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祈りを置いた日

 朝は、いつものように、静かに始まった。

 鳥は鳴いている。

 風も吹いている。

 でも、それら全部が、少し遠い。

 俺は、布団の中で、一度だけ深く息を吸った。

 木の匂い。

 湯の残り香。

 畳の、乾いた匂い。

 ――生きてる場所の匂いだった。

 身体を起こす。

 障子を開ける。

 朝の光は、強くない。

 柔らかい。

 この旅館の朝は、いつもそうだ。

 廊下に出ると、足音が一つ。

「……起きたか」

 紬命だった。

 今日は、薄い灰桜色の着物。

 帯は、深い墨色。

 朝の光の中で、落ち着いた色だった。

「おはようございます」

「……腹」

「減ってます」

 紬命は、鼻で少しだけ笑った。

「なら来い」

 朝食の匂いは、少し甘かった。

 出汁。

 炊き立ての米。

 味噌。

 焼き魚。

 席に着くと、文ちゃんが、先に座っていた。

「……優さん……おはようございます……」

「おはよう」

 少し遅れて。

 襖の向こうから、足音がした。

 鈴華だった。

 昨日より、少しだけ表情が柔らかい。

「……おはよう」

「おはよう、鈴華」

 鈴華は、座る前に、一度だけ部屋を見た。

 食事は、静かだった。

 文ちゃんは、相変わらず丁寧に食べる。

 鈴華は、最初、少しだけ遠慮していた。

 でも。

 二口。

 三口。

 少しずつ、普通の速さになる。

 紬命は、何も言わない。

 ただ。

 鈴華の椀が空に近づくと。

 自然に、次を置く。

 鈴華は、それに、少し驚いていた。

「……ごちそうさま、でした」

 鈴華が、小さく言った。

 紬命は、短く返す。

「……よく食ったな」

 それだけ。

 でも。

 鈴華の肩が、少しだけ下がった。 


 食後。

 縁側。

 朝の風は、まだ冷たい。

 文ちゃんは、俺の横に座る。

 袖は――掴まない。

 でも、近い。

 鈴華は、少し離れて座る。

 距離を測っている。

 急がない。

 それでいい。

 庭の池に、光が落ちる。

「……静か」

 鈴華が言う。

「……うん」

 文ちゃんが、小さく頷く。

 少し間。

「……優」

 鈴華が言う。

「ん?」

「……昨日」

 そこで、言葉が止まる。

 俺は、待つ。

 鈴華は、少し考えて。

「……ありがとう」

 俺は、少しだけ息を吐いた。

「……うん」

  しばらくして、文ちゃんが、小さく言う。

「……森……行きますか……」

 鈴華の肩が、少しだけ動く。

 俺は、紬命を見る。

 紬命は、少し考えて。

「……奥に行くな」


 神羅の森は、昨日より、少しだけ明るかった。

 鈴華は、最初、足取りが硬い。

 しかし。

 土を踏んで。

 葉の光を見て。

 風を吸って。

 少しずつ、呼吸が、深くなる。

「……柔らかい」

 鈴華が言う。

「……だろ」

 文ちゃんが、小さく言う。

「……ここ……守ってくれます……」

 鈴華は、目を細めた。

 開けた場所に出る。

 昨日の花畑、文ちゃんの歩幅が、少しだけ速くなる。

 鈴華は、立ち止まる。

 光を見て。

 花を見て。

 空を見て。

 ゆっくり、しゃがむ。

 花に触れる。

 摘まない。

 触れるだけ。

「……綺麗」

 俺は、草の上に寝転がる。

 空を見る。

 青い。

 ちゃんと、青い。

 横で。

 文ちゃんが、花を選ぶ。

 少し離れて。

 鈴華が、花を撫でる。

 摘まない。

 まだ。

 でも。

 いつか。

 きっと。


 風が吹く。

 花が揺れる。

 空が流れる。

 時間が、ちゃんと進む。

 文ちゃんが、小さく言った。

「……優さん」

「ん?」

「……今日も……いい日です……」

 俺は、空を見たまま、笑った。

「……うん」

 少し離れて。

 鈴華が。

 本当に、小さな声で言った。

「……そうだね」

 その声は。

 昨日より。

 ずっと、生きていた。



 その日、森は、少しだけ静かだった。

 風はある。

 光もある。

 でも――音が、少ない。

 文ちゃんは、旅館の裏口の前で、少しだけ立ち止まっていた。

 手には、小さな布袋。

 中には、干し菓子が少しだけ入っている。

 紬命が「腹減ったら食え」と渡したものだった。

「……少しだけ……」

 誰にともなく、小さく呟く。

 文ちゃんは、神羅の森へ足を踏み入れた。


 森の空気は、今日も柔らかい。

 土は、ふわ、と沈む。

 葉の隙間から、光が落ちる。

 鳥は――今日は、あまり鳴かない。

 文ちゃんは、ゆっくり歩く。

 怖いわけじゃない。

 「一人」という感覚は、まだ慣れていないだけ。

 それでも、戻らない。

 ここは――

 怖い場所じゃないと、知っているから。

 花畑の手前。

 風が、止まった。

 完全じゃない。

 でも。

 森が、息を止めたみたいな、静けさ。

 文ちゃんは、足を止める。

「……?」

 耳を澄ます。

 何も、聞こえない。

 ――いや。

 違う。

 気配がある。

 音じゃない。

 でも、いる。

 草が、少しだけ揺れた。

 文ちゃんの視線が、そちらに向く。

 白。

 最初に見えたのは、色だった。

 雪みたいな白。

 でも、冷たい白じゃない。

 光を、少しだけ含んだ白。

 それは、狐だった。

 普通の狐より、少し大きい。

 毛並みは、信じられないくらい整っている。

 汚れが、ひとつもない。

 尾は、ふわりと長く。

 風がなくても、ゆっくり揺れている。

 目は。

 金色に近い、淡い琥珀色。

 光を、静かに映している。

 文ちゃんは、動かなかった。

 逃げない。

 近づかない。

 ただ、そこに立つ。

 白狐も、動かない。

 少しだけ、首を傾げる。

 文ちゃんを見る。

 時間が、少しだけ伸びた。

 森の音が、全部、遠くなる。

「……こんにちは……」

 文ちゃんは、小さく言った。

 声は、震えていない。

 礼儀正しい声。

 白狐の耳が、少しだけ動いた。

 それから。

 ゆっくり。

 一歩、近づく。

 文ちゃんの心臓が、少しだけ速くなる。

 白狐は、文ちゃんの三歩手前で止まった。

 座る。

 尾が、ゆっくり揺れる。

 しばらく。

 何も起きない。

 ただ。

 同じ空気を吸う。

 文ちゃんは、思い出した。

 布袋。

 干し菓子。

 恐る恐る、取り出す。

「……食べますか……?」

 両手で差し出す。

 白狐は、すぐには動かない。

 少しだけ、匂いを確かめる。

 それから。

 ゆっくり。

 干し菓子を、ひとつだけ咥える。

 飲み込む。

 それから。

 白狐は、文ちゃんを、もう一度見る。

 さっきより。

 ほんの少しだけ。

 近い目。

 そして。

 立ち上がる。

 くるり、と背を向ける。

 数歩、歩く。

 止まる。

 振り返る。

 ――来る?

 そう言われた気がした。

 文ちゃんは、迷った。

 でも。

 怖くない。

 それが、答えだった。

「……少しだけ……」

 文ちゃんは、白狐の後を、歩き出した。

 森の奥じゃない。

 いつも通らない、小さな道。

 白狐は、ゆっくり歩く。

 急がない。

 文ちゃんが、ついて来られる速さ。

 少し進むと。

 小さな、祠があった。

 苔に包まれた石。

 壊れてはいない。

 でも。

 誰も、触れていない時間が長い。

 白狐は、祠の前で止まった。

 座る。

 静かに。

 文ちゃんは、祠を見る。

 不思議と。

 怖くない。

 寂しい、に近い。

 文ちゃんは、そっと。

 花を、一本だけ置いた。

「……おじゃま、してます……」

 その瞬間。

 風が、ふわ、と通った。

 森が、息をしたみたいに。

 白狐は、満足そうに目を細める。

 それから。

 立ち上がる。

 文ちゃんの横を通り過ぎる。

 尾が、少しだけ、文ちゃんの袖に触れる。

 温かい。

 白狐は、そのまま。

 森の奥へ。

 光の中へ。

 溶けるみたいに。

 消えた。

 残ったのは。

 森の音。

 風。

 光。

 そして。

 文ちゃんの、静かな呼吸。

「……また……会えますか……」

 返事は、ない。

 森が、少しだけ、揺れた。

 文ちゃんは、ゆっくり。

 旅館の方へ、歩き出した。

 足取りは、来た時より、少しだけ、軽かった。

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