朝霧の惨劇②
「もう気づいてると思うけど、このまま進んでもドラゴンなんかいない」
ふと、霧の流れが変わった。
少し風が強くなったのか、辺りの冷気がいっそう低くなったと思ったら、ビヨークの横に奇妙な影が現れた。
彼の膝ほどの丈しかない、灰色の塊。
よく見ればそれは、襤褸を纏って黒眼鏡をかけた小柄な老人だ。一体いつからそこに居たのか……
「みんな、気をつけろ!!」
冷えきって湿った空気の中に、危険な臭いを嗅ぎ取った盗賊が叫んだ。
「そいつ……人間じゃないぞ!!」
警告しながら武器を構えようとした盗賊の足下に、何かが巻きついた。
ギョッとして下を確かめるより早く、盗賊は強い力で引っ張られて倒れ、濃い霧の中へ引きずり込まれていった。
「どうし―――……キャアアッ」
すぐ傍にいた白魔導士も、あっという間に絡め取られ、短い悲鳴を残して森の奥へ消えてしまう。
何が起こったかわからず、呆気にとられるリーダーに、ビヨークは相変わらず嫌な笑みを向けている。
「お前らとはここでお別れだけど、俺、魔王城へ行く―――……誰より強くなって、魔王を倒すよ」
一体こいつは、何を言っているんだろう?俺は今まで、こいつの何を知っていたんだろう……
「この、裏切り者ぉ!!」
ショックのあまり反応できないリーダーの代わりに、素早く剣を抜いた女剣士がビヨークに斬りかかろうとするも、敵の方が早かった。
盗賊と白魔導士を連れ去った触手のようなモノが、女剣士の足首にも巻きつく。
「ぐっ……!!」
焦ることなく剣を振りおろして薙ぎ払ったものの、別の方向から現れた触手に利き手を捕えられた。
ギリギリと強い力で締め上げられて、大切な剣を取り落としてしまう。
「こんな……くそっ!!」
悪態をつく剣士の体に、二本、三本と触手が伸びてきて、四肢を押さえ胴体にも巻きついた。
為すすべもなく女剣士も霧の中へ飲み込まれ、いよいよ触手たちはリーダーに這い寄っていく。
ここまで、か―――……
ほんのわずかな時間で、仲間も友人も失った。
自分がちゃんと友に向き合わなかったばかりに、そして仲間たちの不満をわかっていながら見ない振りをしてきたから……その報いだ。
怒りより、恐怖より、ただ悲しくて、リーダーはビヨークを見る。
闇夜のように暗い目をした、これから孤独になってしまう友に、かけるべき言葉は一つ。
「ビヨーク……」
ざわざわと音を立てて伸びてきた無数の触手が、リーダーの体に巻きつき、幾重にも重なり合いながら厳重に縛り上げる。
「ごめんな」
ごく短い謝罪の言葉は、閉ざしていたはずのビヨークの心に深く突き刺さった。
「ト……トーゴ!!」
名前を呼んだ時にはもう遅く、リーダーの姿は消えていた。
分厚い霧のカーテンに覆われ、重苦しい沈黙だけが残った森の中で、ビヨークの体は小刻みに震え出す。
罪悪感と後悔に苛まれる哀れな弓使いを気遣うことなく、隣にいる老人はニタニタと満足げに笑っている。
「いやあ、よくやったぞ。お前のおかげでいい“養分”が得られた。
……おお、見ろ。こやつらも喜んどる」
老人の言葉を裏付けるように、霧の向こうでいくつもの長い影が蠢いた。
まるで大蛇の群れが踊り狂っているような、おぞましい光景だ。
……俺の仲間たちは、こんなものの餌食に……
「さて、お前の望みは“どんな的にも当たる弓矢”だったな。魔王も一撃で倒せるような武器……」
自分が犯した罪の大きさを思い知り恐れ慄くビヨークと正反対に、老人の機嫌は良い。
その楽しそうな表情を見て、ビヨークの精神は限界を迎えた。
「そんな物はいらない!!」
たまらず叫んで、老人へ掴みかかる。
「取り引きは無しだ!!弓も矢もいらないから、仲間を返してくれ!!」
「何だと?」
「俺は……俺は、どうかしてたんだ。甘い言葉につられて……こんな非道いこと」
老人が機嫌を損ね、不快そうに眉を寄せている一方、ビヨークはどんどん正気に戻っていく。
この胡散臭い老人に出会ったのは、一週間ほど前のこと。
苦闘の末に追い詰めた大型モンスターを、自分の失敗で取り逃がしてしまい、リーダー以外のメンバーに随分と責められて落ち込んでいたビヨークは、ひとり安酒場で酒を呷っていた。
ヤケ酒でしたたかに悪酔いしたら、余計に自分が惨めに思えて、フラフラと店を出たところで声をかけられた。
細かい会話は覚えていないが、何か欲しい物はないかと聞かれ、冗談交じりに命中率の高い弓矢をくれと言ったら、不思議な紋様が彫られた黒い弓を渡された。
これを使えばお前は太陽の神みたいな弓の名手になれると吹き込まれ、半信半疑ながら翌日の狩りに使ってみると、ビックリするほどよく当たる。
そこそこ強い魔物にトドメを刺したりして、仲間達からも腕を上げたと称賛された。
すっかり気を良くしたビヨークだが、三日もしないうちに弓は壊れてしまった。
また元の下手な弓使いに戻ってしまい、意気消沈していると、再び老人が現れた。
情けないと思いつつも、放った矢がまっすぐ獲物へ飛んでいく感覚が忘れられず、今度はもっと長持ちする物をくれと頼むビヨークに、老人はある提案を持ちかけた。
「こんな弓矢より、もっと凄い物がある。冒険者なら誰でも欲しがるような、この世に二つとない神品だ。
それさえあれば、お前一人の力で魔王を倒すことすら夢じゃないかもしれん」
一も二もなく、ビヨークはこれに飛びついた。金ならあるだけ払う、と縋るビヨークに、金銭など欲しくはないと老人は答えた。
「お前に一つ、やってほしいことがある。なあに、簡単なことだ。
ただお前の仲間達を、ある場所まで連れて来てくれればいい……それだけだ」
そう言って黄色い歯を見せながらニタリと笑う老人を見て、さすがにこれは罠に違いないと確信した。
行けば、仲間達はタダでは済まないと。
わかっていたのに、俺は……
「お前は、仲間を売った」
悔しくて情けなくて、ぐじゃぐじゃに顔を歪ませ涙を零すビヨークの心を、老人は容赦なく抉ってくる。
「酷い奴だ。どうしようもない奴だ。お前なんかを旅の道連れに選んで、あの戦士も気の毒になぁ……
ああ、もう気づいているだろうが、どんな的も射抜く奇跡の弓なんぞ、わしは持ってない」
もう、騙された自覚はあったから、驚きはしない。
両方の足首に何かが巻きついてくる感触があったが今更、下を見て確認する気も起きなかった。
「仲間を返してはやれんが、せめて同じ所に送ってやるわい。
今度はせいぜい、仲良くやるといい……土の下でな」
足だけではなく、腕に、胴に、触手が絡みつく。
ビヨークはカッと見開いた目で老人を見据えながら、霧の向こうへ引き摺られていった。
「ふっ……くくく」
老人の他に誰も居なくなり、静けさの戻った森の中で、低く不気味な笑い声が響く。
その足下には、獲物を狩ったばかりの触手たちが這い回っているが、老人に襲いかかったりはしない。
従うべき創造主が誰であるか、理解しているのだ。
ざわざわ、ずるずると音を立てて蠢く怪物たちを、老人は満足げに見守る。
この調子なら、あと五~六人ほど食らわせてやれば、次の形態へと進化を遂げることだろう。
ここまで成長させるまでには並々ならぬ苦労があったが、まだまだこれから。
何としても完全無欠の攻撃型植物へ育て上げてみせる。
魔王城内部でもお目にかかれないような、他に類のない至高の魔性植物を誕生させるのだ。
その為にはまず多くの栄養摂取が必要だが、問題はない。
人間など星の数ほどいるし、釣り上げるのは至極簡単なこと。
今回のように弱いところをちょっとつついてやれば、問題なく引っ掛けられる。
ふと、辺りが少し明るくなっていることに気づく。太陽の位置が高くなり、せっかくの心地良い霧が薄くなってきたようだ。
「ふん、忌々しい」
生い茂る木々の隙間から差し込んでくる光に毒づいて、老人は歩き出す。
胸に抱く野望を実現するために、まずは獲物だ。
大事な作品の養分として相応しい、腕の立つ冒険者を探し出し、与えてやらなくては。
さっきまでここに居たパーティーの足跡を辿るようにして、老人は進む。
その先には、未だ朝靄の中に眠るメイウォークの街があった。