一 いたちの里のくま入道
地震や火事、野盗と並べて妖についても噂され、恐れられていたころ。
都から離れた山奥では人の領分などたかが知れていた。
かごいっぱいの山芋を背負った村娘が、石段を転びかけながら駆け下りる。
「おゆるしを……おゆるしを!」
いのししに追われていた。
「ぶぉごおおお!」
ただのいのししならば木にでも登ってやりすごす手立てもある。
しかし数頭ぶんもあろうかという巨体は、激突した木をへし折るほどだった。
牙から顔面まで赤黒く染まり、身を守るためではなく、突き刺し殺める喜びを求めて荒ぶっている。
「ぶぉごぁ! ぶぉごぁ!」
眼は血走り、妖へ踏み外しかけていた。
村娘は背から突かれ、数歩もはね飛ばされて転がる。
山芋かごのおかげで背の傷は浅かったが、全身を地面に打ちつけてうめく。
「ひいいっ……!?」
せまる毛肉の山をなすすべもなく見上げる。
横合いの茂みから矢のように飛び出す影。
それは化けいのししの首へ突き刺さり、びゅんと宙を舞う童子だった。
村娘と変わらぬ背丈で、年なら十を少しすぎたばかりに見える。
しかしぼろ毛皮だけまとった手足は騎馬のようにひきしまっていかつい。
のどへ喰らいついたまま空を一転。地面へ降り立ってふんばると、入れ代わりに化けいのししのほうが宙を舞わされた。
「ふんっ!」
あごの気合で、ごぎりとのどを咬みつぶす。
そのまま石段の角へ化けいのししの頭をたたきつけ、断末魔すら許さない。
「ぶぃっ……!?」
童子の尻には犬のような尾があり、その頭には犬のような耳もある。
顔だけならば人のようにも見えるが、目は猟犬のように鋭く、牙も太く尖り、手指と裸足の爪も厚く鋭かった。
村娘はぺたりとへたったまま手を合わせ、伏してふるえる。
「おいぬ様、ありがとうございます。ありがとうございます。もうしわけないです」
化けいのししに追われていた時と同じおびえ顔のまま、声もかぼそい。
「とっとと立ち去れやい」
おいぬと呼ばれた童子は村娘のかごをひったくる。
「母上へのみつぎものじゃな? わしがあずかる」
「はいっ! おおさめくださいまし!」
童子はあわてて村娘の口をふさいだ。
「さわぐなっ、わしまで喰われてしまう」
数十ある石段の上、大樹のような鳥居の奥に、さらにむやみと大きな社がせせこましく建てられていた。
童子はおびえた目で、開けられたままになっている戸口の闇へ目をこらす。
「……行け。早う」
村娘は自分の両手で口をふさぐと足を忍ばせ、しかし大あわてで逃げ去った。
その背を見送った童子は足元のいのししへ目を落とし、頬をゆるめる。
「ようやく、わしも腹ごしらえじゃ」
かごを置き、はらわたへかぶりつこうとした時、耳がぴくりと上に向く。
いつのまにやら鳥居の上に、ぷらぷらと素足をゆらす童女が座っていた。
「なんじゃ、ねこか」
童子は顔をしかめてつぶやく。
童女は猫のような顔つきで、その尻には猫のような尾があり、その頭には猫のような耳もある。
いぬの童子より頭ひとつ小さく、都の姫君のようにきらびやかな着物を重ねていた。
「いぬ。の、いぬう」
童女は細い目をさらに細め、ひらと体を落としてくるくるまわり、てんと素足で地面を踏む。
「今日はこまったことが起きるぞ」
「言われんでも、貴様がよるとついとらんことばかりじゃ」
童子はいらついてにらむ。
「いぬはともかく里がこまる。ひと走り、まわって来やれ」
童女は笑い、指の爪を石段の下よりはるか先、田畑の広がる人里へ向けた。
「めしというのがわからんか!?」
どなったあとで、尾がぎくりとふるえ、耳は背後の社へ向く。
「い~ぬ~ぅ~」
戸口の闇から、くまでもおびえそうな低い声が響いた。
「は、母上様……?」
人の背の倍はある戸口へ合わせたかのように、大きすぎる鋭い眼とひしめく牙が浮かび上がる。
長い白髪は荒れて波打ち、頭の倍も長い首を這い乱れていた。
肩には貴人の豪勢な着物も見えていたが、大きすぎるあつらえは重たくたれ下がり、作法もなく二十枚も三十枚も重ねている。
「すぐ、ゆけい。ねこの読みがはずれたことはなかろうが~あ」
いぬの童子は何十歩も離れていながら、全身の毛を逆立てた。
「し、しかし……」
「親に口ごたえするか~あっ!?」
となり山までとどろく吠え声に童子の体は跳ね上がる。
童子の頭をひとかじりにもげる牙の群れが開かれていた。
「番もつとまらんなら、裂いて喰う」
「いえっ……今すぐ!」
かごもいのししも置いて駆け出すしかない。
「うう~、ついとらん! ついとらん!」
その姿を石段の下に隠れて見送る幼い村童たちがいた。
こわごわとあたりを見まわし、鳥居には近づこうとしない。
「ねこ姫様。鞠をお持ちしました」
年長者が年下を背にかばい、ささやくようにねこの童女へ呼びかける。
色鮮やかな鞠玉を捧げ持っていた。
「ん。そうじゃったな」
童女はちらと社を見る。
戸口の奥はただの闇にもどっていた。
「案ずるな。今日はまだ誰も喰われんようじゃ」
「はい~、ありがとうございます」
年長者はおびえながらも笑顔を見せ、年下の者はくったくなく喜んだ。
ねこ姫が石段をおりると、村童も身をちぢめてついていく。
「豆ぼうはどうした?」
「今日は摘みとりの手伝いです」
「ん。では豆畑の近くで遊んで待つかの」
そのころ、峠を越えて山里へ入った僧衣の者たちがいた。
「お坊様、お待ちくださいまし!」
峠道に近い、豆畑の若夫婦が血相を変えて呼び止める。
「この里は妖がおさめております。どうかすぐ、引き返してくだされ」
豆の摘みとりを手伝っていた村童はまだ歩き出して間もない年だった。
先頭に立つ太く大柄な僧をめずらしげに見上げる。
毛深い大入道は中空を見つめたまま、にぃーっと笑った。
「ほう。どこにおる?」
「へ?」
村男は大入道の冷ややかな目つきにおびえはじめる。
「退治してやろう。案内せい」
「とんでもねえ! 手助けなどしたら、女房も子供も……」
「ほう」
僧たちは懐から短刀を抜き、村男の妻子へつきつけた。
「ならば、これで案内してもらえるのだな?」
人の背丈の何倍も高い崖の上から、ぽつと童女が舞い下りてくる。
「坊主が人を殺めるのか?」
ねこ姫は尾と耳を隠す気もない。
崖の上では村童たちが不安げに見下ろしていた。
大入道はますます口元をつり上げる。
「世のための善行じゃ。貴様こそ、妖が餌食をかばうのか?」
「ひまつぶしのたわむれじゃ」
僧のひとりは幼な子の首へ刃をあてたまま、うれしそうな声を出す。
「幼い妖をひろい育てるという、けったいな化けいたちのうわさを聞いたぞ」
村女に刃を当てている僧も満足そうにうなずく。
「ならばようやく、いたちの妙薬を手にできるか」
親のおびえに幼な子も泣き顔になりかけ、ねこ姫は横合いの山を指す。
「豆ぼう、下手に動けばよけいに苦しむ。あの山でも見ておれ」
幼な子は言われるままに山へ目を向け、村女も同じ山へ手を合わせて歯をくいしばった。
ざぐりと音がしてのどから短刀が離れ、それを握っていた腕ごと地面に転がる。
大入道がふりかえると、犬のような童子が村女と幼な子を両手に飛び上がっていた。
「おいねこ。なんじゃこの、ろくでもないにおいの連中は?」
ひと飛びに大入道の頭を越え、ねこ姫の前へふたりを放り捨てる。
「賊じゃ。母上の薬が望みらしい」
「こんなのろまどもが? 会わせてやれい。里のいけにえを減らせるわい」
片腕をきれいに落とされていたふたりの僧はようやく痛んできた傷口へ叫んでへたりこむ。
それを足蹴に押しのけた仲間の僧たちは嬉々と鎖鎌や鉤縄をかまえた。
「こいつは、いよいよじゃ!」
「いぬとねこの妖が共におるなど、化けいたちがひろい合わせたにちがいない!」
「だれが好き好んで性悪なねことおるかい」
いぬ童子はすねたようにつぶやくが、ねこ姫は楽しげに首をかしげる。
「わしは好き好んでしょぼくれたいぬをからかっておるがのう?」
大入道は酒壺から黒い粘りをどぶどぶとのどへ流しこんでいた。
「くま入道よ、飲み干す気か?」
仲間が驚いた時にはすでに最後のひとしずくをなめていた。
「化けいたちの妙薬が目の前とあらば、けちることもあるまい。化けいぬと化けねこの肝まであるわい」
大入道の体はさらに毛深くなり、くまとも鬼ともつかぬ図体にふくらんでいく。
ねこ姫は豆ぼうとその両親を手で追いやって逃がし、鼻を袖で覆った。
「化けた獣の肝を呪い酒に漬け溶かしたものか? はらわたも腐るわけじゃ」
いぬ童子はふたたび大入道の背後へ飛ぶようにまわりこみ、僧のひとりを鎖ごと爪で裂き倒す。
「このくささでは喰えたものではない。山へ近づけるだけで母上の機嫌をそこねかねん。なんと不親切な坊主どもじゃ」
くま入道が腕を振るうと木の幹がえぐられ、いきおいあまって仲間の片脚までちぎり飛ばした。
いぬ童子はただかわすだけではなく、手指の爪を突き立てている。
肉をいっぱいに引き裂き、ごつりと骨に当たる音もした。
しかし血はさほど流れないまま、傷もふさがりはじめてしまう。
くま入道はよだれを滝のように流し、吠え声までくまのように豆ぼうを追いはじめた。
ねこ姫はふらりと立ちはだかり、誘い踊る。
「なまじ体が頑丈なだけに、先に心がやられたか。その前に魂が腐りきっておったが。いぬう、牙を使えやい」
いぬ童子は伏せるように低く駆け、くま入道の足首をごぎりとかみ砕く。
「ぐええ。まずい。だからいやだったんじゃ~」
くま入道は倒れ、しかしなおも二本の腕と一本の足で駆けはじめた。
豆ぼうの母親が転んでしまう。
「ええい、しょうのないっ」
童子が狼よりも野太いうなりを上げる。
くま入道の両腕もまたたく間に咬み削られ、身動きできなくなった時にはのども咬みとられていた。
「ぐええっ、これはひどい」
いぬ童子は近くの畑へ飛びこみ、勝手にもいだ瓜をほうばっては吐く。
「いぬ、そのひどいにおいを畑に吐きちらすな。川まで走れ」
ねこ姫は崖上の村童たちへ目を向ける。
「残念じゃが、鞠つき遊びは日をあらためる。今日はみんなで豆ぼうの親を手伝ってやれ」
ねこ姫の手招きする指はいつのまにやら血にまみれていた。
手指と素足の爪がいぬ童子よりも長く、短刀ほどにのびている。
くま入道の仲間でまだ息をしていたはずの者たちは、ひとり残らずのどをかき裂かれていた。
「いぬ、ごくろう」
「なにをえらそうに……しかしこれで、母上もわしのはたらきをわかってくれよう」
鼻息も荒く、山上の社へ向かう。
いぬ童子はひれ伏し、落胆することになった。
「めしぬき三日ですとお……?」
がくぜんと見上げ、またすぐ地面へ頭をこすりつける。
いつでも陰気な化けいたちの巨大な目に見下ろされていた。
「たわけ~え。ねこがおらなんだら、里のにえどもが減っておったわ。貴様が番をなまけておるからじゃ~あ」
いぬ童子は鎖にしばられ、峠の大木につなげられた。
「いぬう~」
「よるなというに!」
ねこ姫は幹に隠れて丸まっている童子をのぞきこみ、ころころと笑う。
「泣いておるのか? もっとよう泣き顔を見せやれ」
「くそう、どこまでもついとらん! ほんに、貴様がよるとろくなことにならん!」
いぬ童子は泣きはらして涙も出なくなった目でにらむ。
ねこ姫の変わらぬ笑い顔を見るなり、すぐまた背を向けた。
「なぜ母上はわしばかり、こうもつらくあたられるんじゃ?」
ねこ姫は童子を耳から尾までながめまわしてから、そっと顔をそらす。
「いぬう、貴様の牙は鋭い。それに耳と鼻もよくきき、まやかしがきかぬ。妖が苦手とする妖じゃ……しつけもきびしくなろうというもの」
「わしが母上に歯向かったところで、片手でつぶされるわい。それに母上は兄上を喰らい、心の声まで聞きとれるようになったはずじゃ。わしがひろい育てられた恩をどれだけ重く心得ておるかも聞いておられるじゃろうに」
「いぬはめんどうな考えかたをするのう?」
ねこ姫が大あくびをする気配に、いぬ童子はふたたび振り向いてにらむ。
「貴様はどうなんじゃ? とりわけ目をかけられておるのは、早うに喰われるためじゃとわかっておろうが」
ねこ姫の笑い顔は変わらず、長い尾を引き寄せて舐めすいていた。
「母上はわしの先を読める目を使いたがっておられるからのう? じゃがそれまではめしを食わせてもらえる。逃げようなどと胸でつぶやけば聞かれてしまう」
「逃げられてめしも食えるなら、そうするのか?」
いぬ童子は口にしてから、社のある山をこわごわと見やる。
「まさか。先を読めたところで、どう生きていいかはわからん。わしは喰われるよりも、捨てられるほうが怖い」
童子はいつのまにやら近づいていたねこ姫に耳をなでられ、その手をふりはらった。
「貴様のほうがよほどめんどうじゃっ!?」
ねこ姫はころころと笑いながら去る。
いぬ童子の頭からぽとり、いつのまにやら置かれていたまんじゅうが落ちた。