誰にも必要とされなかった少女へ
「……話、終わったか」
振り返ると、少し離れた場所に、紬命が立っていた。
森の光の中でも、紬命は輪郭がはっきりして見える。
今日は、薄い生成りの着物に、深い藍色の帯。
袖口は少しだけ短く折ってある。
髪はいつも通り、低い位置で一つにまとめている。
艶のある黒髪が、背中の中ほどまで落ちていた。
視線は、俺じゃない。
そのまま、鈴華に向いている。
値踏みじゃない。
観察でもない。
――状態を、見る目だった。
「……そっちの子」
紬命が、ゆっくり一歩近づく。
鈴華の肩が、ほんの少しだけ強張る。
紬命は、その距離で止まった。
「……気張らなくていい」
短い言葉。
鈴華の目が、一瞬だけ揺れる。
「……ここは、そういう場所ではないのだから」
それだけ言って、紬命は俺を見る。
「優」
「はい」
「連れてくるなら、最後まで面倒見ろ」
「……うん」
紬命は、小さく頷いた。
「なら、帰るぞ」
それが、許可だった。
旅館に戻る道は、来た時より静かだった。
鈴華は、俺の半歩後ろを歩いていた。
神羅の森の光が、少しずつ変わっていく。
鈴華が、小さく言う。
「……綺麗」
「……だろ」
「……空気が、柔らかい」
俺は、少しだけ笑った。
石灯籠が見えた時。
鈴華の歩幅が、ほんの少しだけ乱れた。
旅館の屋根。
湯気。
木の匂い。
「……ここが?」
「うん」
裏口の引き戸を開ける。
木の匂いが、濃くなる。
廊下に入った瞬間。
鈴華の呼吸が、少しだけ深くなったのが分かった。
「……靴、そこ」
紬命が言う。
鈴華は、少し慌てて靴を脱ぐ。
揃える。
その仕草が、やけに丁寧だった。
廊下に足を乗せた瞬間。
鈴華が、小さく息を吸う。
「……あったかい……」
床の木が、体温を奪わない。
紬命は、それを横目で見てから。
「……優」
「はい」
「部屋、使わせる」
「……ありがとう」
「礼は、後で働いて返せ」
鈴華が、少しだけ目を丸くする。
俺は、苦笑する。
「……これ、優しさだから」
紬命が、鼻で笑う。
客間に入る。
障子越しの光。
畳。
空気。
鈴華は、部屋の真ん中で立ち止まった。
視線が、ゆっくり動く。
天井。
柱。
床。
「……静か……」
その一言に、全部入っていた。
紬命が、湯のみを三つ置く。
「……飲め」
鈴華は、少し戸惑ってから。
「……いただきます」
両手で持つ。
一口、飲む。
目が、ゆっくり細くなる。
「……美味しい……」
その声は、少しだけ震えていた。
紬命が、ふっと息を吐く。
「……今日は、もう考えるな」
鈴華が、顔を上げる。
「……はい」
「風呂、後で案内する」
「……ありがとうございます」
「寝ろ」
それだけ。
でも。
それだけで、十分だった。
紬命が、部屋を出る前に、止まる。
振り返らないまま。
「……優」
「ん?」
「……連れてきたの、間違ってない」
それだけ言って、障子が閉まる。
部屋に、静けさが戻る。
鈴華が、小さく言う。
「……優」
「ん?」
「……怖くない」
それは。
世界の話じゃなかった。
「……そっか」
鈴華は、少しだけ笑った。
今度は、引きつっていない笑顔だった。
鈴華は、湯殿の前で、少しだけ立ち止まっていた。
脱衣所には、淡い灯りが落ちている。
木の匂い。
湯気の匂い。
薬草をほんの少し混ぜたような、柔らかい香り。
ここは、知らない場所だ。
怖い、とは少し違う。
胸の奥にあるのは、警戒よりも――
戸惑いに近い感覚だった。
紬命は、扉の横で腕を組んでいた。
「……倒れんなよ」
短い声。
優しさを、隠さない言い方だった。
「……はい」
鈴華は、小さく頷く。
紬命は、それ以上何も言わない。
ただ、扉を少しだけ開けた。
「……滑る。気をつけろ」
それだけ残して、離れる。
湯殿の中は、思っていたより広かった。
石。
木。
湯気。
水音が、静かに響いている。
誰かに見られている感じが、ない。
鈴華は、ゆっくりと息を吐いた。
制服を脱ぐ。
布が、床に触れる音。
日常の重さが、少しずつ外れていく感覚。
鏡に映った自分の姿を、鈴華は少しだけ見た。
痩せている。
健康的、とは少し違う。
削れていった感じの細さ。
肩に残る、薄い古傷。
もう痛くないはずの場所。
視線を、少しだけ逸らす。
――ここでは。
誰も、見ない。
責めない。
値踏みしない。
それだけで、胸が少しだけ苦しくなった。
湯に足を入れる。
「……あ……」
思わず、小さな声が漏れる。
熱くない。
でも、しっかり温かい。
足先から、ゆっくり、温度が上がってくる。
膝。
太もも。
腰。
湯の中に、身体を沈める。
肩まで浸かった瞬間。
鈴華の呼吸が、少しだけ乱れた。
――安心に、慣れていないから。
湯気が、視界を柔らかくする。
音が、少し遠くなる。
身体の輪郭が、曖昧になる。
どこまでが、自分で。
どこからが、湯なのか。
分からなくなる。
鈴華は、目を閉じた。
すると。
色々な声が、浮かぶ。
責める声。
笑う声。
諦めた声。
でも。
不思議と。
ここでは、全部、遠かった。
湯が、背中を支える。
押さえつけない。
沈めない。
ただ、支える。
その感覚に、鈴華の肩から、ゆっくり力が抜けていく。
喉の奥が、少しだけ痛くなる。
泣きたい時の、前兆。
でも、涙は、出ない。
その代わり。
鈴華は、小さく呟いた。
「……生きてる……」
確認みたいに。
湯面に、雫が一つ落ちる。
涙じゃない。
ただ、湯気で湿った水滴。
それでも。
何かが、少しだけ、ほどけた。
どれくらい、浸かっていたのか。
時間の感覚は、曖昧だった。
ただ。
立ち上がる時。
鈴華は、少しだけ驚いた。
身体が、軽い。
重さが、消えたわけじゃない。
でも。
背負い方が、少し変わった感じ。
湯から上がる。
空気が、少しだけ冷たい。
脱衣所に戻る。
用意されていた、柔らかい布。
それで、髪を拭く。
丁寧に。
乱暴に扱わなくていい時間。
着替えを終えた時。
鈴華は、少しだけ立ち止まった。
胸の奥に。
静かな場所が、できていた。
扉を開ける。
廊下の向こう。
少し離れたところに。
紬命が、壁にもたれて立っていた。
何も言わない。
でも。
鈴華が出てきたのを、ちゃんと見ていた。
「……どうだ」
短い声。
鈴華は、少し考えて。
「……あったかい、です」
紬命は、小さく頷く。
「……そうか」
それだけだった。
でも。
それだけで。
十分だった。




