少しでも気分転換になればいいなと思う次第です
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この山で暮らし始めて以来、最大の危機に直面し、サイコ戦士が率いるパーティーから逃れるべく全速力で森を駆け抜けるサゲンは、後方から追ってくる五人分の気配を察知して、小さく舌打ちした。
柔らかい草地や、土の上を進んでいるうちは、どうしても跡が残ってしまう。どこかで岩壁を登るか、河原へ行って砂利の上を移動するかして、なるべく痕跡がつかないよう進むしかない。
さてどこを目指したものかと考えていると、慣れ親しんだ匂いを嗅覚が捉えた。
一嗅ぎしただけでその匂いが誰のものか理解したサゲンは、背後から迫りくる追っ手のことも、逃げ道を確保することも忘れ、匂いのする方へ足を向けた。
草と土を踏み散らかしながら全速力で木立ちの間を走り抜け、住処にしている洞窟がほど近くなってきたところで、草叢の中で棒きれを振っている牛型の少年の姿が視界に飛び込んできた。
「ウゲン!!」
ふいに名前を呼ばれた少年は、ビクッと肩を震わせて振り返る。息せき切って走ってくる父親の姿を確かめると、無邪気な笑みを浮かべた。
「あ、父ちゃん。パトロール終わった?」
なんとも呑気にそんなことを聞いて来るが、サゲンにしてみればそれどころではない。
「お、お前、どうしてこんな所に……」
いくら父親譲りの怪力の持ち主とはいえ、まだ洞窟の入り口にある岩を動かせるほどではないはず。
二の句が告げないほど動揺している父親を見て、息子ウゲンは気まずそうな表情で後ろ頭を掻いた。
「えーっと、実は秘密の抜け穴があってさ。たまにこうやって外へ出てるんだ。
今はね、素振りの練習してたトコ!!」
不自然なくらい明るい調子で言って、ウゲンは再び棒を振って見せる。
恐らく、父親と一緒でない限り洞窟の外へ出てはいけない、という絶対のルールを破ったことを誤魔化そうとしておどけているのだろう。
考えてみれば、サゲン父子が転がり込む前から兎の老女はあの洞窟に棲んでいるのだから、岩を動かさずとも外へ出られる抜け道はどこかにあるはず。ウゲンはそれを見つけたのだろう。
そして、余裕のある態度からして、父親の言いつけを破って外へ出るのは、これが初めてではあるまい。
魔王城にいた頃は、悪さをしたウゲンを怒鳴りつける、なんてことは日常茶飯事だった。
かといって頭ごなしに叱りつけて子供の自由を制限するのも良くないから、大概は素直に謝りさえすれば大目に見てやっていた。
だからウゲンは今回も、いつも通り拳骨と大目玉を食らって終わり、くらいに考えているのだろうが……城外にいる今となっては、そんな風にはいかない。
父子ともども、明日どころか一分先の未来ですら危うい身なのだ。
一歩外に出るだけでも細心の注意を払わなければ。いつものイタズラの延長では済まされない。
あまりにも危機感が無さすぎる息子を怒鳴りつけようとして、大きく開けた口から出たのは、叱責の言葉ではなかった。
「……逃げろ、ウゲン!!」
てっきり怒られると思って構えていたら、緊迫した父の叫びを受け、きょとんとしている息子の背後に、二つの影が迫る。
その影が発する大きな怒気と敵意を組み取ったサゲンは、すぐさま息子のもとへ駈けつけようとしたのだが、遅かった。
少年は背後に立った一人にむんずと首根っこを掴まれ、乱暴に持ち上げられてしまう。
「う、うわあっ」
突然体が宙に浮き、焦ってジタバタと暴れる少年だが、
「静かにしろ、このクソガキ!!!」
鈍く光る短刀を鼻先に突きつけられ、息を飲んで動きを止めた。
「ウゲンっ……」
我が子の名を呼んで駆け寄ろうとする父に対し、凶悪な賊は無情にも少年の咽喉元へ短刀の切っ先を宛てて見せた。
「テメエも動くんじゃねえよ、ウシ野郎」
乱暴に命じてくる言葉に、今は従う他ない。
サゲンが足を止めると、今度は地面に膝をつけと言われ、それにも大人しく従った。
険しい表情でこちらを睨んでくる二人の顔には、見覚えがある。さっきこの手で殴り倒した冒険者達だ。
迂闊だった……やはり息の根を止めておくべきだったか。
そうは思うがサゲンは、今のサゲンはもう、むやみやたらに命を奪うことはできなくなっている。
そんな自分のどうでもいい都合で、中途半端に戦闘を終わらせてしまったばかりに、結果的に息子を危機へ追いこんでしまった。
後悔と不甲斐なさで項垂れるサゲンを見て、ウゲンを引っ掴んでいる男は忌々しげに地面へ向かって唾を吐いた。
「へっ、バケモノでも自分の子供の命は惜しいってか?笑わせるぜ牛頭が」
「まあ、いいじゃねえか。くだらねぇ情のおかげで、これからたっぷり借りを返せるんだからよ」
相棒の男がニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべながら、得物の弩を構え、ひざまずくサゲンへ向けた。
「さ~~て、まずは両脚を使えなくしてやるかあ。じわじわ刻んで挽き肉にしてやっから、覚悟しな」
そう上手くはいかないぞと胸の内で呟き、サゲンは両腿に力を込める。
見たところ、命中精度は高そうだが、それほど威力のある造りでもなさそうだ。
軽量化された矢と複雑な発射装置からして、狙った的へ正確に跳んでいくかわりに、殺傷力は低いタイプと見た。
当たっても骨にまでは達しないだろうから、矢を受けたら倒れて動けなくなったふりをすればいい。
惨めな獲物を痛めつけようとして二人が近づいてきたところを反撃すれば、たぶん何とかなる。
もっとも、低威力といえどまともに矢が刺さった脚で二人を相手にすれば、恐らく相討ちは必至。運良く命を取り留めたところで、もはや戦士としての再起不能は免れないだろうが……それでもいい。
少しでも隙を作り、息子を逃がすことが出来れば。
ウゲンさえ生き残ってくれれば、充分だ。思い残すことはない。何も、ない。
覚悟を決め、攻撃を受けるのを静かに待っていると、父親の態度から何かを感じ取ったらしいウゲンが声をあげた。
「あ、あの!!これ……」
不自由な身を捩って、上着の裏のポケットを探り、何やら光る物を取り出す。
「これ、あげますから!!父ちゃんに酷いことしないでください!!」
ウゲンの手の中で、キラキラと輝きを放つのは、スミレの花を象った銀細工のブローチだ。
花弁には紫水晶、葉の部分には上等の翡翠が嵌め込まれた逸品で、ウゲンの母……サゲンの亡き妻が大切にしていた物だ。
「ウゲン、それは―――!!」
着の身着のまま身一つで城から逃げ出した時に、持ち出すことの出来た唯一の品。ただ一つ、手元に残った妻の形見。
ウゲンにとっても無二の宝物だからこそ肌身離さず持ち歩いていたのだろうが、ためらわず賊に向かって差し出す。
母の思い出が詰まった品を渡したくはないのだが、父の命には代えられない。
「ほーっ。こりゃあ、そこそこの値打ちモンじゃねえか」
弩を持っているほうの男が、ウゲンの手からひょいとブローチを取り上げる。
汚い手で触るな、と怒鳴りそうになるのを必死で抑えるサゲンのことなどお構いなしに、男は矯めつ眇めつブローチを値踏みする。
「これなら、今晩の酒代くらいにはなるな。有り難くもらっとくぜぃ」
相棒の言葉を聞き、街に戻ったら味わえる酒の味を思って機嫌を良くしたか、ウゲンを捕らえている男がニタリと笑みを濃くする。
「俺達と交渉しようたぁ、なかなか肝の据わってるガキじゃねえか。
コイツに免じて、挽き肉にするのはやめてやる……八つ裂きくらいで勘弁してやらぁ」
サゲンにとってはだいたい予想していた通りの下衆っぷりだが、純真なウゲンはひどくショックを受けたようだ。
「そ、そんな……」
絶望した少年の口から漏れる弱弱しい呟きは、外道どもの嗜虐心を刺激したらしい。二人揃って、大口を開けて笑い出す。
せいぜい、今の内に嗤っておくがいい……耳障りな哄笑が渦を巻いて辺りに響く中、サゲンは内心で密かに殺意を磨く。
その調子で高笑いしながら、俺のことも痛めつけるといい。
必ずや機会を見つけて反撃に転じ、ズタズタに引き裂いてやる……
例えこの身が引き裂かれ、粉々に砕かれようとも、同じだけお前らを苦しめて、息子を脅し嗤ったことを後悔させてやる……!!