後編
このような「あるウイルスを利用して別のウイルスをやっつける」という試みは、ウイルス学の分野では、すでに広く行われていた。先述のように、しょせんウイルスは遺伝子とそれを包み込むカプセルに過ぎず、ウイルス遺伝子の一部に手を加えて組換えウイルスを作ることも、それほど難しくないからだ。
実際、かつてアフリカで大流行したエボラ出血熱の場合。VSVという安全な――引き起こす病気は全く異なるが遺伝子的には少しだけ近縁の――ウイルスをベースにして、エボラの抗原性を示す遺伝子を組み込む、という組換えウイルスワクチンが開発されてきた。研究室レベルでの動物実験から始まり、臨床試験でも安全性や有効性が確認された結果、すでに実際のパンデミックでも用いられたという。
俺の専門であるCウイルスは、エボラVSVのケースと違って、Hウイルスとは遺伝子的に近縁でも何でもない。
だが、組換えウイルスの研究では、例えば「宿主側の免疫遺伝子を組み込むことで、ウイルスの感染時の免疫効果をいっそう強くする」なんて研究もあるくらいだ。ウイルスに組み込む遺伝子は、ウイルス遺伝子でなくても構わないくらい、もう何でもアリなのだ。
それを思えば、レトロウイルスとはいえ、Hウイルスも一応はウイルス。その一部をCウイルスに組み込むのは、比較的簡単な話に思えた。
また、レトロウイルスの『自身の遺伝子を宿主の遺伝子に組み込む』という機構。それには関わらない遺伝子だけを研究に用いていたから、俺は、あまり怖くも感じていなかった。
学生時代、大学でCウイルスの研究をしていた頃。
器具の準備・洗浄や研究室の掃除などは、自分たちで行うことになっていた。ウイルスを扱っている以上、何よりも滅菌することが大切であり、ひとつ準備するだけでも、かなりの時間がかかる。専用の機械が必要であり、それを各自が勝手に使うわけにもいかず、当番制になっていた。
このような、実験そのものとは別の部分で、少し不自由さを感じていたのだが……。
研究機関に雇われてからは、そんな下準備や後片付けからは解放されるようになった。研究員とは別に、実験道具を洗ったり用意したりするスタッフや、部屋全体の清掃係などが雇われており、彼ら彼女らに任せておけるようになったからだ。
研究員は、純粋に研究に専念できる。素晴らしい環境だ。そう感じて、嬉々として組換えCウイルス開発に励んでいた。
あんなことが起きるまでは。
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今。
世界は滅亡の危機に瀕している。
あの恐ろしいウイルスが世界中に広まったせいで。
誰かが意図的に外へ持ち出した、とは思えない。かといって、うっかり流出させるようなミスを、ウイルスの専門家が行うとも考えられない。
だから俺は、研究員以外のスタッフ――専門の教育を受けていない者――が廃棄処理を誤ったのだ、と想像しているのだが……。
そんな原因究明は、もう意味がない。どうせ世間からは、責任転嫁だと思われ、俺たち研究者が非難されるのだろう。
ああ!
俺は平和のために、組換えCウイルスを開発しているつもりだったに。
大げさにいうならば、人類救済の種になり得る、とさえ思っていたのに。
それがまさか、逆に、人類破滅の種になるなんて……。
(「ウイルスは拡散していく」完)