4.怪しき姿勢について
「あっ」
光莉が大きく眉を上げて、また大きな声でそう言ったのは、二人が元の場所に戻ってから、五分足らずのことであった。光莉の目線は、スマホの画面にまっすぐ向いている。
「おっ、どうした?」片桐が心配そうに見つめてきた。
「あっいや、さっきの」
洗濯機の前の話はもう済んでいた。だから、「ああ、それね」とだけ言って、片桐は酒を静かに飲んだ。
「どうでしたか?」代わりに美波が反応した。
「知り合いから返事が来て。電話は難しいけど、文面でのやり取りならOK、だって。今なら連絡取れそうよ」
光莉は顔を上げてそう伝えると、美波は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そうですか、よかった」美波の表情が真剣そのものに変わる。「では、早速なのですが」
「はいはい」両手を構える光莉。
「弐瓶さんの現在の主なお仕事内容について、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ちょーっと待って下さいねぇ」指先を動かし、打ち終え、送信すると、ほのまま止まる。少しすると、光莉は眉を動かした「ええっとね……今は、総務部で、社内事務関係のことを中心にやってるみたい」
「てこたぁ、社内机で黙々とこなすお仕事に就いている、ということね」
片桐は言葉を補うように呟いた。どこか嫌味ったらしく聞こえるのは気のせいだろうか。
「となると、かつては営業マンだったのに、今は内部事務をしているわけですね」
「あっ、確かに」弐瓶さんがついている業務が大きく変化していることに気づかされ、光莉は思わずそう呟いていた。
「ちなみにその部署にはいつ頃から在籍しておられるのでしょう?」
「ええっと……」光莉は虚空を見上げ、少しすると、指先を動かした。「七年前からだって」
「成る程」美波は小さく頷くと、「次、よろしいですか」と続けた。
「どうぞどうぞ」
「お仕事の時には必ず、猫背になっていたのでしょうか。例外と言いますか、猫背になっていなかった瞬間を目撃したり、なんていうことはなかったでしょうか」
「ええっと……」早打ちを決める光莉。「あっ来た。一応はあったみたい」
「例えば?」
「例えば……トイレに入った時、背筋を伸ばしていたのに、他の人の姿を見て急に猫背にしたりしてたって。けど、人前にいる時には必ず、だったみたいよ。なんなら、休日出勤の時でさえ猫背だったって」
「ん? でも、カフェで見かけたのは、お休みの日だったんだよね?」
片桐の指摘に、光莉はコクリと頷いてみせた。
「つまり、背筋を伸ばしていたのは休日だったから、というわけではない……と」美波は呟く。
「じゃあ、仕事が関わっているから、猫背に……けど、仕事だからってなんで猫背にしているんだろう」
「うーん……理由が見えないな」片桐は眉間に皺を寄せ、首の後ろをかいた。
「もう少しだけ質問を」美波は問いかけを続ける。「弐瓶さんがお勤めされている会社では、会社でイベントのようなものはございますか」
「イベント?」
「例えば、飲み会ですとか」
「ああ、そういうのは一応あると思うよ。あまり多くはないかもだけど」
「そういったものに、弐瓶さんが参加したりは?」
「ちょーっと待ってね……いや、全部断ってたみたい。参加したのを見たことないって」
「じゃあ、猫背なのは仕事ではなく、会社に勤めている人間だから、か」片桐は片方の口角に皺を寄せた。
「つまり、猫背の理由は人間関係に隠されている、ということですか」
光莉の言葉に、片桐は「ああ」と頷いた。「そう考えると、カフェの相対していた人物は、会社の人間ではないかもしれないな」
「そうですね……」迷宮に迷い込んだような感覚を覚える光莉。半分心ここに在らずのような口調だ。
「会社には決まった制服のようなものはございますか?」美波は質問を続ける。
光莉は文字でやり取りを交わす。「いや、決まった服は無いけど、女性の場合は希望すれば、支給はしてくれる。男性は無いんだけど、みんな私服って感じじゃなくて、例えばカジュアル系のスーツだったりで、収めてるって」
「例えばなのですが、社員の方であれば身につける男女共通の何かはありませんでしょうか」
「共通……あっ、そういえば社員証があるわ」
「社員証?」美波は食いつき、光莉へ身を寄せる。
「顔写真と部署と名前が入った、まあ名札的なものだよね」
「それはどういったものなのでしょうか」
「首からかけるタイプの。まあ想像すれば多分みんな思いつくような一般的なもので、別にこれといった特徴は無かったはずだけど」
「その社員証をかけるとぶら下がるような形になると思われるのですが、それはおおよそどの辺りで、位置が落ち着くのか分かりますか」
「ええっと……確かぁ……」首を曲げ、胸元を見る光莉。
さらに寄る美波。「みぞおちよりも少し高めの位置ですか?」
光莉は自分で位置を合わせ、「うん。そうだね。その辺だね」と応える。
「あっ、失礼しました」美波は急に我にかえり、身を引いた。
「いや、全然」光莉はそう返した。
それを見て、傍らでにやついている片桐であった。
「けど、よく分かったね、浜音さん」
「ええ、まあ。なんとなくですが」
美波は神妙な面持ちで頷いている。それは、もう既に何かに気づき、ある程度こうではないかという道筋が見えている様相であった。
「続きの質問、よろしいですか?」
「うん、どうぞ」
「その先輩が転勤となったのは、確か、七年前でしたよね?」
「ええ」
「それから今日に至るまでに、弐瓶さんが一定期間、会社を休んでいたことはありませんでしたか?」
「え?」光莉は驚きの顔を浮かべる。が、すぐに「あぁ」と我に帰り、「ちょ、ちょっと待ってて」と指を動かす。
「あっ。えっと、五、六年前に通勤途中で車の事故に遭ったらしい。それで、頭を怪我してしまって、少しの間休職していた時期があったらしい」
「成る程。やはり、そうでしたか」
光莉は「あっ」と、「知り合いが勤める前のことだから、あくまで人から聞いた話だけど」と付け加えた。しかし光莉の言葉など、美波の耳にはもう届いていない様子。
「最後に、お知り合いの方とその先輩の背の高さについて教えていただけますか?」
「えっと……うん、知り合いは私と同じくらい。で、先輩はすらっと伸びてて高くて、弐瓶さんとほぼ同じ……えっ、ていうか今、最後って言った?」
美波は微笑んだ。
「もしかして」片桐は問いかける。「何か分かっちゃったり?」
「一応は」
前のめりになる光莉。その姿を真っ直ぐ前から、美波が「とはいえ全ては」と眼鏡のブリッジを上げた。
「あくまで、私の推論ですが」