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もう泣いてもいいですか?

作者: 忍忍

01

 「もし生まれ変わったとしても、俺はまた君に会いにいって、また君に恋をする。」


02

 私は幸せだ。

 とおるとは高校の時から付き合って、大学は別々だったが、休みを合わせて旅行に行ったり、バイト終わりに遅くまで電話をしたりとお互いの寂しさを埋め合った。

 社会人になると同時にそれぞれの親へ挨拶をしに行き、まだまだ半人前同士ではあるが婚約を済ませ一緒に暮らしている。


 私は幸せだ、幸せだった。


 彼の体調が崩れ出したのは夏の終わりだった。


「ごめんね、大事な時期に体壊してばっかで」

「大丈夫だって、きつい時くらい私にどんと甘えなって」


 彼は申し訳ないと何度も謝っていた。

 私も、気にしないでと何度も応えた。


 彼の体調は良くならなかった。


 熱が下がらず、ひどい時は会話をすることも難しいようで、見かねた私は病院に連れて行くことにした。


 検査の結果は異常なし。

 風邪か何かにやられてるとのことだった。でも、そんな風には見えない。彼の体調は崩れたまま、年を越した。


 仕事と彼の看病の毎日だった。少し体はきつかったが、また彼に笑ってほしい。また一緒に出かけたりしたい。


 その思いで日々に追われていた。


「ごめんな、俺のことはもう気にしなくて大丈夫だから、友だちと遊んできなよ」


 高熱にうなされて、まともに喋れないくせに、こんな時まで私を気遣ってくる。そんな優しさが私には辛かった。


「明日、お義父さんたちが来るんだって。二日程、うちに泊まるみたいだよ。よかったね!私も休みが取れたから一緒にいるからね」


 私にできることはもうないのだろうか。彼の看病も仕事も何一つ苦ではない。でも、彼が元気になることが一番の望みなのに、それだけが一向に叶わない。


 お義父さんたちが来てくださった二日間は、たくさん笑って、穏やかだった。病院へ入院することも視野に入れるとのことで、回復するためにできることをみんなで探そうと話し合った。


 私よりも、ずっとずっと不安なはずなのに。

 お義父さんもお義母さんも、そして透も。


 みんな強いなぁ。


 それからまた二人での生活が始まった。彼の体調は波があるらしく、調子がいい日は普通に起き上がって会話をするくらいなら平気そうだった。


 そんな彼の調子がいい日のことだった。


「なぁ、もし生まれ変わったら何したい?」


 いきなり透に尋ねられ、少し胸が痛んだ。


「生まれ変わり?また女の子に生まれたいかなー」


 心の中の不安を悟られたくなくて、少し口調が早くなった。


「そっか、もし生まれ変わったとしても、俺はまた君に会いにいって、また君に恋をする、なんてちょっとクサすぎたかな」


 胸の痛みが強くなる。

 ずっと心のどこかにある不安。


 透はこのままーーーー。


「ほんとにー?透、大学の時ゼミの子に告白されてちょっと揺らいだことあったくせにー」

「え?そうだっけ?そんなこと、、あったか?」


 透がいなくなる、そんなこと考えたくない。透がいない毎日を私は笑って生きていく自信がない。


「覚えてないの?大喧嘩したじゃん、懐かしいね」

「そう、だったっけ?」


 だめだ。私が不安になったら、透に伝わってしまう。私が元気でいないと。病院では風邪だと言われたけれど。おそらく、透のこれは風邪ではない。


 でも、きっと治る。透がそんなわけもわからない病気にかかって、ましてや治らないなんてこと起きるはずがない。


 私にできること、いつか治る日を信じてひたすらに隣にいること。


 私は彼のとぼけた顔に呆れながらも静かに決意する。


 私たちはきっと大丈夫。


「ていうかさ、ごめん。俺大学なんか行ってたっけ?」

「え?」


 もし生まれ変わったら、私はまたあなたの隣に行きたい。あなたが見つけてくれるまでずっと待ってる。


03

 一過性全健忘。


 透はそう診断された。

 あまりにも馴染みのない病名だった。一定の期間を過ぎると、特定の記憶を失ってしまうと言う病気だそうだ。


 この半年間でわかっていることは、透の記憶の中から大学に通っていたことが断片的に失われているということだ。


「大丈夫だって、一時的なものだと先生も言ってたし、すぐに思い出せるよ」

「んー、そう言われてもね、君と行った場所やもらったものとかは覚えてるんだけどさ、何を忘れているのかがわからないからいまいちピンと来てないんだよな」


 透は思いの外、平気そうではあったが、私は気が気ではなかった。


「一応、来週から入院ってことになるから、父さんや母さんにも伝えておかなくちゃな」

「私がやっておくよ、任せておいて!」


 命に関わるような重たい病気ではなかった。

 でも、記憶が消えていく。


 想像することもできなかった。


 大切な人に忘れられてしまうかもしれないこと。大切な人たちのことを忘れてしまうこと。

 それがどんなものか、今の私には想像することもできなかった。


 そして、日は過ぎていき、あっという間に彼が入院する日を迎えた。拭いきれない不安とともに透と病院を訪れ、手続きを済ませていく。


「何かあったらすぐに連絡してね?遠慮なんかしちゃだめだからね?」

「うん、ありがとう。父さんと母さんにもよろしく言っておいてほしい」


 透がこれから過ごす病室を後にしてから、どうやって自分たちの家に戻ったのかよく覚えていなかった。それくらい、不安で頭がいっぱいだった。


 私は覚えていてもらえるのだろうか。

 私のことを忘れてしまった後、私のことを受け入れてもらえるだろうか。


 一人になると、不安に押しつぶされてしまう。その日の夜、私は初めて一人でお酒を浴びるように飲んだ。


 そして、透が入院して1ヶ月が過ぎた頃、私が最も恐れていたことが起きた。


「やっほー、今日は体調どう?透の好きなプリン買ってきたよ」

「え、あ、はじめまして。もしかしてお見舞いに来てくれた方ですか?」

「えっ?」


 私はこの時どんな顔をしていたのだろう。


「あれ?もしかして勘違いだったかな?俺のお見舞いじゃなかった?」


 透は少し不安そうな、そして困った顔でこちらの様子を伺ってくる。


「あ、えと、はい、お見舞いです。私のこと、分かりませんか?」


 私はこの問いかけを後悔した。


「えーと、ごめんなさい。俺記憶飛んでるみたいでさ。お友だちかなんかかな?」


 透は歯切れが悪そうに残酷なことを口にしていく。


「私は、あなたの恋人なんだけど、高校の時から付き合ってて、大学は別々だったけど、社会人になって、今一緒に暮らしてて、えっと、もしかして、私のこと忘れちゃったの?」


 自分の口から出たその言葉は、そのまま私の心に傷を負わせた。今まで二人で過ごしてきたものを、透は忘れてしまったのだ。二人の思い出が、私一人だけのものに。


 私は彼の返事を聞けなかった。気がつくと彼の病室を飛び出していたからだ。駐車場に停めた車の中で人目も気にせず泣いた。


 泣いて泣いて、泣き叫んではまた泣いた。


 私はきっと期待していたのだろう。

 私のことは忘れないだろうと。


 だが現実は、ドラマのように都合よくいってはくれなかった。


 この何ヶ月か何度も何度も、不安になった。

 この状況を全く予想しなかったわけではなかった。


 それでも、耐えられなかった。


 私、もう透の隣にいられないのかな。

 今の彼に私は必要ないのではないのか。

 これまで築いてきたものが全て否定されたような、そんな感覚が私を襲った。


 それでも、私は透のことが諦められなかったのだろう。透のことを愛していたのだろう。


 次の日も私は彼の病室を訪ねた。

「こんにちは、昨日はごめんね。急に出て行ったりして。改めて、私は透くんとお付き合いをさせていただいてます。いきなりこんなことを言われても困るとは思いますが、これから少しずつでいいので、私たちのことを、私のことを話していくので知ってください」


 今思えば強引だったと思う。我ながら、余裕がなかったなぁ。


 この日から私の戦いは始まった。大好きな彼に、もう一度好きになってもらうために。


 私のココロは少し歪に凹んだけれど、それでも前を向いていこうと決めた。


 私のために。私がそうしたいから。


「私、大丈夫だから。透くんが私のことを忘れてしまっても私がちゃんと覚えてる。全部。何度忘れても私が覚えてるから」


 カッコつけたくせに、私の目は涙が溢れていて、また彼は困ったように笑っていた。


04

 透の記憶は残酷に大切なものを失っていく。


 私が透の中から消えて二週間が経とうとしていた。


 あの日から私はほとんど毎日病室を訪ねては二人で行った時の写真や、メールでのやりとり、スケジュール帳に書いた約束など、とにかくたくさん話した。


 透の気持ちを慮ってあげられるほど余裕はなかったのだろう。どんな気持ちで私を迎え、私の話を聞いていたのか、怖くて想像することを辞めていたのだと思う。


「そういえば、今日はお義母さんが来ていたみたいだね。ゆっくりお話しできた?」


「え、あ、うん。焦らずゆっくり思い出していけばいいって言ってもらえたよ。えと、その、ごめんね。正直まだ全然思い出せてないんだけどさ。君からの話を聞いてると、俺ってすごく大切に思ってもらえてるんだなってわかって、それなのに悲しませてしまってる。ごめんね」


 やっぱり透は、優しい。

 盲目的なのかもしれない。

 それでも、以前と変わらない優しさに少し安心した。


「いいんだよ。私がしたくてやってることだし。焦ってほしくてやってるわけじゃないから。私の方こそ、ごめんなさい。焦ってるのは私だよね」


 私たちは戻れるのだろうか。

 またあの家に二人で帰れるのだろうか。


「あの、俺、思い出すから。ちゃんと君のこと思い出すよ。だからそんな顔しないで」


 どんな顔してたかなんて、鏡を見なくともわかる。


「うん、のんびり待ってる!」


 精一杯の強がりと、絞り出した言葉だった。


 帰り道、ふとスマホの写真を眺めているとある写真に目が止まった。


 クリスマスや誕生日ではなく、なんてことはないただの平日なのに彼がいきなり大量のプレゼントを買ってきた時の写真だ。


 あげたくなったから買ってきたそうだ。無駄遣いしないでと怒りながらも嬉しかったのだろう、写真の中の私たちはとてもいい笑顔だ。


 だめだな。

 ここのところ泣いてばかりだ。

 これじゃまた彼に心配をかけてしまう。

 

 笑っていよう。

 私たちはよく笑う二人だったから。


「こんばんは!ごめんね、仕事が長引いてしまって。お詫びにプリン買ってきたよ」


 ちゃんと笑えていたと思う。

 これ以上、情けないところは見せたくない。


 でも、私の決意はまたすぐにーーーー


「あ、こんばんは。えっと、俺のお見舞いですか?ごめんなさい、ちょっと記憶喪失みたいなのになっちゃって。すごく失礼だと思うけどおともだちだった人、ですか?」


 神様は私たちにどんな恨みがるのでしょうか。私はそんなに罰当たりなことを望んでいるのでしょうか。


 ただ大好きな人と一緒にいたい。

 また彼の隣で一緒に笑っていたい。


 それは、そんなに難しいことなのでしょうか。


 透は私のことを忘れていた。


 透が私のことを忘れた日から、たった二週間後の出来事だった。


「あの、やっぱり俺の知り合いだよね?ごめんなさい。覚えてなくて、よかったら話してもらえませんか?」


 呆然とする私に、透は困ったような笑顔で優しく問いかける。


「あ、あの、私は、その」


 言葉がうまく繋がらない。全身が震えているのがわかる。

 私はあなたの恋人です、そう言うだけでまた始められるのに。

 怖くて悲しくて、寂しくて。

 心が折れそうだ。


「もしかして、昨日も来てくれました?いや、あのほら、この写真!君でしょ?俺と一緒に写ってる人。それにこのノートも、アルバムも。今日目が覚めたとき、自然とこの写真たちに目が行ってさ、きっと大事なものだって思ったんだよ」


 透は優しい声で私をなだめる。

 思えば変な構図だ。

 入院してる透が、お見舞いに来た私に優しくしている。

 これじゃ、私は負担になるばかりだ。


 昨日の私たちが、今日の彼の中にもういないとしても。

 こうして透は、覚えていない思い出から、私にたどり着こうとしてくれている。


 だったら、私にできることは


「はい。はじめまして、ではないですけど、改めて。はじめまして、あなたの恋人です。私はあなたのことが好きです。だから、慌てないでゆっくりでいいです。また今日から仲良くしてください」


 ちゃんと喋れてただろうか。

 涙で見えなかったけれど、ちゃんと透に届いたかな。

 変な日本語になっていた気もする。

 でも、それでも伝えなきゃいけないと思った。


 私にはあなたが必要だということ。

 あなたには私がいるということ。


 大丈夫。透がまた笑ってくれるなら。

 私は何度だってあなたの前で、初めての挨拶をする。

 何度だって恋人になる。


 その日から彼と私の”はじめまして”は、数えるのも嫌になる程繰り返された。


05

 私の心は憔悴しきっていた。

 彼に会うたび、忘れられてしまうことに慣れていく。

 

 どうせ、この会話も忘れられるんだろう。

 私と過ごした時間も忘れてしまうのだろう。

 こんなんじゃ、彼の帰りを待つ資格なんてないよなぁ。


 もう、耐えられない。


 この二年近く、私は彼の入院する病院に通い詰めた。

 ”はじめまして”を交わし、仲良くなって、また”はじめまして”を繰り返す。


 彼の記憶は二週間経つと綺麗にリセットされる。

 昔、彼とそんなドラマを観たことがあった。

 その時は、記憶がなくなる女の子に対して何度も何度も話しかけに行く男の子に感情移入し、二人でボロ泣きした。

 

 こんなにも尊い恋物語があるんだ、と。


 明日はまた私たちが”はじめまして”を交わす日だ。


 ちゃんと笑えるかな。

 彼はいつも困ったように笑いながら、私に優しい声をかけてくれる。


 それに応えられているのだろうか。

 彼の優しさを受け止める資格があるのだろうか。


 同じことを何度も自問自答する。

 

 答えなんか出ない。


 誰か、彼を救って。


 そして、私を助けて。


 次の日、私は病院に行けなかった。

 これ以上、透に関わっちゃいけないと思ってしまったから。

 いや、それは言い訳だろう。

 透の病気を理由に、自分が楽になりたいだけだ。


 最低だな、私。


 休みの日に病院に行かないのは、透が入院してから初めてだった。


 部屋で過ごすときは、いつも透に必要なものや見せたいもの、渡したいものを準備するばかりで、自分の時間をゆっくり過ごすのはいつぶりかわからなかった。だからだろうか、何をしたらいいのかわからない。


 なんとなくスマホを見ると、どうしても二人で過ごした思い出をなぞってしまう。


 本を読もうかな。

 我が家にある本は、透が私のために買ってきてくれた本ばかりだ。

 いつ買ってきてくれたか。

 その時どんな話をしてくれたか。

 全て覚えている。

 私の周りには、こんなにも透の面影が溢れている。


 幸せだったのに。

 満たされていたのに。

 今はその事実が、たまらなく辛い。


 その次の日も、またその次の日も。

 私は病院に行かなかった。


 透のお義母さんからは何度か着信があった。

 仕事が忙しいからと嘘をついて、逃げた。

 日に日に自分のことが嫌いになる。


 もう、会えない。

 自分で決めたはずなのに、涙が止まらない。

 涙が溢れるたびに、彼への愛を改めて実感する。


 そしてまた自分のとった行動に嫌気がさす。


 私はもう疲れたのだ。


「今度一緒に食事でも行かない?」


 私が病院に行かなくなって、ひと月が経とうとしたある日のこと。

 職場の一個上の男の先輩に、食事に誘われた。私は今まで何度か、その先輩に誘われていたが、一度たりとも誘いを受けたことはなかった。

 そんな時間があるなら透に会いたかったし、彼との時間よりも大切なものなんてなかったからだ。でも、この時の私は誰かに縋りたかったのだろう。

 私たちのことを何も知らない誰かに優しくしてもらいたかったのかもしれない。

 そんな間違った優しさは、自分のことも傷つけることくらい、わかっているのに。


 先輩とのご飯は味がしなかった。

 会話はそれなりにできていたと思う。

 先輩は終始テンションが高かった、そんなことしか印象に残っていない。

 久しぶりに外でお酒を飲み、私もほんの少しだけ現実を忘れられたのかもしれない。

 そんなことはあるはずがないのに。


 帰り道、先輩は私に告げる。


「俺たちさ、結構相性いいと思うんだよね。この2年くらい一緒に仕事してて、お互いの性格とか癖とかも少しはわかってきてるし、今日だって初めてご飯に行ったのにめちゃくちゃ楽しかったしさ。だからさ、ずっと入院してて君を悲しませる男じゃなくて、手の届くとこにいる俺に君の隣にいさせてくれないか?」


 先輩は仕事はできるし、後輩の面倒見も良くて、女性陣からは結構人気なのだ。


 私は悩むふりをする。

 困ったふりをする。


「あ、今すぐに返事しなくていいからさ。いきなりこんなこと言われて驚いただろうし」


 先輩は少し慌てて続ける。


「俺は君を待たせたりしない。君を置いて行ったりなんかしない。俺はずっといるよ」


 先輩はいい人なんだろう。

 私にはわからないけれど、同僚たちが話していたことに少しだけ納得した。

 でも、先輩の言葉は届かない、私には響かなかった。


「先輩、私好きな人がいるんです。ずっと前から。ずっとずっと好きなんです。彼は私のことを忘れちゃって、何度関係を戻そうと思ってもすぐに振り出しに戻っちゃうんです。私自身この二年何度も心が折れました。もう会いに行っちゃダメだって」


 泣きながら、溢れるように紡がれる私の言葉に、先輩は耳を傾けてくれている。


「でもその度に、私たちが一緒に過ごした時間が私を解放させてくれないんです。私の心が、彼との未来を期待するんです。私は彼が好きです。報われない思いかもしれません、思い続けること自体間違ってるのかもしれません。でも、それでも私は彼の隣にいたい。彼と生きていきたいんです。だから、先輩とは一緒にいれません。ごめんなさい」


 私の目は途中から先輩の姿を捉えられてなかった。涙が溢れて止まらなかったからだ。

 その涙は先輩に対しての申し訳なさとかではなく、透のことを好きだと思う自分に心の底から安心したからだった。


 先輩は静かに笑って私に向かう。


「君は強い女性なんだろうね。だから、いつか寄りかかる場所が欲しくなったら言ってくれ。いつでも駆けつけるから」


 そして先輩は、私の前から夜の街に消えていく。


 明日は病院に行こう。

 またやり直そう。

 私にその資格があるか、わからないけれど。



 プルルル、プルルルーー


 ポケットのスマホが着信を告げる。

 透のお義母さんからだった。


「も、もしもしーー」


「こんばんは、元気にしてる?大丈夫?ちゃんとご飯食べてる?」


 お義母さんはまくしたてる。

 でも、それは心地よくて温かくて、とても優しい声だった。


「最近顔見せてないみたいだったから、心配でね。あなたには返し切れないほどに感謝してる。息子のこと今までありがとう。でもね、あなたの人生の大切な時間をこれ以上浪費させたくないの。だからね、あなたがもう決めたのなら、あの子に会わないって選択を私たちは受け止める覚悟よ」


 優しい声で、優しい言葉がスマホから響いてくる。

 でも、その言葉は私にはもう遅かった。


「お義母さん、私大丈夫です。もう、大丈夫です。また明日病院に行きます」


 これはどちらかというと、自分に対しての宣言だった。


 明日、どんな服を着て行こう。

 どんな顔をしていこう。

 化粧は彼が好きな薄目にしよう。

 彼の好きなプリンも買っていこう。


 正直、まだ怖い。

 もう私のココロは、跡形もないくらいぼろぼろだ。

 でも、また彼に会いたい。

 彼に私の気持ちを伝えたい。


 私は彼が好きだ。

 大好きだ。

 忘れずに、諦めずに済んだ。


 私はこの日のことを、一生忘れないだろう。

 そして、いつか彼が私の隣に戻った時に自慢するのだ。

 私がこれまでの人生で、一番人を好きになった日だ。私があなたに惚れなおした日だ、と。


 私はこの日2年ぶりにゆっくり寝れた気がする。


06

「こんにちは、お見舞いに来ました。はじめまして、ではないんですが、自己紹介が必要ですよね?」


私は病室に入ると精一杯の笑顔で彼に向かった。


「久しぶり、もう来ないかと思ったよ」


え?

今、なんて?


「1ヶ月前、君が来なくなった日。俺は多分また記憶を無くしてたんだと思う。でも、このノートがあった。君は知らなかったかもしれないけど、俺が俺のために、そして君のためにこっそり書いてたみたいでさ。君のことや君とのこと、覚えてない思い出のことなんかがびっしり書いてた。これを読んで君に会いたいって思った。でも君は来なかった。病院の先生に俺がどれくらいの間こうなってるのかを聞いて戦慄した」


彼は震えていた。

初めてみる、余裕のない彼だった。


「俺がこんなになって、それでも君は俺のそばに居続けてくれた。それはきっと辛かったと思う。俺が思うよりもずっと」


彼は泣いていた。

私も泣いていた。


「俺の病気、治るかわからないんだって。でも、でも一個だけ。こんだけ辛い思いさせて頼めることじゃないかもしれないけれど、一個だけわがままを言わせてくれないか?」


私は彼の言葉を待つ。

今すぐにでも駆け寄りたい気持ちを精一杯堪えて。


「俺に、君と生きる資格をください」


私は彼の胸に飛び込んだ。

声にならないたくさんの言葉を、彼の胸で涙に変える。


私、ここにいていいのだ。

私は、私たちは一緒にいていいのだ。


「俺、また忘れてしまうかもしれない。また君を泣かせてしまうかもしれない。それでも絶対また繋げるから、今日の俺が明日の俺のために、明日の君のために。一生かけて君のことを忘れない」


私はこの日報われた。


2年近くに及んだ私たちの戦いは、終わることなく続いていくのだろうが、それでも私は報われた。


私の大好きな彼が、私を見てくれている。

忘れない努力をしてくれている。


私が彼を愛し続ける理由は、その事実だけで十分すぎた。


誰がなんと言おうと、私たちは一緒に生きていく。

私たちなら大丈夫。


彼の告白は、私がこれまでしてきたどんな覚悟よりも強く私の背中を押してくれた。


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