第58話 トラップ×トラップ
琥珀は1人で自宅に帰る。あの1件があってから雲母は自分と一緒には居たがらない。無理もない。それに無理矢理一緒に帰る気もおきないのでそこは自由にさせる。
確かに衝動に任せて法助を蹂躙してしまった。密かに抱いていた想いが堰を切ったようにドロドロと吐き出され、感情のままに法助に向けてぶつけてしまった。だが過ぎてしまった仕方の無いことである。法助のような凡人が雲母と関わるようなことがあってはならない。ましてや恋愛関係だなんて。雲母のためにも必要な事だったのだ。雲母もいつかはそれを理解してくれるはず。
琥珀にはとても強い拘りがある。幼少の頃、機関車のオモチャを祖父にねだって買ってもらったことがある。祖父はこっちのオモチャの方が新しくてかっこいいと別の新幹線のオモチャを購入しようとした。だが琥珀は頑なにぐずって自分の選んだ方の機関車のオモチャを欲しがった。祖父が選んだオモチャの方が値段が高く人気もあった。しかし自分が気に入った機関車のオモチャを泣いてぐずるほど欲しがった。これと決めたものを頑なに執着する癖がある。欲しいものは絶対に手に入れたい。どんなに時間がかかっても、どんなに世間から受け入れられないものであっても、琥珀は決して諦めない。
琥珀
「…ただいま」
家は広く、ただいまと言っても声は誰にも届かない。食事の時に顔を合わせることはあるものの、両親は滅多に家に居ない。琥珀は自室に荷物を置けば制服を脱ぎ、ジョガーパンツとノースリーブに着替えれば庭に出る。腕立て50回、腹筋50回、懸垂20回をした後、2kmほど走ってくる。それを3セットすれば一日の運動は完了だ。
水泳部に所属していたが、生徒会長になってからは水泳部を退部してそっちに専念している。申し訳ないが今年は受験もある為、水泳に掛ける時間は惜しい。
琥珀
「蚊が出てきたな…」
パチっと露出した左肩辺りを叩く。手のひらに潰れた蚊と自身の吸われたであろう血がついている。指でピンと弾けば血をズボンで拭った。呆気ないものである。何億何千万年と紡がれてきた命が今自分の手のひらで潰えてしまった。こんなことになるなら初めから吸わなければよかったのに。最も蚊に後悔の念があるとも思えないが。あの蚊の如き凡人、水鳥法助に後悔の念があるのだとしたら、もう二度と雲母と関わることがないはずだが。
琥珀
「大人しく箱柳とくっついていたら良かったものを…」
自室にあるサンドバッグをドシッ、ドシッ、と殴りつける。あの時の感覚が忘れられない。人をあそこまで殴ったのは初めてである。サンドバッグとは違う感覚だ。殴っている、というより、自身の正当性を証明する為に相手の肉体を拳で打った、というのが正しかっただろう。あの時の自分は間違いなく正義であった。胸から沸き立つ甘く酔しれるような紫色の強い感情を思う存分法助に対して解き放った。
琥珀
「はあっ!!」
ドシンッ! 思いっきり蹴りつければサンドバッグはグッと大きく揺れる。
琥珀
「ふっ、ふっ…」
危ない。戻れなくなる。あの感覚をもう一度体感したいと脳が、心が求めている。自身にとってかなりリスキーな行いであった。法助は雲母とキスをした。琥珀の中では絶対に許されざる行いである。だが気に入らないからといって体罰を下すのは違反である。最悪自身の名に傷が付く恐れがある。穏便に済まされたのは寧ろ幸運だっただろう。琥珀にとっても、法助にとっても。
琥珀
「生徒会執行部に入りたいだと…? 何を考えている水鳥…。もし反旗を翻そうと企んでいるのなら、喜んでお前を僕の胃の中に招いてやる」
バシ、バシ、ズシンッ! とサンドバッグを殴り、蹴りつける。弾ける汗を手で拭う琥珀の顔は、再び来るであろう蹂躙の時を心待ちにする歓喜の表情に満ち溢れていた。
翌日の昼休み。
4人は文化部でお弁当を食べている。するとドアがノックされる。
「すいませーん」
銀子
「誰だ。名乗りやがれ」
「え?」
天響
「あ、大丈夫デス。とりあえず入るデス」
ガラッとドアが開いた。
「はじめまして。3年1組の鳥栖議子と言います。水鳥法助さんは居ますか?」
黒縁メガネにおさげの女生徒が入ってきた。
海鼠
「鳥栖殿ですー」
鳥栖
「あ、海鼠ちゃんがいる〜」
鳥栖は海鼠のほっぺをつんつんした。
法助
「水鳥法助は僕ですけど。何か用事ですか?」
鳥栖
「実は玉菊先生から生徒会執行部の奉仕作業を手伝うように依頼されてまして、水鳥君を連れて一緒に行くように言われました」
法助
「ええ!? 何故ですか…?」
鳥栖
「うーん、なんでも次の生徒会執行部に推薦する為にそういった仕事に従事してもらうつもりらしいです」
法助
「あ、ええ…? なんの相談も無かったんですけど…」
鳥栖
「まぁそんなもんですよ。奉仕作業に参加するので五限目は免除されます。後で授業の内容を誰かに聞いておいてください」
法助
「参ったな…。クラスに仲がいい人いないんだよな」
雲母が頭に過ぎったが、直ぐに選択肢から除外された。華山からノートを借りてみるか? まさに借りを作るみたいでなんだか気が引ける。
鳥栖
「え? そうなんですか…? うーん、どうしましょう」
天響
「隣のクラスですが、私が法助二等兵にノートを貸してやるデス。心配するなデス」
銀子
「おお、気兼ねなく奉仕して来いよ」
法助
「うう、なんだかなぁ…」
内心ドキドキしていた。あの生徒会長と鉢合わせするのではないか。また顔を見れば足が竦んで動けなくなるかもしれない。これは罠かもしれないが、どうやら避けて通れそうもない。法助は高鳴る鼓動を何とか抑えようと胸を握り閉め、来る試練に覚悟を決める。




