手伝い
「あのぅ」
とある夜。公園のベンチに座り目を閉じていた男はそう声をかけられた。
男は「ひっ」と悲鳴を上げなかったものの突然のことゆえ、ぶるっと体が震えた。だから『驚かせやがって……いや、驚いてないし』と怒りと虚勢を交え、やや睨むように見上げたわけだが、なんてことはない。相手は腰の曲がったひ弱そうな老人であった。口をもごもごと動かし、顔を俯かせている。男は害はなさそうだなと少しほっとし、訊ねる。
「あー、なんですか?」
「そのぅ……」
と、はっきりしない老人に男は苛立った。若いこっちと老人のそっちじゃ時間の価値というものが違うんだ。さっさと喋りやがれ、と。
「よくこの時間帯にお見かけするのですが……何をされている方でしょうか?」
「……あー、そんなのアンタに関係ないだろう」
「このベンチでね、お酒を呑んでいるようですが……お仕事とかされているようには……」
老人は男の服装や髪型、無精ひげ、おまけに脇に置いた安酒を見てそう判断したのだろう。それで無職とは限らない。だが男は反論せず口ごもった。酒が頭に回っていた上に図星ゆえ、ただただムッとするしかなかったのだ。
「で、なんなんだよ! 文句あるのかよ!」
「ああ、いえいえそんな……その、あなたに頼みたいことがありまして……」
「頼みたいこと? そんなの、まあ言ってみなよ。さっさとな」
そう言い、男はまた酒に口をつけた。大したことではないだろう。電球の交換とか蜂の巣駆除とかなんにせよ、断ってやろう。苛つかせたお返しに頼み方が悪いとか怒鳴り、追い払ってやろうか。いやまあ、やめとくか。ははは、気弱そうな爺だ。そのショックで死んだりし――
「自殺を手伝ってほしいんです」
「……は? え、じ、自殺?」
「はい……実は……」
と、老人は訳を話した。悲壮感たっぷりに長々と時々脱線しては嘆き恨み孤独孤独孤独。それは今の時代、よくある話なのかもしれない。男は『大丈夫だよ』『わざわざ死ぬことないって』などと慰める気分になれなかった。この先の自分も老人と同じ状況に陥るかもしれない、うっすらとそう感じたのだ。ただただ気分はどんよりと。胸糞悪くなった。
「……ま、話は分かったよ。だがな、手伝うってそりゃ殺人……ではないか、えっと自殺幇助? まあ、犯罪なわけだ。逮捕。なんならお前が殺したんだろうって詰められるかもしれない。文化人でもあれば別かもしれないがな。見ず知らずのアンタにそこまでしてやる気はないよ」
「私の遺産を全て差し上げます」
「えっ」
「と、言っても自宅は持ち家ではないですし、近くの貸倉庫に入れてあるんです。銀行の貸金庫は高いし信用ならないので……一番大きな倉庫です。現金と貴金属、あとは絵とか壺にそれから、ええと」
「貸倉庫……あー、あの駐車場の隣か。だ、だがなぁ、うーん」
「大丈夫……遺書があります。疑われないでしょう。あなたは、ほんのちょっと踏み台をずらしてくれるだけでいいんです。私が首を吊ったあとでね」
魅力的な話であった。いや、魅力しかない。そう思ったときには男はベンチから立ち上がっていた。
「……う、オエッ」
ひどく悪い呑み方をしたあとのような気分だった。いや、実際に呑んだ。老人宅にあった倉庫の鍵と共に酒瓶を頂いてきたのだ。そうしなければ、足が震えてまともに歩けそうになかった。
脳裏に鮮明に浮かぶ老人の死に様。男はそれを酒と、そして歩く度に太ももで感じるポケットの中身の鍵、その奥の遺産で上書きしようと努めた。しかし……。
「……合わない」
老人の遺体は新聞配達員が発見したらしい。昼間にそれとなく現場を、老人宅の前の道を通り、近所の主婦たちの会話を耳にした。それは狙い通りにいった。老人に頼まれ、現場を立ち去る時にドアを開けておいたのだ。
しかし、老人から貰った鍵。それは貸倉庫の鍵穴とまったく合わなかった。そもそも小さい。これは自転車の鍵か何かでは? 今になってそう気づき、そして一杯食わされたのだと男は顔を歪めた。
呆けたようなジジイのくせして、そしてそれに騙されるなんて、と歯がゆい思い。しかし、どうすることもできない。相手はうまく死に逃げしたのだ。
「はぁ……」
結局、また公園のベンチに逆戻り。人生の一発逆転とは言わないまでも少しでも良くなることを期待していただけに落胆も大きい。
しかし、あの死に様。自分はああならないようにしようと思えただけ、何かの糧には――
「あのぅ……」
悲鳴は上げなかった。何も。その声のしたほうに目を向けた男はただただ口を開け、含んだ酒を零した。
「どうして手伝ってくれなかったんですか……帰っちゃうなんてひどいじゃないですか……やるっていったのに……」
「は、は? い、いや、俺はちゃんと……」
何を言っても無駄だと男は思った。ブツブツと喋り続ける老人。それは裏切ったと思っている男へ恨み節から始まり世の、他人の、ただただ延々と。いくら説得しようとしても聞き入れず、そしてそれは家に逃げ帰った男の傍で毎晩のように続いた。
男は思った。
逃げるには死ぬしか……いや、それすらも……