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崖っぷち受験生サトル、どうやら転生したらしい②

 溺れている犬とは似ても似つかないが、居ても立ってもいられず、サトルは考えるより先に行動していた。教科書と参考書の詰まった重い鞄を捨て、制服の上着も脱ぎ捨てる。


 余計なものを取り払ってしまうと、信じられないくらい体が軽くなった。

 さっと足をあげて欄干を乗り越えると、大きく息を吸い、慎重に犬との距離を測って、最良のタイミングで飛び込んだ。


 うまく着水できたが流れは早く、水も冷たかったが、負けじと全力で水を掻き分ける。

 泳ぎが得意だってこと、ずっと忘れてた。


 ほどなくサトルの腕は犬に触れた。胴体を掴んで引き寄せると、不幸中の幸いといおうか、犬はもうもがく気力もなく大人しくサトルの腕に収まってくれる。


 犬を抱いているために片腕しか使えない厳しい状況だが、サトルは気力と体力を振り絞って岸を目指して泳ぐ。

 浸っている水の冷たさと、生命の危機を察して溢れ出てくるアドレナリンのおかげで、恐怖はなく頭は冴え渡っていた。


 ―――ようし、岸に上がったら、今日はもう塾なんて行かない。まっすぐ家に帰ってシャワー浴びて着替えて、寝るまで漫画読んだりゲームしてやる―――


 ともすれば流れに負けてしまいそうになる自分を励ますためにそんなことを考えていると、記憶の底に沈んでいた様々な思い出が蘇ってきた。


 タロを飼っていたお祖父ちゃんのこと、お祖父ちゃんが営んでいた小さな洋食屋さんで母の誕生日パーティーをした日のことが、まるで昨日のことのように鮮明に頭の中を駈け巡る。


 やっと十歳になったばかりだったサトルは、お祖父ちゃんに手伝ってもらいながら、大きなケーキを焼いた。

 卵を泡立てたり、飾りつけのクリームを絞る手つきを見て、お祖父ちゃんはとっても上手だと誉めてくれた。

 大きくなったら、いいシェフになれるよって、言ってくれたっけ。


 サトル特製のケーキは、ちょっと粉っぽいしクリームは甘すぎたけど、両親はこんな美味しいケーキ食べたことないと言って、完食してしまった。特に母は、涙目になって感動していたものだ。


 ―――またケーキを焼いたら、二人とも笑顔になってくれるかな―――


 夢想しつつも、そんな甘い結果にはならないだろうと、わかっている。

 お菓子作りしている暇があったら勉強しろと言われるに決まってる。

 こんな無駄なことして!とせっかく焼いたケーキだって食べてもらえないだろう。


 タロもお祖父ちゃんもとうの昔に亡くなったから、今となってはサトルが料理したところで喜んでくれる人なんて、この世には一人もいない。


 だけど、構うもんか。もう塾も授業も有名大学も、クソ食らえだ。


 出席日数はクリアしてるし単位もギリギリ足りているから卒業はできるだろう。

 でも志望校は変える。県内で一つだけある調理師専門学校へ行く。

 親は怒り狂って学費は出さないと言うだろうけど、貯金が少しあるしアルバイトして何とかしよう。


 塾はもう今日にでも辞めてやる。かわりに明日から、自分の弁当と朝・夜の食事を作ろう。

 案外、家事が減って母さんは喜ぶかも……


 やっと、自分のやりたいことが見つかった。進むべき道がわかった。


 コンクリートの河岸の端を掴んだ時、サトルの胸は希望に溢れていた。

 まずは抱えている犬を、岸に近づけてやる。犬は前足をバタバタさせて這い上がると、濡れそぼった体をぶるぶるっと震わせた。


 ぺしゃんこだった毛並みが、ぶわっと二倍くらいに膨らんだのを見て、可笑しいやら安心したやら。

 緊張が解けたサトルの体にはもう、自分の体を引き揚げるほどの力は残っていなかった。


「タロ……」


 助けた犬の名前を呼んで、サトルの手が岸から離れる。つい数秒前まで力強く泳いでいたのが嘘のように、サトルの体はあっさりと流れに飲まれた。


 なすすべもなく、水流に揉まれて浮いたり沈んだりを繰り返すサトルの目に、不安げにくるくる回っている犬と、やっと追いついた女の子の姿が映った。

 サトルが助けた犬を、女の子がひしと抱きしめる。


 ―――僕の人生、D判定だって―――


 鼻に口に、容赦なく入り込んでくる水に息を奪われながらも、サトルは幸福感に包まれていた。


 ―――でも今はちょっと、カッコいいよな―――


 口元に安らかな微笑みを浮かべながらも、とうとう頭まで水中へ没し、サトルの意識は途切れた。




 ***


 カサコソと何かが動きまわる音で、サトルは目を覚ました。


 まだ太陽が高い位置にあるらしく辺りは明るいが、視界が滲んでいてよく見えない。

 まばたきを繰り返していると、またあの音が聞こえた。耳元に何かいるらしい。


 タロかな?


 川から助けた小型犬と、祖父の家で飼っていた老犬を同時に思い浮かべながら首を動かす。視界に現れたのは、どちらでもなかった。


 ピンと尖った耳の、茶色いリスだ。

 好奇心の強そうな、黒々とした大きな目で、サトルを見つめている。


 近くの公園や遠足で行った林道なんかで見かけたことはあるが、こんなに近くで見るのは初めてだ。それにしても、リスって川辺にいるものだっけ?


 川、という単語を思い出したことで、ぼうっとしていたサトルの意識は少し明瞭さを取り戻した。

 犬を助けようと川に飛び込んだところまでは覚えている。目的は果たしたものの、自分は沈んでしまったことも。


 もう死ぬんだと思ったけど、助かったのか?流れているうちにどこか川岸に打ち上げられたのか。

 だとしたら、すごい幸運ラッキーだ。


 地面に手をついて、ゆっくりと体を起こす。軽く痺れたような痛みが全身に残っているが、我慢できないほどじゃない。

 しばらく座っていると、徐々に全身の感覚が戻ってきた。


 手の平には柔らかい草が触れていて、足下には小川がキラキラと輝きながら流れている。

 さっき決死のダイブをした人工河川とはまるで違う、自然の中を流れる穏やかな川だ。


 自然……


 サトルは立ち上がると、呆然と辺りを見渡す。

 燦々と降り注ぐ陽光を受けて煌めく小川、岸辺を縁取る丈の短い草むら、そして生い茂る緑の木々。

 木漏れ日が降り注ぎ、木々の間を爽やかな風が吹き抜ける、気持ちのいい森林だ。


 あの人工的な川の先に、こんな場所があるなんて信じられない。一体どこまで流されてしまったんだろう。


 ひょっとして、ここは天国?自分はもう死んじゃってるんじゃないだろうか……



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