第61話 箱柳苗生の世界
ピピピピ…。ピピピピ…。デジタル時計のアラームが鳴る。世界の電源が入れば、抱き枕とお別れを告げ、時計のスイッチを押す。朝6時。この暗い部屋から出る前に上着を着て、カーテンを開けて部屋に光を入れる。1つ伸びをすればリビングへ朝ご飯を食べに行く。
ここはタワーマンションの11階。街を見渡せる程の高い場所から箱柳苗生は毎朝街を見下ろしている。
「苗生。ちゃんとした服を着てから部屋から出なさい」
箱柳
「いいじゃん別に。パパいないし、ママだけなんだから」
「いつも裸でいるその悪い癖が、いざ彼氏の家とか他所で出ちゃって幻滅されちゃうわよ?」
箱柳
「大丈夫だよ。それに裸の方が朝寝起きがいいし。その位で幻滅されるような彼氏なんて要らないし」
箱柳は椅子にもたれ掛かりながら携帯の通知、SNSのチェックをする。今日もつまらないニュースばかりだ。よくもまぁ面白くもない記事を作る為に時間を使えるものだ。関心の無い箱柳にとってはやっていることが無駄なことにしか思えてならないようだ。
「学校はどう? 楽しい?」
箱柳
「全然」
「ふーん。学校に好きな人とか居ないの?」
箱柳
「好きな人?」
少し考えた。居るには居るが、やや複雑で辛気臭い。朝からそういった話題を口するのはやや気が滅入る。
箱柳
「居ないかなー。ブサイクばっかだもん」
面倒になれば居ないことにした。人生上手くいかない事ばかりだ。
「こーら、居ないなら居ないって言うだけでいいじゃない。ブサイクは余計よ」
箱柳
「だってホントのことだもーん。街でイケメンでも探して付いて行っちゃおっかな?」
「素性の知れない人について行っちゃダメよ? 何されるか分からないんだから」
箱柳
「冗談だよ。街で声を掛けられることはあるけど、ちゃんと断ってるから」
「そう。安心した。大事な一人娘なんだから、ママを心配させないでね」
箱柳はマフィンとコーヒーの軽い朝食を取れば支度をして登校する。エレベーターに乗れば1階のボタンを押す。1階に到着するまで暫く時間がかかる。
法助の事を思い出す。幼少の頃から法助はいつも虐められて仲間外れにされていた。1度気になって聞いたことがある。何故やり返さないのか? やられて悔しくないのか? 相手が憎くないのか? すると意外な答えが返ってきた。自分は相手が苦しいと自分も苦しくなる。虫だって、花だって辛い思いをすれば苦しいはずだ。描かれた絵だって破かれればきっと痛い筈だ。1度お菓子に描かれた絵を中身を取り出すために破いた時、悲しくて辛くて涙が出た。それを思えば、相手を想えば暴力で暴力を返すのが恐ろしくなる。そんな恐ろしい思いをするならばやり返す気にはならないと。箱柳はその時ただの意気地無しだと思った。つまらない、ただ虐げられるだけの存在。いずれ埋もれて誰にも意識されない雑草のような存在。箱柳は呆れて髪をなびかせ去ろうとしたその時…。
『…箱柳さんの髪、とても綺麗だね』
髪を、褒められた。目を丸くして法助を見る。箱柳は髪に自信があった。普段仕事で家に居ないパパが、帰ってくれば髪を撫でてくれる。綺麗な長い髪だと褒めて撫でてくれる。
パパに褒められればとても嬉しかった。その髪を法助が褒めた。顔や、外観ではなく、髪を褒めた。そこから少しずつ法助を意識し始めた。法助を少しだけ意識し始め、時が経つにつれそれは徐々に大きなっていった。しかし法助は皆に虐められている。理由はわかっている。無抵抗で優しい法助。慈悲深く相手を傷付けることを恐れる法助。相手を想い破られた絵にすら涙を流す法助。愚図。卑怯。泣き虫。意気地無し。
例えるなら想いはバームクーヘンだ。最初の生地の部分から始まり、徐々にそういった要素がクルクルと付与されていく。箱柳は悩んだ。どうやって法助と接すればいいのか。周りは法助を虐めている。なら私も法助を虐めなくてはいけないのでは? 男なのに。男の癖に。こんな情けないやつを少しでも意識した自分に呆れた。次第に法助を虐めるのが普通になってしまっていた。自分は、いずれ後悔するのではないか? 相手を好きだと想っているのに、こんな風に相手と接するしかない自分に。エレベーターが1階に到着する。
箱柳
「雨降ってたんだ…」
空は晴れていたが、水溜まりがあちこちに出来ている。水溜まりを避けるように歩けば学校へ向かう。あの日、法助が文化部で雲母に手を掴まれて泣いていた。いきなりどうしたのかと思ってじっと様子を観察していた。
法助
『僕は、僕は卑怯で、卑屈で、愚図で、ダサくて、な、泣き虫で、まるで…まるでダメなやつで…』
箱柳
「…」
法助
『…はぁ、はぁ、くぅ…。僕は、望んじゃいけないんだ。常磐さんと一緒にいる資格なんてないんだ…』
法助は情けなく涙を流していた。琥珀と一緒に帰る雲母を見て涙を流したのだ。雲母の為に流された涙。雲母を想い流された涙だった。
法助は虐められても決して涙を流さなかった。初めて見た涙だった。ボロボロと流される涙を見て、箱柳は【綺麗な涙だと思った。】法助の目から流れる涙を見て、箱柳の心が揺れ動いた。あの涙には相手を想う綺麗な愛が込められてる。箱柳はあの涙が欲しいと思った。法助が欲しいと思った。今までずっと想い続けてきた理由がわかった気がする。あの情けない法助の中には、素晴らしい世界がある。相手を尊び、想いが通じ会える世界がある。
箱柳は、自信のある髪を褒めて欲しいと思っていた。きっとそれが法助に伝わったから、法助は褒めたのだと。今まで自分の中で疑問に思っていた法助への想いは、確かな形となって形成されれば自然と体が動いていた。あの涙は自分の為に流されるべきものだったはずなのに、と。
箱柳
「…」
箱柳は水溜まりをじっと眺める。空を映している水溜まりの中には自分が映っている。サボテン。きっと私はサボテンなのだ。サボテンでは相手と触れ合おうとすれば傷付けてしまう。どうしてこうなってしまったのか。素直に法助の事を大事に出来なかったのか。
あの放課後の教室で箱柳は裸になり法助に抱きついた。法助は目を閉じて震えていた。きっと棘が刺さって痛かったのだろう。悪いことをしてしまった。今の自分が法助にキスをすれば怪我をさせてしまう。だから指に画鋲を刺して法助の頬から唇にかけてなぞった。何故そんなことをしたのか分からない。だがそうすべきだと思った。
箱柳
『そう。法助の罪。【無実の罪】だよ。私が罰として呪ってあげる。法助の心を永遠に穢してあげる。常磐と一緒に幸せになろうだなんて許さないから』
箱柳はずっと法助を虐めてきた。だから今更彼にとっていい人であろうなど不可能なのだ。どうすれば、法助に愛されるのか考えた。そして1つの答えが浮かんだ。
箱柳
『私だけを見て。虐められてる時も、幸せを感じてる時も、家に帰って寝る時も。私だけを想って』
法助には、自分を憎んで欲しい。永遠に虐げて欲しい。自分だけを見て欲しい。復讐して、好きな様に扱って欲しい。そこに、愛がなくてもいい。ただただ法助の中の想いをぶつけて欲しい。自分がやった酷いことを永遠に咎めて欲しい。法助には、その資格がある。権利がある。だから雲母を見ないで、私を見て。
法助
『箱柳、君が僕や常磐さんにした事を許してあげる。だから君の心の痛みに気付かなかった僕を許して欲しい。…どうだろう、僕達はここから初められないかな?』
それは、許されなかった。自分を憎むことは、許されなかった。法助は、尚も自分を許した。ダメだダメだダメだ。違うんだ。私が悪いんだ。だから、そんな風に許さないで欲しい。私は、後戻りは出来ない。法助を沢山傷付けてしまった。やめて、優しくしないで。
箱柳
「…バカ、みたい」
箱柳はその時のことを思い出せば涙ぐむ。法助は涙を流す箱柳を抱き締めた。どうしてそんなことをするんだ。こんなに悪い自分を何故、受け入れるんだ。激しく罵って、詰って、力任せに、乱暴に否定して、拒絶、しないんだ…。箱柳は、法助に許されてしまった。思惑は、見事に外れてしまう。心の中の棘が、折れてしまった。
そして抱き締められた。思っていた結果と違う結果になってしまった。それもそうだ。法助は昔から変わっていない。相手を憎むことをしない。傷付けることもしない。ならばこうなる事は予想出来た筈だ。
桐邑
「おはよ」
箱柳
「あ、おはよう」
箱柳は涙を軽く拭う。
桐邑
「どうしたの? 泣いてたの?」
箱柳
「あくびが出ただけだよ。泣くわけないじゃん」
桐邑
「そ。所であの話、どうなった?」
箱柳
「常磐さんの事?」
桐邑
「うん」
箱柳
「やるってさ」
桐邑
「ホントに? 身内を陥れる事になるのに、やるんだ。マジで狂ってるね」
箱柳
「本人がやるって言ったし。内容は伝えたよ」
桐邑
「法助なんかのどこがいいんだか。あの生徒会長もエグいよね。従姉妹の雲母さんのことが好きなんでしょ?」
箱柳
「…どこで聞かれてるか分からないから、そういう事言わない方がいいよ」
2人は学校に到着する。
法助に雲母を諦めさせて欲しい。生徒会長の琥珀から依頼があった。初めはなぜ自分なのか疑問に思ったが、直ぐにその答えがわかった。箱柳は法助を虐めている。ならば箱柳は問題のある生徒として誰かからの監視が付くのだ。生徒会長からすればそれは些細な問題だったが、利用価値があると自分を利用したのだ。
生徒会長は報酬に何が欲しいと言ってきた。そして法助が好きな事を伝えた。それを知れば意外そうな反応をしていた。向こうからすれば余程好都合だっただろうが。雲母を諦めさせて、自分の方に想いが行くように誘導させられるよう協力もすると言った。結果は惨敗だった。結局しくじった負け犬は傀儡としてこき使われている。自分とってはいい罰だ。きっと法助を虐めていた報いだ。教室に辿り着けば着席する。真向かいに雲母の背中がある。
箱柳
「…常磐さん。休みの日、行くよね?」
雲母
「…はい」
箱柳
「きっと、常磐さんは恨まれてると思うけど。彼等の協力が必要なんだ」
雲母
「…覚悟は、出来ています」
雲母と箱柳は会いに行く。学園長と琥珀の手によって転校させられた5人に協力を仰ぎに行く為に。法助を、琥珀の呪縛から解き放たなければいけない。それが今、箱柳が法助に出来る唯一の贖罪なのだから。




