鎮魂の帳
朝の光は、障子を通ると、角が丸くなる。
刺さらない。眩しさじゃなくて、温度だけが入ってくる。
俺は、廊下を踏む音を、できるだけ小さくした。
紬命に「静かに」と顎で示されたのが、まだ身体に残っている。
障子の隙間から、中を見る。
文ちゃんは、まだ眠っていた。
呼吸は、ゆっくり。
でも、片手が布団の端を掴んでいる。
起きてもいないのに、離れないための掴み方。
それが、痛いくらい胸に来る。
俺は、息を吐いた。
吐いた息が、戻ってくるまでの間だけ、何も考えないようにして。
そっと、障子を閉めた。
背後で、気配が動く。
紬命だった。
「……起きるなよ。まだ、寝かせとけ」
低い声。
でも、否定じゃない。
“守る”っていう言い方だった。
「……うん」
俺は頷いた。
紬命は、廊下の端へ顎を向ける。
「お前、飯」
「……今?」
「今だ。起きたら、文も食う。お前が先に腹入れとけ」
「それと、腕。勝手に外すなよ」
姉さんの口調。
叱ってるようで、守ってる。
俺は「はい」と言いかけて、やめた。
俺が「はい」って言うと、少しだけ自分が小さくなる気がした。
でも、今は小さくていい。
広間に向かう。
朝の匂いが、ちゃんと“朝”になっている。
昨日より、少しだけ現実味がある匂い。
卓には、湯気の立つ膳がひとつ。
「食え」
紬命は、俺を座らせると、もうそれ以上言わない。
言わないのに、目だけで全部見ている。
俺の顔色。肩の力。湯のみを持つ指の震え。
味噌汁をひとくち。
熱いはずなのに、熱さが“攻撃”にならない。
身体の中に、静かに落ちていく。
魚を食べて、飯を食べて。
それだけなのに、胸の奥に溜まっていたものが、ほんの少しだけ解ける。
紬命が、湯のみを顎で示す。
「水。もう一杯」
俺は素直に飲んだ。
飲んだ瞬間、眠気がまた少し落ちる。
身体って、正直だ。
「……文、いつ起きるかな」
俺が言うと、紬命は小さく鼻で笑った。
「“起きる”ってより、“戻る”だ」
「戻れるやつは、いずれ戻る。戻れないなら、寝たままじゃなく別の形で暴れる」
物騒な言い方なのに、怖くない。
紬命が言うと、“現実の説明”になる。
脅しでも不安でもなく、ただの事実。
その時、廊下の向こうから、衣擦れみたいな音がした。
紬命が目を上げる。
俺も、箸を置いたまま音の方を見る。
――コン。
控えめな、音。
障子の向こうから、弱い呼吸。
「……入るぞ」
紬命の声は、少しだけ柔らかかった。
姉さんの声のまま、柔らかい。
俺たちは、静養室へ戻った。
障子を開けると、文ちゃんが、布団の上で目を開けていた。
焦点が、まだ揺れている。
でも、昨日より確かに“ここ”を見ている。
俺の姿が見えた瞬間、文ちゃんの手が布団を掴む。
掴んでから、俺を見上げる。
「……優さん……」
掠れた声。
でも、ちゃんと届く。
俺は、反射で頷いた。
「うん。ここにいる」
文ちゃんの眉が、少しだけ緩む。
緩んだまま、まだ怖い顔も残る。
安心と不安が、一緒にある顔。
紬命が、椀を持ち上げた。
「粥。昨日より温い」
文ちゃんは、返事をする前に、俺を見る。
“いい?”って訊くみたいに。
誰に許可を取っているのか分からないのに、ちゃんと訊こうとする。
「食べよ。少しでいいから」
俺が言うと、文ちゃんは小さく頷いた。
「……はい……」
“はい”に、ちゃんと礼儀が入っている。
でも、その礼儀の奥で、子供が必死に踏ん張ってる。
紬命が匙で少しずつ運ぶ。
文ちゃんは、ふー、と小さく息を吹いて、ひとくち。
喉が動くたびに、身体が少しずつ戻ってくるのが分かる。
五口目くらいで、文ちゃんが急に目を伏せた。
「……あの……すみません……」
反射みたいな謝り方。
胸の奥が、きゅっと締まる。
「謝らなくていい」
俺は、昨日と同じ言葉を置いた。
重くしないように、でも逃げないように。
文ちゃんは、唇を噛む。
それから、俺を見た。
「……優さん……」
「……迷惑……かけて……」
言い切る前に、声が震える。
言葉の途中で、泣きそうなのに泣かない。
泣くと壊れると思ってるみたいに。
俺は、言い方を探した。
励ましの言葉は、薄い。
でも黙ると、文ちゃんが自分で自分を責める。
「迷惑じゃない」
それだけ言うと、強すぎる気がした。
だから、少しだけ現実を混ぜた。
「……俺も助かった」
「文ちゃんの声がなかったら、俺、あの泉に踏み込めてない」
文ちゃんの目が丸くなる。
自分が誰かを動かした、っていう事実が、まだ馴染まない顔。
「……わたし……」
「……声、出して……」
そこで言葉が止まる。
怖さが戻ったのか、肩がすくむ。
紬命が、椀を置いた。
「声、出せたのが偉い」
「生きたいって身体が動いた。今は、それで十分だ」
褒め言葉は、短い。
でも、短いほど効く。
文ちゃんは、また小さく頷いた。
「……はい……」
その返事が、ほんの少しだけ“子供の返事”になる。
硬い礼儀の角が、少し丸い。
紬命が立ち上がる。
「……動けるか。今日は、廊下まででいい」
「湯も、無理に入れるな。拭く」
文ちゃんは俺を見る。
俺が頷くと、文ちゃんも頷いた。
俺は、文ちゃんが起き上がるのを手伝おうとして、手を出しかける。
でも、すぐ止めた。
触れるのが怖いわけじゃない。
文ちゃんが“自分で決める”のを奪いたくなかった。
「……掴まる?」
俺は手を差し出して、問いにした。
文ちゃんは、一瞬迷ってから、そっと俺の指を掴んだ。
掴む力は弱い。
でも、逃げない掴み方だった。
廊下に出ると、木の匂いがする。
旅館の匂い。
包む匂い。
文ちゃんの足取りは、ふらつく。
でも、すぐに転ばないように、文ちゃん自身が身体を固めている。
怖さを、骨で支えてる歩き方。
「……歩ける?」
俺が訊くと、文ちゃんは小さく答える。
「……だいじょうぶ……です……」
“です”がつくのが、文ちゃんらしい。
なのに、その声の端が甘えるみたいに揺れている。
廊下の角まで行って、文ちゃんが止まった。
そこで、ふっと息を吐く。
「……おうち、みたい……」
言ったあと、自分でびっくりしたみたいに口を閉じる。
“言っていい”と思ってなかった顔。
俺は笑えなかった。
でも、胸の奥が温かくなった。
「……うん」
俺は、それだけ返した。
肯定でも否定でもなく、受け取る返事。
紬命が、少し後ろから言う。
「戻るぞ。無理すんな」
「今日の目標、達成。十分だ」
“十分”って言葉が、ここでは救いになる。
これ以上頑張らなくていい、って意味だから。
部屋へ戻って、文ちゃんを布団に寝かせる。
文ちゃんは、布団に沈むと、少しだけ顔を緩めた。
「……優さん……」
呼ばれる。
「ん?」
文ちゃんは、言葉を探して、見つけられないまま、俺の袖をつまんだ。
それが答えだった。
俺は、袖を引かれたまま、少しだけ近くに座る。
「……ここにいるよ」
文ちゃんのまぶたが、ふっと重くなる。
でも、寝る前にちゃんと言う。
「……ありがとう……ございます……」
それから、少し間を置いて。
「……優さん……また……来て……」
“来て”の言い方が、礼儀じゃなくて子供だった。
甘えたがりの声。
それでも、最後に小さく“さん”が残る。
俺は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
「行かない」
短すぎると強すぎるから、続けた。
「……行っても、戻ってくる」
「文ちゃんが起きたら、ちゃんとここにいる」
文ちゃんは、小さく頷いた。
そのまま、眠りに落ちる。
紬命が、俺の背中を顎で示す。
「お前、外の空気吸ってこい」
「ここで詰めると、文も息詰まる」
姉さんの判断。
俺は黙って従った。
旅館の裏へ出る。
森の手前まで行くと、空気が少し変わる。
神羅の森の匂い。
昨日の泉の気配が、まだ薄く残っている気がする。
俺は、そこで初めて自分の腕を見る。
固定の布が、きっちり巻かれている。
痛い。
でも、この痛みは今の俺を現実に繋いでいる。
背後で、足音。
「……考えすぎるな」
紬命が、隣に立っていた。
いつの間に。
相変わらず、気配が静かすぎる。
「……考えると、だめ?」
「ダメじゃねぇ」
「ただ、今は順番が違う」
「文が戻る。お前が潰れない。それが先だ」
俺は息を吐いた。
吐いた息が白い。
季節が分からないのに、冷たさだけは分かる。
「……紬命」
俺は、ふいに言った。
「ん?」
「……ありがとう」
紬命は、少しだけ目を細めた。
笑わない。
でも、柔らかくなる。
「礼はいい」
「言うなら、文に言え。あの子、ちゃんと受け取るから」
その言葉が、なぜか胸に残った。
“受け取る”って、簡単じゃない。
でも、文ちゃんは受け取ろうとしてる。
怖くても、礼儀で、必死に。
部屋へ戻ると、文ちゃんはまだ眠っていた。
でも、さっきより眉間の皺が薄い。
俺は、布団の端に座って、文ちゃんの手元を見る。
布団の端を掴んでいる指が、少しだけ緩んでいる。
その緩みが、日常の始まりみたいに見えた。
劇的じゃない。
でも、確かに“明日が続く”緩み。
俺は、文ちゃんを起こさないように、そっと手を近づける。
触れる直前で止めて、迷って、結局、触れない。
代わりに、小さく言う。
「……起きたら、粥の続き食べよ」
「それから……庭、少しだけ見に行こう」
返事はない。
でも、文ちゃんの呼吸が、ほんの少しだけ深くなった気がした。
俺は、その深さを“返事”だと思うことにした。
言葉じゃなくて、存在で返ってくる日常。
――その日の終わり。
文ちゃんは、起きて、少し飲んで、少し食べて、また眠った。
途中で目を開けて、俺を見つけるたび、安心して目を閉じる。
その繰り返しが、旅館の時間の中に溶けていく。
大きな出来事は、もう起きなくていい。
今日、呼吸が続いた。
それだけで、十分だ。
俺は、文ちゃんが眠るのを見届けてから、障子をそっと閉めた。
閉めたあとに残ったのは、また呼吸の音。
細い呼吸と、少しだけ整った呼吸。
その二つが同じ部屋にあることが、今の奇跡だった。
そして俺は、廊下の木の匂いを吸い込んで思った。
――これが、日常なら。
俺は、まだ、ここにいていい。
まだ、少しだけ、生きていける。




