過激の意味
作家というのは波瀾万丈な生き方をしている。
と、決まっている。とはまあまあ聞く。それで私は昔何か書いてみたいと思った時書けるものが無いなと悟った。(しかし今なら12分に波瀾万丈だったと理解している)
それで、一桁の年齢からお互いを知る彼女から波瀾万丈だよ!と改めて教えてもらう。そうなんだ!私にその自覚は乏しい。ずっと昔から普通なんて存在しない。大変な人はもっともっといる。と言い聞かせているところがあった。
実際にはトゥナイトという深夜番組でふたごやというクラブを経営する美人な双子が家庭内暴力から逃げ出していた話を見て。それで姉に拙い言葉で似ていると言い、でもあなたは暴力は受けていないでしょう?と言われ頭を下げる。もどかしいのだった。今でもうまく説明は出来ない。心理的虐待、放置子、なんだろう。
めちゃくちゃな家だったことだけはわかる様になってきている。衣食住が揃っていた。黙ってさえいれば安全だと思い込まされていた。感情を無くした14才は作家になるほどの人生を送っていないと思っていた。
内田春菊を読んでいた時期があった。この方は分かりやすく大変な事に遭遇して生きてこられた。
私のはわかりにくい。多分。ここから気持ちの良くない過激な話をする。苦手な人はここで読むのをやめてもらいたい。
実家。洗面所。風呂場。廊下からそちらへ近づくと嫌な匂い。私は恐ろしくて何を洗っているの?と母に聞く。それは兄のセーターだった。そして嫌な匂いは血の匂いだった。そうだ、血だと気づいた瞬間に狂いそうだった。
兄は自傷してしまい衣服が汚れた。それを青いたらいに水を張り手洗いしている匂いなのだ。そしてそのセーターは父のお古というオチまでついている。なぜにそんなものを丁寧に洗っているのか?今書きながらやっとわかる。
あの時狂いそうに恐ろしかったのは洗濯する母の心だろうと。(私の母は勿体無いという感性で色んな人の心をめちゃくちゃにしてきた)
例えば目の前で死体が転がる。とても過激な経験だろう。それは私には経験が無いから比べても仕方がないと思うけど。
過激かどうかはそのものよりも例えばあの時透明で近づくことさえ出来ない見えない母の心。私にとってはそれだろう。家庭の風呂場に漂う血の匂いよりも。
怖かったと後々精神科医に告げるとそれは怖いと思いますと返事を貰い少しだけ嬉しかったのを覚えている。
私は体に暴力は受けていない。だからふたごやのママさんとは違う。だけど家出してなんとか生き延びた。
姉に言うも違うと言われる。そうだろう。体は他人に傷つけられてはいない。私のこの恐怖や何も感じれ無い心、精神科の病名がついてくれないこの生きづらさ。これはなんと呼べばいい。なんと名前がつけば安心できる。
どうすれば私は私を愛せる様になる。
作家とは波瀾万丈と決まっている。(多分)
現実の出来事に対峙出来るほど心は成長していない。いや、心はただある。感情を表現する機会が奪われている。
言っても何もならず言うと安全を脅かされる。言葉で説明できなくともそれくらいはわかる。
溜め込んだエネルギーを作品にして自分を愛するツテにする。目を瞑って歩いた獣道を子供に貰った景品の懐中電灯で照らしてあげよう。
目を瞑って歩いてしまったぼろぼろの心に掌をあてて写真の様に浮かぶ過去を今映画館で見ている様な目だ。
ありがとうございます!