8.終わるは洗濯、始まるは……
片桐は空いたワンカップをベンチに置いた。木の板と軽くぶつかり、ことり、と小さく音が鳴る。
「確かに、投稿者は豪華景品欲しさに、事実を捻じ曲げたのかもしれない。本当にあったことを送ってくれ、ってのが条件なんだから、いわゆる規約違反にあたるだろうよ。んだけど、こうも考えられないか。例えば、あの経験をしたけども、豪華景品目当てに、スペシャルウィークがあるまで、とっておこうと思っていた。ついに、と今回書いたけれども、長いこと時間が経っちまったために、当時の記憶が曖昧になってしまった。だから、やむを得ず、覚えている事と覚えている事の間の空白を補完しただけなのだとすれば、どうだ?」
光莉も美波も心の中で静かに納得し、片桐の言葉に耳を傾ける。
予報にはない雨というのが夕立を指しているのか、梅雨を示しているのか。つい先日と言っていたが、確かに本当の時期など分からない。
その辺りを脚色するためにぼやかしたのだと考えれば、その可能性も十分あり得る。捨てきれることではない。
「それに、さっき話した単純に文章を紡ぐことに慣れていないって可能性も捨てきれない。確実なもんにするには今よりもっと細かくて詳しい情報が必要になる。が、そりゃあ中々に難しい。本人がいれば、追及することだって出来るが、それも不可能。となると、ここから先に待つは、ただたた単純な、たられば合戦。これはなんとも厄介で、ゴールは無い。尽きることはない。だとすれば、ここらでやめておくのが得策だ」
人差し指の腹で鼻の下をかく片桐。
「それに、これ以上深掘りをしても、そんで仮に本当の答えを見つけられたとしても、これに関しては、幸せになる人間はいない。反対にこのままにしておいても、少なくとも不幸になる人はいない。でしょ?」
光莉も美波も納得し、頷いて返答した。
このことで過剰に利益を得た人物がいるかもしれないが、確かにこの投稿のせいで不幸になったモノがいるわけではない。個人名は出ていないし、ホテル名も一応は伏せられている。風評被害は最小限か無いに等しい。
となれば、これ以上真実を暴いても、その先にあるのは自己満足だけ。光莉も美波も言葉を交わしたかのように、同じ意見を持った。
「だから、はい」片桐は手を叩いた。辺りの空気にぱちんと響きわたる。「おしまい、一旦解決ってことにしておこう」
年齢としても一番大人であろう、片桐の拍手により、コインランドリー内の推論劇はぴたりと、終幕を迎えた。
不意に現実に戻ってきた美波は、喉元から上ってくる恥ずかしさをまたも感じて膝を曲げ、続けて顔を伏せた。
「ま、またやってしまいました」美波の格好は、意気消沈と表現するのに相応しいものであった。「余計なところまで、どんどんどんどん……」
推論劇を繰り広げた時とは、まるで別人であった。
「ま、自分で反省してるなら、別に僕は気にしてないんだし、そんなに気を落とすことじゃない。直したいなら自分のペースでやりゃいいだけの話さ」
「……はい、ありがとうございます」
「なぁに、僕は慣れたもんさ」
二人の親しみのある会話に入る余地はないと感じた光莉は、静かにエコバッグの紐の輪に肩をかけた。
「あの、それじゃあ、アタシはここいらで」
光莉は肩をすくめるように、へこへこと会釈をしながら、そっと抜け出す。そして、出口へと向かう光莉。
「あぁ、ちょっと待って」
片桐が呼びかける。光莉の脳裏に浮かんだ心当たりはろくなものではない。何か言われるのではないかと思い、立ち止まらない。
「だから待ってって」
逃げられないか、覚悟を決める光莉。そして、恐る恐る振り返った。
片桐は立ち上がっていて、真っ直ぐ光莉を見ていた。
「あのさ」
耳を傾けている光莉は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「エトっちゃん、でいいかな」
「……は、はい?」突拍子もない問いかけに、光莉は素っ頓狂な反応しかできなかった。
「呼び名、というかあだ名?」片桐は腰に手をやる。「いや次に会った時用に、決めちゃっとこうと思って」
「は、はあ」
「嫌だった?」
「いや別に……」そういうわけではなかった。初めての呼び名に多少戸惑いはしただけである。「はい、大丈夫です、エトっちゃんで」と、光莉は受け入れて、そう答えた。
「今日のこと、ホント気にしなくていいからさ。と言っても、気にしちゃうかもしれないから、こう言っておこう。僕らは全く気にしてない。ここは、使う使わないで、来る来ないが決まる場所だ。だからさ、強制することなんてしないし、できない。ただ、これで、来れなくなっちゃう、ってのはなんか申し訳ないからさ」
片桐はにっこりと笑った。優しい微笑みだった。
「ね、ミナっちゃん?」
「あっ、は、はい」
唐突に声をかけられた美波は、数歩前に出た。恥ずかしがっているのか遠慮しているのか、目線を戸惑わせながら、両手の指先を触れさせながら落ち着かない様子であるのが伺える。
「だから、気にせず、また来なよ」
美波は肩の荷が降りたように表情を和らげると、「はい」と返事をした。そのまま、会釈して、コインランドリーを出た。
煌々と電気のついた明るい空間から、星空が綺麗な暗い夜空へ。光莉は来た道とは反対に、足を進める。
「あ、あのっ」
コインランドリーの光も周囲を照らさなくなってきたところで、背後から声が。耳に届いた光莉は、同時にそれが自身に向けられた呼びかけだと気づき、不意に足を止めて振り返った。
コインランドリーの灯りの下、看板下辺りに美波がそこにはいた。真っ直ぐと、光莉と向き合うようにして、立っている。虫も人も誘うように店内の光が漏れ出し、半身を照らしていた。
光莉と目が合うも、「そ、その……」とすぐに伏せてしまった。
だが、さっきと違ったのは、意を決したように身体の前で絡ませていた両手をぎゅっと強く握ったこと。そして、背伸びしてしまう勢いで、顔を上げたことだった。
「は、初めてでした」
「え?」
「助けてくれたの」
美波はそう言うと、しまった、と言わんばかりの焦った表情になり、またもおどおどと、動揺を隠すことなく、体現する。
「いや、その、片桐さんが、変な人だとかそういうのじゃなくて……私、大学に通うために、東京に上京してきて。東京は人がすごく多くて、すごくびっくりして、色んな事が複雑で、駅から出るのも改札口が多くて大変で。どうにかしようにも上手く出来なくて。だから、聞こえてきたのは舌打ちばかりで……」
慣れない都会の生活に四苦八苦していた光莉にも、そんな過去の記憶が脳裏によぎる。それなりに、大変だったことが蘇ってきていた。
「私が悪いのは分かってました。のろくて不釣り合いな私が悪いんだって。でも、誰もいない感じというか。東京はこんなにも広いのに、ひとりぼっちな気がして。そう思うと、なんか寂しくて……」
美波はまとまらぬ言葉を発しながら、時折美波に視線を向ける。
「た、確かにちょっと驚きました。何が起きたのかってよく分からなかったこともあって。でも、衛藤さんに、何があっても助けるからって言って下さった時、そんなこと言われたことなくて、少しでも親身になってくれたことが、私、凄く嬉しくて……はい」
光莉自身もなんであんなことを言ったのか分からなかった。威を見せなければ舐められると思ったのかもしれない。やらない善よりやる偽善、という言葉の通りの行動に移したのかもしれない。
ラジオの話で頭の中は埋め尽くされたことで、それに忘れ去りたかったために、今となっては何がその理由なのか、光莉は、思い出せなかったし、覚えてもいなかった。
「アタシも大学の時に上京組で、なんか昔の自分を見てるような気がしてたから」
そのため、光莉には、おそらくこうだろう、という自分の気持ちを予想でしか返せなかった。
「そうだったんですか」美波はまた共通点を見つけた、という喜びの表情を浮かべる。
「ええ」
互いに名乗ったというのに、それ以上のことを知らなかったと光莉は思った。
「私のところは、電車は一日に両手で数えられるぐらいしか来ないようなところで」
「勝った」
「え?」
光莉は右手を掲げた。「電車の本数、一日、片手」
「ま、参りました」
「参った、でいいのかな?」光莉は首を傾げる。
一瞬の間の後、互いに笑い合う。
ふと気付いたように、美波は「あっ」と目を開き、眼鏡のテンプルを支えながら俯く。「す、すみませんでした。私の勝手な、も、妄想話で時間をとってしまって」
「いやいや、いいの全然。話を聞きたかったから。変なことかもしれないけど、楽しかったわ」
その言葉を受けて、美波はちらちらと光莉を見る。「そ、その……またもしお会いできたら、こ、今度はミステリーのお話が出来たりしたら、う、嬉しいです」
「うん。そうね、是非しましょ」光莉は軽く頷き、手を上げた。「じゃあ……またね」
美波はそれに深い一礼という形で返した。見上げた顔はさっきと変わり、嬉々としたものになっていた。その喜びは足取りの軽さにまで良く影響していた。
そのまま、コインランドリーの中へと戻っていく美波。
光莉はその後ろ姿が見えなくなってから、少し視線を落とす。軽く微笑むと、再び家路へと向かう。
ポケットからスマホを取り出し、インターネットを開く。検索バーにタッチし、下から出てきた文字盤に打ち込んでいく。
「近くの図書館、っと」
そして、検索ボタンへ親指を運んだ。