回想:スパイ
華奈多さんの脱出を手引きしたスパイには心当たりがある。第二の拠点に引っ越して、高校に通い始めた頃の話だ。
次の家は、マンションではなく立派な一軒家だった。小さいものだが、ベランダや庭まである。
「戸建てじゃん!!」
叫びながら、大声に顔をしかめる士くんに詰め寄った。
「いいの?地についてるよ?庭まであるよ?ベランダに出るのすらあんなに渋ってたのに、どういう風の吹き回し?」
「お前に信用ができただけだ。その分、逃げたら相応のことをされると思え。」
「はぁい。」
士くんからの信頼が嬉しくて、私はしばらく彼に抱き着いて「ありがとう」を繰り返した。照れ臭そうにしつつも、そっと抱き返してくれた腕の熱さを覚えている。前のマンションも良い部屋だったが、普遍的な一軒家は安心感があり居心地がよかった。この家から学校に通う毎日は、どこにでもいる高校生になれた気がしてホッとする。
その日常に横槍を入れてきたのは、アザミくんでもツバキさんでもないもう一人の珍客。授業を終えて家に帰ると、そいつは当然のようにリビングの椅子に座っていた。
「おかえりなさい。」
「………………どちら様ですか。」
てっきり有坂くんが掃除に来ていると思っていたため、初対面の男にかなり動揺した。狼狽える私に、彼は「大丈夫だよ」と優しい声色で繰り返す。
「心配しないで、俺は敵じゃない。峰内士にもバレてない。」
それは私にとって安心できる要素じゃない、むしろ最大の不安要素だ。士くんの許可なくこの家に来る人間が、アザミくん以外にもいるなんて。無言で後退ると、再度「大丈夫」と言われる。
「俺は米代走地、君を助けに来た。」
「はい?」
言葉の意味が理解できず、眉をひそめる。暴力をふるう素振りはないが、スマホに手を伸ばすのはやめない。いつでも逃げ出せる体勢を崩さない私に、米代さんは無理に近付いてくることはしなかった。
「峰内士が女を買ったって噂を聞いて、色々調べてたんだ。そして君に辿り着いた、家守博さん。」
名前も知っているということは、両親の借金などの情報も知っている。なんとなく「助けに来た」意味に、察しがついてきた。しかし何故この人が?と考えていると、米代さんの口から答えが出る。
「俺は組織に潜入している警察官だ、君をここから、峰内士から逃がせる。」
「……なるほど。」
スパイということか、納得する。だとすれば、犯罪組織に巻き込まれた一般人を助けるのは仕事だろう。どうやって士くんに知られないよう家に侵入できたのかはわからないけど、米代さんの事情はおおむね理解した。スマホを握りしめて、深く息を吸う。
「有難くもない迷惑なので結構です。余計なお世話ですからお引き取りください。」
「………………え?」
私の言葉に、米代さんは呆然とした。当然の反応だ、彼が黙っている隙に畳みかける。
「相手を騙して仲間になって、必要な証拠が集まれば裏切って貶めて逮捕する。警察のくせに、やることは詐欺師と同じなんですね。相手が犯罪者なら、なにしてもお互い様ってことですか。」
「な、なにを言って…………」
「あなた方と同じになる気はありません。私は士くんを裏切らない。私はちゃんと、士くんのことが好きなんです。」
敵意をむき出しにすれば、米代さんはわかりやすくたじろぐ。しかし表情を引きつらせながらも、彼は私に微笑みかけた。あからさまに私を哀れんでいる顔が、癇に障る。
「君のその気持ちは、異常時な状況下で自分を守るために生まれたものなんだ。逆らったら殺される状況下で相手に従うのが、生きるための戦略。組織に監視されているうちに、奴らの気まぐれな親切が好意的に見えて、それを自分の本心だと思い込んでしまってるんだ。」
「………………私が彼を好きなのは、一緒に居たいって思ってるのは、間違ってることなの?」
「そうだよ、だから──」
「だから何?間違っていることは、悪いことなの?間違いを清算するためなら恋人も裏切って捨てて良いと思ってるの?いい大人のくせに、恥を知れ!!」
力いっぱい声を張り上げて、米代さんの言い分をはねのける。彼の言っていることが解らないわけではない、けれど私自身が嫌なのだ。思わぬ反撃に米代さんが狼狽えている隙に、スマホをタップして士くんの番号にかける。
「家守さん、俺は、」
「うるさい、黙れ。私は被害者じゃない、共犯者だ。」
それでもなお言葉をかけてくるのが、とにかく鬱陶しい。士くんを受け入れた以上、私は士くんと同じ側の人間だ。間違いであっても、自分の意志で決めたこと。米代さんがどれだけ正しかろうと、ぽっと出の人間に指摘される筋合いはない。
「出て行って!!ここは私の家だ!士くんの帰る場所だ!私にはここを守る義務がある、士くんを害す目的でこの場所を侵したあなたを絶対に許さない!!」
苛立ちが抑えられなくて、叫びたいことがあふれ出す。八つ当たりのように怒鳴り散らしながら、士くんが電話に出るのを待つ。
「帰って下さい。二度と、この家にも士くんにも私にも近付かないで。金輪際、近付かないで!!」
米代さんは私に指一本触れないまま、逃げるように立ち去った。入れ替わりで駆けつけてくれた士くんに、ありのままを報告した。とはいえ相手も手を打っていたらしく、士くん達が動いた頃には米代さんも逃げた後だった。
念のため、私たちはまた住処を変えることにした。次の引っ越し先が殺人現場になるなど、想像もしないまま。
「士くん、もしかして華奈多さんを連れ出したのって……」
「………………。」
言うまでもないとばかりに、士くんは答えない。今日までスパイを見抜けなかった自分を、責めているようにも見えた。問い詰めるのも可哀想なので引っ越しの準備に専念していると、ソファで脱力していた士くんから「博」と呼びかけられる。
「アイツとどんな話した?」
「言わなかったっけ、ここから逃げようってさ。」
「……で、何て?」
「何てもなにも、頷いてたら私今頃ここにいないでしょ。きっぱり断ってやったぜ、いえーい。」
満面の笑みでピースまでしてみせると、彼は理解できないと言いたげな顔をしていた。いじらしい表情が眩しくて、私は目を細める。
「士くんは、可哀想だね。」
返事はないが、表情で「またそれか」と言いたいのがわかる。荷造りの手を止めて、私は士くんの隣に座った。
「新しく入った仲間を疑わなくちゃいけないし、ずっと一緒に居た仲間も警戒しなくちゃいけないし、好きな人には逃げられちゃうし、可哀想だね。」
「………うるせぇ。」
「私、士くんの可哀想なところが、好き。」
可愛くて可哀想な、守ってあげたくなる私の恋人。いつも通り頭を撫でてあげると、おもむろに抱き締められる。
「………………離れるな。」
「もちろん。」
私からも抱き返したこの瞬間、まさに幸せの絶頂にいた。