【1】
「高柳先生、先程ご主人からお電話がありました。できたら折り返しが欲しいそうです」
「ありがとう、沢村さん。私用でごめんなさいね」
医療クラークの沢村 奈々からの伝達に、高柳 万里子は恐縮して答える。
余程のことがない限り、勤務先に連絡はしないというのが家庭内でのルールだ。逆に言えば『相当の事態』だということになる。
……何があったのだろう。
「もしもし? どうかしたの?」
『万里ちゃん! 翔太が──』
電話に出た夫の毅は上擦った声でそれだけを告げて絶句してしまった。
彼の気持ちはわかる。しかし「自分のこと」ではなく二人の息子に関わる事態らしいのだから、今パニックに陥られても困るのが本音だ。
しかし夫婦・家族として重ねた時間で、夫ことはそれなり以上に理解していた。いま万里子が攻め立てても自体が好転することは決してない。
「翔太が何? 毅くん!?」
息子がどうしたというのだ?
平静を保っているつもりでも苛立ちは顕になっているのだろう万里子に、夫はようやく言葉を続けた。
『し、翔太が熱中症で。中学から連絡来て、迎えに行ったらもう立てないし喋れない状態だったんで俺……』
「それで? 翔太は今どうしてるの?」
未だ混乱の最中なのか要領を得ない夫の説明に、万里子は冷静にひとつずつ確認して行く。
『あ、とりあえず鈴木先生のとこ行って熱中症だって言われたんだけど。先生すごく怒ってて、「西中学ですか! またか!」って』
夫の指す「鈴木先生」は、翔太が幼い頃からかかりつけの開業小児科医だ。
「お医者さんなのにお子さんは別の先生に診てもらうの?」
同業者以外にそう言われることもなくはないのだが、「小児科」はことに専門性が高いのだ。子どもは決して大人のミニチュアではないのだから。
実は「家族の診療は保険対象にならない」という事実もあるが、そんなものは大した問題ではなかった。
鈴木医師は共に四十六歳の万里子と毅より一世代上で、普段はとても穏やかで腰も低く子どもに優しいベテランの男性小児科医だ。
その彼を『激昂させる』ほどの状態だったということか。
『鈴木先生が市に報告するって言ってた』
「それはそうでしょうね。とにかく、なるべく早く帰るから翔太をお願い」
夫に後を頼み、万里子は通話を終えた。
◇ ◇ ◇
帰宅後、部屋で眠っている翔太の様子を確かめた万里子は、改めて夫に事情を聞いた。
熱中症アラートが発令されている中、わざわざ部活を強行したという。
蒸し風呂のような体育館に普段の何倍もの人数を詰め込んで走り回らせたらしい。
夫が会った部活の顧問は、「外じゃなければ大丈夫だと思って……」と弁解して来たそうだ。
『室内でも熱中症にはなる』
世間でも共有されている常識だと思っていたのだが、息子の通う中学校の教員にはその程度を理解する知能さえもないということか。
当然ながら、何人もの生徒が熱中症らしき症状で倒れて行く。
それをとりあえず自力で動ける者はそのまま帰し、翔太のような重症の生徒は仕方なく保健室で休ませて保護者に迎えを要請したということだった。
「『熱中症だけどこんなの大したことないですから〜』って保健室の若い先生がヘラヘラしてて。救急車呼べよ! って思ったけど、それより早くお医者さんに診せなきゃって」
「それで良かったのよ。揉めてるよりまず診察受ける方が先」
毅は医療関係者ではなく事務職だ。己の行動が正しかったのか不安らしい彼の言葉を肯定する。
倒れた生徒は翔太以外に何人もいた。もちろん医療機関を受診したのも息子だけではない。
救急車を要請しなかったことからも隠蔽したかったのだろうが、「露見するに決まっている」と異議を唱える教員は居なかったのか?
あまりの考えのなさに逆に呆れるしかない。
当然ながら校長は市、……教育委員会事務局から注意なり警告なりを受けたと容易に推測できた。




