白に導かれる静かな道
今日も、神羅の森で、小さな人影が動く。
文ちゃんは、数歩だけ歩いたところで、ふと足を止めた。
――視線。
背中に、何かが触れている気配。
ゆっくり、振り返る。
いない。
森は、いつもの森だった。
光。
風。
葉の揺れ。
もう一度、前を向いた瞬間。
少し先の木の根元に――白があった。
白狐だった。
まるで、ずっとそこにいたみたいに。
文ちゃんは、小さく息を吸う。
「……また、会いましたね……」
白狐は、答えない。
尾が、ゆっくり一度だけ揺れた。
白狐は、立ち上がる。
今度は、少しだけ奥へ歩く。
振り返る。
待つ。
文ちゃんは、少しだけ考えて。
それから。
「……もう少しだけ……」
歩き出した。
森の中は、少しだけ変わっていた。
光が、細くなる。
風が、少しだけ冷たくなる。
静かな場所へ、入っていく感覚。
白狐は、急がない。
文ちゃんの歩幅に合わせていた。
時々、止まる。
確認する。
――ついてきてる?
文ちゃんは、小さく頷く。
誰に見せるわけでもない頷き。
やがて、小さな水の音が聞こえてきた。
滝じゃない。
もっと、細い。
そこには――
小さな、湧き水があった。
石の間から、透明な水が、静かに流れている。
周りには、小さな白い花。
誰かが、守っていた場所。
そんな空気だった。
白狐は、水の前で止まった。
水を、少しだけ飲む。
それから、文ちゃんを見る。
文ちゃんは、しゃがむ。
手を、水に触れる。
「……つめたい……」
目を閉じる。
手のひらに、水が流れる。
胸の奥の、ざわざわが、少しだけ、静かになる。
文ちゃんは、少しだけ笑った。
小さい。
本当に、小さい笑顔。
風が、少しだけ強く吹いた。
花が揺れる。
水面が、細かく震える。
白狐が、すっと立ち上がる。
耳が、少しだけ動く。
森の奥を見る。
文ちゃんも、なんとなく分かった。
――ここまで。
白狐は、文ちゃんの近くを通る。
今度は、少しだけ近い。
毛並みが、風で揺れる。
雪みたいな白。
尾が、また。
文ちゃんの袖に、触れる。
温かい。
安心する温度。
白狐は、数歩進む。
止まる。
振り返る。
文ちゃんを見る。
それから、ゆっくり、森の光の中へ歩いていく。
今度は、振り返らなかった。
文ちゃんは、分かっていた。
――また、会える。
文ちゃんは、湧き水を、もう一度だけ見る。
「……また、来ます……」
誰に言うでもなく。
ちゃんと、届く声で。
鳥の声が、少し戻っている。
風も、少しだけ強い。
裏口が見える。
石灯籠。
湯気。
木の匂い。
文ちゃんは、胸の前で、布袋を握った。
中の干し菓子は、少し減っている。
でも。
それで、よかった。
戸を開ける。
木の匂い。
人の匂い。
生きている場所の匂い。
「……ただいま……」
小さな声。
ちゃんと、帰ってきた声だった。
戸を閉めたあと、文ちゃんは、すぐには動かなかった。
背中越しに。
森の空気が、まだ少しだけ、残っている気がした。
深く、息を吸う。
旅館の匂い。
木。
湯。
人。
小さく、息を吐く。
それから。
靴を、揃える。
いつもより、少しだけ丁寧に。
廊下の奥から、足音。
「……帰ったか」
紬命だった。
今日は、濃い藍の着物。
袖は、いつも通り少しだけ折ってある。
紬命は、文ちゃんの顔を見る。
「……腹、減ってるか」
「……少し……」
紬命は、短く頷く。
「……台所、来い」
台所は、昼の匂いが残っていた。
出汁。
湯気。
炊いた米の甘さ。
優が、奥にいた。
湯のみを洗っている。
「……おかえり、文ちゃん」
「……ただいま……優さん……」
鈴華も、そこにいた。
紬命の横で、野菜を切っている。
包丁の音が、静かに止まる。
「……おかえり」
昨日より、自然な声だった。
紬命が、小皿に、干し菓子を少し足す。
「……食え」
文ちゃんは、両手で受け取る。
「……ありがとうございます……」
一口、食べる。
甘さが、ゆっくり広がる。
森の静けさとは、違う。
少しの沈黙。
タオルで手を拭きながら言う。
「……森、どうだった?」
文ちゃんは、少しだけ、考えた。
どう言えばいいのか。
全部言っていいのか。
隠す必要は、ない気がした。
「……白い……狐さんに……会いました……」
包丁の音が、止まる。
紬命は、何も言わない。
ただ、視線が、ほんの少しだけ動いた。
俺は、静かに続きを待つ。
鈴華は、驚いた顔をしている。
「……森の……少し、静かなところで……」
「……こんにちは……って……言ったら……」
「……待って……くれて……」
言葉を、ひとつずつ、選ぶ。
「……ついて……行きました……」
優は、遮らない。
紬命も、何も言わない。
鈴華も、動かない。
文ちゃんは、続ける。
「……小さい……お水のところに……連れて……行ってくれました……」
「……白い……お花が……あって……」
「……水……すごく……静かで……」
文ちゃんは、少しだけ、胸に手を当てる。
「……ここ……静かに……なりました……」
少しの沈黙。
紬命が、ふっと息を吐く。
「……そうか」
それだけ。
否定もしない。
驚きもしない。
俺は、小さな笑いがこぼれた。
「……いい場所、教えてもらったな」
文ちゃんは、小さく頷く。
「……はい……」
鈴華が、少しだけ近づく。
「……怖く、なかった?」
文ちゃんは、少しだけ考える。
それから。
「……少しだけ……」
「……でも……」
小さく、笑う。
「……大丈夫でした……」
鈴華の肩が、少しだけ下がった。
紬命が、湯のみを四つ、並べる。
「……変なこと、したか」
「……いえ……」
「……そうか」
「……減ってるな」
文ちゃんは、少しだけ、胸の前で布袋を握る。
「……分けました……」
俺は、少しだけ笑った。
「……そっか」
外で、風が鳴る。
森の方向。
ほんの一瞬だけ。
文ちゃんは、そちらを見る。
何も、見えない。
「……優さん……」
「ん?」
「……また……行っても……いいですか……」
優は、紬命を見る。
紬命は、少しだけ考えて。
「……奥に、行くな」
文ちゃんは、小さく、でも、しっかり頷いた。
「……はい……」
台所に、湯気が戻る。
包丁の音が戻る。
湯の匂い。
人の気配。
生きている場所の音。
文ちゃんは、干し菓子を、もう一口食べた。
甘かった。
少しだけ。
森の水の味が、残っている気がした。




