第50話 フラメント・ボンド
僕は傘をさしながら雨の中で抱き合う男女2人を見ている。片方は自分の妹。もう片方は見ず知らずの男…。
僕は妹の事は昔から大事にしてきた。両親から言われた。血の繋がった妹を大事にしなさいと。特に何も疑問に思うことなく、そうして日々を送っていた。妹は人懐っこく、自分の後をいつも付いてきていた。自分がおやつを食べれば妹もおやつを食べ、お風呂上がりに牛乳を飲めば妹も牛乳を飲んだ。妹が小学生低学年までは寝る時もいつも一緒だった。自分の腕を枕にすればスヤスヤと眠りにつく。自分の腕は鬱血してなかなか寝付けなかったが、幸せな気持ちがそれを遥かに勝った。
心には確かな繋がりがあった。妹が泣けば自分も悲しくなったし、妹が喜べば自分も嬉しかった。妹は毎日お兄ちゃん大好きと言ってくれた。僕も大好きな妹と、毎日ずっと一緒に居られると思った。だが思春期になれば少しずつ距離が開いてきた。
母親にも言われた。子供は成長すれば独り立ちするために、家族と心が離れていく。それは仕方のないことなんだと。僕も男だ。いずれは妹に彼氏が出来て、幸せな家庭を築いて、また新たな家族が出来る。自然な事だ。自分もそうすれば良い。その覚悟はあった。
款太郎
「…はぁ、はぁ、はぁ…」
款太郎の心は張り裂けそうだった。堪らず胸をぎゅっと握る。目の前で月姫が見ず知らずの男に【お兄ちゃん】と言った。
月姫
『…お兄ちゃん、お兄ちゃん、置いていかないで…? 私を、置いていかないで…? うう、えぐ、えぐ、私を、1人にしないで…?』
款太郎
「…はぁ、はぁ、うぐっ、うう、うあああっ…」
僕は、ここに居るのに。お兄ちゃんは、ここに居るのに、何故なんだ。款太郎は胸を強烈に締め付けられる感覚に膝をついた。
月姫
『…私、私、うう、ぐず、お兄ちゃんに置いていかれちゃったら、1人にされちゃったら、生きていけない…。お願いお兄ちゃん、約束して…? 【また明日って…言って…?】』
款太郎
「…はぁ、うぐ、あぐ、くそ、くそ…」
款太郎は地面をひたすら叩いた。バシャ、バシャと水溜まりが弾ける。僕はここに居るのに。お兄ちゃんはここに居るのに、何故その男がお兄ちゃんなんだ。
奪われてしまった。自分の妹を奪われてしまった。幼き頃から大切にしてきた妹の【お兄ちゃん】を奪われてしまった。あそこに居るのは月姫のお兄ちゃんなのか…? 違うだろ? 月姫のお兄ちゃんは、僕なのに。あの幸せな時間を共にしたのは、僕なのに。あんまりじゃないか。あんなにも大切にしてきたのに。月姫の、自慢のお兄ちゃんであろうとしてきたのに。こんなにも辛いだなんて。こんなにも切ないだなんて。もしあの言葉を自分が言われたなら、絶対に離さないのに。月姫を決して離さないのに。毎朝、毎晩、毎日一緒にいてやるのに。月姫を1人になんて、決してしないのに。自分にこそ投げかけられる言葉のはずなのに…。
款太郎
「…はぁ、はぁ…」
次第に動悸が落ち着いてくる。視線を戻せば2人は居なくなっている。どこか? 立ち上がり辺りを探す。コンビニで2人が休憩しているのを目撃する。款太郎はその様子をじっと見つめる。暫くすれば月姫とその男が出てきて、バス停の方へ向かう。妹はそのままバスに乗れば行ってしまった。男はこちらへ向かってくる。どうやら登校するつもりのようだ。
款太郎
「…おい」
男とすれ違う寸前に声を掛けた。
「…うん?」
款太郎
「…あんた。…月姫のなんなんだ?」
「月姫…?」
男はムッとした表情で返事をする。
款太郎
「月姫のなんなんだって聞いてんだよ!」
款太郎は男の胸ぐらを掴んだ。
「…おい、よすんだ」
款太郎
「答えろ!! 月姫のなんなんだ、あんた!!」
男は款太郎を払い除けた。
「…やめろ」
男から冷たい雰囲気が漂ってくる。これ以上強硬手段に出るのなら手を出す事も辞さないと態度で語っている。
「あんた冷静じゃないぞ。一旦落ち着いた方がいい…」
款太郎
「…」
款太郎の目からまた涙が溢れてきた。雨なのか、涙なのか既に判別も出来ない。款太郎は静かに涙を流した。
款太郎
「…月姫、は…。僕の妹だ…」
男はハッとして款太郎を見る。
「…月姫ちゃんの、お兄さんだったのか」
款太郎
「…あんたさっき、月姫と抱き合ってただろ…」
「…」
款太郎
「…彼氏なら、或いは仕方ないと思えたかもしれない。だが、月姫はあんたのことを…お兄ちゃんだって…」
「…」
款太郎
「なぁ、答えてくれよ…」
款太郎は男の両手の袖を掴む。懇願するようにその男に問いただす。
款太郎
「あんたは…月姫のなんなんだ…?」
「…」
男は答えなかった。兄と呼ばれ月姫を抱きしめた。月姫は自分にとってなんなのか。自分の中で月姫は自分の妹であるならば、或いは受け入れられたのかもしれない。
款太郎
「…答えてくれよ…。頼むよ…」
款太郎は虚ろな目で請い願うように項垂れる。目の前の月姫の兄は深い悲しみに暮れている。月姫が自分の事を兄と呼んだ。
「…月姫ちゃんの兄は…。あんただ」
款太郎
「…」
「…僕は自分の心の中がまだ整理出来ていない。月姫ちゃんがここまで僕を想うなんて予想出来なかった。月姫ちゃんにも、あんたにも悪いも思っている」
款太郎
「…ぐぅっ!」
悪いと思っている。そんな言葉が出るとは思わなかった。利用する為に近づいて、月姫を弄んだこの男から、そんな言葉が出るとは。
款太郎
「…はぁ、はぁ、あんた、なぁ!? 妹を持った気持ちが、わかるのかよ? 兄として、今まで兄妹を大切に思って来た気持ちがわかるのかよ!? 月姫は泣いてたんだぞ…!? あんたに向かって、お兄ちゃん、お兄ちゃんって…! 1人にしないで、置いていかないでって!」
「…」
款太郎
「巫山戯るなよ…! 涙を流すほど月姫を苦しめたのは、あんただ…! 僕に月姫を慰めることが出来るか…!? 僕が月姫を抱きしめる事が出来るか…!? なぁ、僕が今どんな気持ちなのか、わかるか!?」
「…」
款太郎
「…月姫のお兄ちゃんは僕なんだろ…? あんたじゃないだろ…? 僕が、月姫の傍に寄り添ってやれるならそうする。だが、僕じゃどうにもできないんだよ…。僕は…どうすりゃあいいんだよ…!?」
款太郎は降りしきる雨の中で心も顔もぐちゃぐちゃになりながら男に縋った。自分では妹を救う事が出来ない。その無力さ、虚しさ、悲しさからそのまま膝を折る。男はその様子をじっと見据える。2人は暫し沈黙する。
「…僕には、弟がいる」
款太郎
「…」
「…弟の名前は法助だ」
款太郎
「…法助…?」
「…先日弟が手酷く痛めつけられて帰ってきた」
水鳥法助は顔や鼻に包帯を巻いて空手部に顔を出した。誰かにやられたのであろう。華山を疑ったが本人も法助も違うという。
「犯人は生徒会長だ」
款太郎
「…な、何…? 琥珀のやつがやったのか…?」
「そうだ。常盤琥珀が法助を一方的に痛めつけた」
款太郎
「…あいつッ!」
款太郎は拳をにぎりしめる。自分の後輩を無惨に痛めつけたのは常盤琥珀。身内にあんな仕打ちをするだなんて許せるわけがない。自分の兄弟のことを思えば、憲助の立場になって考えてみれば怒りが湧いてきた。
「…話が逸れたな。月姫ちゃんの件なんだが、僕に非がある。あんたにも、款太郎さんにも辛い想いをさせてしまった。僕も弟を持つ兄だ。款太郎さんが月姫ちゃんを想う気持ちは痛いほどわかる。だから月姫ちゃんとはこれから毎日登校して、休日に誘われれば遊んでやろうと思う」
款太郎はそっと顔を上げる。
款太郎
「…月姫と、付き合ってやってくれるのか…?」
「…だが僕にも彼女がいる。だから月姫ちゃんには兄として接する。月姫ちゃんとはまだ日が浅く、僕の事をあまり知らない。だからお互いを良く知れば次第に離れていくかもしれない」
款太郎
「…何言ってんだよ! 二股になっちまうじゃないか! 月姫をまた泣かせる気かよ!?」
「…僕は款太郎さんと月姫ちゃんが思う程良い人間じゃない。それを含めて月姫ちゃんには僕を見てもらおうと思っている。…こんなやつがあんなに可愛い月姫ちゃんの彼氏になるなんて、款太郎さんも嫌だろう?」
款太郎
「…」
款太郎は考えた。確かにこの男の言い分は正しいかもしれない。自分もあんな出来事を目の当たりにして冷静さを著しく欠いていた。
款太郎
「…明日。うちの学校で話をしよう。校舎裏の非常階段の前で待っている」
「わかった。僕の名前は水鳥憲助だ」
款太郎
「…梵款太郎」
2人はお互いの名前を名乗れば別々の道へ歩んでいく。お互い自分の下に妹弟を持つものとして。
翌日。
款太郎
「来たな」
憲助
「おはよう、款太郎さん」
款太郎
「…生徒会長の話だったか。僕はどうすればいい」
月姫
「…」
月姫はじっと話に聞き耳を立てる。生徒会長。憲助はその話を聞く為に月姫に接触してきた。
憲助
「生徒会長、常盤琥珀が問題のある生徒に対して過度な処罰を行っていることを知っているな? その生徒達が今組織を組んで生徒会長を打倒しようと計画を企てている。そして僕は弟を痛めつけた報復をしたいと願っている」
款太郎
「…つまり生徒会長と繋がりのある僕に協力しろと、言うことか」
憲助
「そうだ。まだどういった計画なのかは定かじゃないが、下手すればあんたの身も危ない。最悪転校を余儀なくされる恐れがある…」
款太郎
「…条件がある」
憲助
「条件? それはなんだ?」
月姫は固唾を呑む。何を条件に協力するのか。妹にもう二度と近寄るな。妹にもう関わるな。そんなネガティブな言葉が頭によぎる。
款太郎
「…妹を、月姫を嫁に貰ってやってくれ!!」
月姫
「…え?」
憲助
「…は?」
款太郎
「頼む、このとおりだ!」
款太郎は憲助に土下座する。月姫も理解が追いつかず困惑する。次第に鼓動が激しくなっていけば顔が紅潮していく。
憲助
「おいおい、ちょっと待て!」
款太郎
「あんたなら、きっと月姫を幸せにしてやれる。弟を想いやる、その気持ちがあればきっと月姫の事も同じように大切に出来る! あんたならきっと、妹を任せられる。頼む、妹を貰ってやってくれ」
憲助
「款太郎さん、やめるんだ! 頭を上げてくれ! 昨日その事について話し合ったじゃないか!」
憲助が款太郎を引き起こそうとする。しかしそれは払い除けられまだ土下座を続ける。
款太郎
「バカヤロウ! 冗談なんかじゃないぞ! 僕は本気だ! 人生で初めて頭を下げるんだからな…。これからの人生、土下座をすることなんて恐らくないだろう。…絶対に、絶対に譲らないぞ」
憲助は困った表情をして頭をポリポリとかいく。辺りを少し見回す。すると校舎の物陰に誰かがいるのに気付いた。
憲助
「…誰だ!?」
憲助がすぐさま移動すると、両手で胸を抑えて顔を真っ赤にしている月姫が居た。
月姫
「…はぁ、はぁ、憲助、さん…?」
憲助
「…月姫ちゃん…!?」
款太郎
「月姫!?」
款太郎も駆け寄る。
款太郎
「こ、こんな所で何やってるんだよ!?」
月姫
「…わ、私のセリフだよ! お兄ちゃんこそ何やってるの!?」
款太郎
「ぼ、僕は、憲助さんと大事な話をしてるんだ。月姫には関係ないぞ」
款太郎は両手を組み、そっぽを向く。
月姫
「…関係ないこと、ない…」
款太郎
「確かに、関係ないことはないか…」
憲助
「款太郎さん、話が飛躍しすぎている。月姫ちゃんも困っているじゃないか…」
月姫はモジモジしだした。月姫は照れながら憲助を上目遣いで見つめた。
月姫
「…わ、私は…憲助さんと結婚しても、いいかも…」
憲助
「…月姫ちゃん、君まで何を言っているんだ…」
異様な状況に頭がついていかず目眩がしだした。
款太郎
「…憲助さん。月姫もこう言ってるんだ。男ならバシッと決めてくれよ? …妹を頼むぞ?」
月姫
「憲助さん、不束ものですが、よろしくお願いします、ね…?」
憲助は顔をしかめた。片手を腰に当て、両目をぐっと押さえる。
憲助
「…はぁ、なんて兄妹なんだ…」
その後、憲助と月姫の結婚は一旦保留になる。2人の今後の付き合い方を考えることを条件に協力関係になってくれることで話は落ち着いた。その事で憲助と現在付き合っている彼女との間で修羅場が繰り広げられるのだが、それはまた別の話。




