深くなった。
「……そっか……」
鈴華は、少しだけ、笑った。
無理してない笑顔だった。
紬命が、鍋の火を弱める。
「……優」
「ん?」
「……手、止まってる」
「あ、すいません」
俺は、湯のみを拭く手を動かす。
しかし、視線は、自然に二人に向いていた。
急がなくていい空気。
少しして、鈴華が、また言った。
「……文ちゃん」
「……はい……」
「……今度……」
少しだけ、間。
「……一緒に……行ってもいい?」
包丁の音が、止まる。
紬命は、何も言わない。
俺も、口を挟まない。
文ちゃんは、少しだけ、目を丸くして。
「……はい……」
鈴華の肩が、少しだけ下がる。
縁側に出たのは、少し後だった。
俺も、なんとなくついて出る。
夕方の前の時間。
風は、まだ柔らかい。
文ちゃんは、柱の横に立つ。
鈴華は、少し離れて立つ。
さっきより、距離が近い。
「……文ちゃん」
「……はい……」
「……その……」
鈴華は、庭を見る。
池を見る。
水面を見る。
「……森って……」
言葉を探す。
「……怖く、ない?」
文ちゃんは、少し考える。
「……最初は……少しだけ……」
「……でも……」
庭の光を見る。
「……今は……大丈夫です……」
鈴華は、少しだけ頷く。
俺は、柱にもたれる。
何も言わない。
この距離感は。
多分。
俺が入ると、少し崩れる。
だから、聞こえる位置に、いるだけにした。
「……鈴華さん……」
「……ん?」
「……一緒に……来る時……」
「……無理……しなくて……いいです……」
鈴華は、一瞬だけ驚いた顔をした。
「……怖かったら……」
「……帰りましょう……」
すごく普通の声で。
すごく当たり前の顔で。
文ちゃんは、言った。
鈴華の喉が、少しだけ動く。
「……うん」
それだけ。
それだけだった。
風が、縁側を通る。
庭の水面が、少し揺れる。
文ちゃんが、小さく言った。
「……一緒だと……」
少しだけ、間。
「……少し……安心です……」
鈴華は、すぐには答えなかった。
「……私も」
そう、言った。
俺は、小さく息を吐いた。
気づかれないくらいに、ゆっくりと。
日が、少しだけ傾く。
影が、長くなる。
旅館の匂い。
湯の匂い。
森の匂い。
全部、混ざる。
この二人は、急がなくても、ちゃんと仲良くなる。
そんな気がした。
翌朝。
旅館の朝は、昨日と同じ匂いだった。
木。
湯。
畳。
出汁。
俺は、障子を開けた。
光は、やっぱり柔らかい。
ここは、朝でも、世界を急がせない。
廊下に出る。
足音が、二つ。
文ちゃん。
鈴華。
二人とも、少しだけ眠そうだった。
「……おはよう」
「……おはようございます……優さん……」
「……おはよう」
鈴華の声は、昨日より、少しだけ自然だった。
朝食。
いつも通り、静か。
でも。
昨日までの「遠慮の静かさ」じゃない。
落ち着いた静けさ。
紬命は、何も言わない。
ただ。
文ちゃんの椀。
鈴華の椀。
減り方を、ちゃんと見ている。
食後。
縁側。
朝の風は、まだ少し冷たい。
文ちゃんは、俺の隣。
鈴華は、少しだけ離れて。
昨日より、距離が近い。
しばらくして、紬命が言う。
「……文」
「……はい……」
「……鈴華」
「……はい」
「……洗濯、干す」
「……来い」
短い。
でも。
それは、もう。
ちゃんと「頼られてる声」だった。
裏庭。
朝の光は、まだ斜め。
竹竿。
桶。
水の匂い。
昨日、洗われた布が、静かに積まれている。
「……重いか」
紬命が、桶を差し出す。
「……大丈夫です」
鈴華が受け取る。
少しだけ、よろける。
文ちゃんが、すぐ横に立つ。
「……持ちます……」
「……ううん、大丈夫」
声が、柔らかい。
布を、干す。
白い浴衣。
風が、通る。
ふわ、と膨らむ。
「……お日さまの匂い……になります……」
文ちゃんが言う。
鈴華は、少しだけ笑った。
文ちゃんは、小さい布から干す。
端を揃える。
皺を伸ばす。
ゆっくり。
急がない。
「……文ちゃん」
「……はい……」
「……丁寧だね」
「……紬命さんが……」
「……ちゃんと……やると……」
「……布も……嬉しい……って……」
鈴華は、少しだけ目を細める。
「……そっか」
俺は、少し離れて見ていた。
口は出さない。
この時間は、多分、二人に、すごく必要な時間だから。
風が、少しだけ強く吹く。
浴衣が揺れる。
鈴華が、自然に布を押さえる。
「どこに居ればいいか分からない動き」じゃない。
ここに居ていい動きだった。
「……鈴華さん」
「……ん?」
「……森……」
「……一緒に……行く時……」
「……うん」
「……白い……狐さん……」
「……びっくり……するかも……です……」
鈴華は、少しだけ笑う。
「……多分、する」
少し間。
「……でも」
「……文ちゃんがいるなら……大丈夫」
文ちゃんは、何も言わない。
でも。
少しだけ、耳が赤い。
紬命が、最後の布を干す。
「……よし」
それだけ。
でも、それが終わりだった。
洗濯物が、朝の光で揺れていた。
白。
藍。
空の色。
全部。
静かに、混ざっていた。




