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崖っぷち受験生サトル、どうやら転生したらしい①

 ***


 午前8時から始まり午後4時に至るまで、およそ8時間にも及ぶ憂鬱な授業が終わり、やっと学校から解放されたというのに、校門を出た壇ノ浦サトルの足取りは重い。


 今日は水曜日、通っている進学塾に行かねばならない日なのだ。大学受験まっただなか、17歳の高校三年生が落ち込む理由としては、まっとうだろう。


 他に月曜日と土曜日の午後も行っているが、週の真ん中は特にきつい。

 夜の7時半までみっちりと絞られて、明日はまた8時から学校で勉強しなきゃならないなんて、拷問といっても過言ではないのでは?


 あなたのためなのよ、と母はいつも言う。


 今が辛くても、大学に行けば余裕ができるのだから、遊ぶのはそれからにしなさい。

 せっかく勉強できるんだから、ここで頑張らないと、あとで後悔するのはあなたなんですからね。


 この大事な時期に努力しないで適当に進路を決めちゃったばかりに、将来を棒に振った人は沢山いるの。

 あなたにそうなってほしくならないからお母さんは厳しいことを言ってるのよ……


 母の言うことはたぶん、真理なんだろう。


 このご時世、いい会社へ入るにはいい大学へ行くしかない。

 高校三年生にもなれば、ちょっとは世の中の仕組みも理解できている。

 それに、人間はぜんぜん平等じゃなくって、努力だけじゃどうにもならない壁がある、っていうことも知ってる。


 コンクリートで整備された大きな人工河川に架かっている橋の、ちょうど真ん中あたりで、サトルは足を止めた。

 ここまで来れば塾まであと5分くらいだが、今日はなかなか先に進む気になれない。肩に掛けるタイプのスクールバッグを探ると、中から1枚の紙を取り出した。


 先週受けた模擬試験の答案。第一志望にしている有名私立大学の合格率判定は、D。

 ただでさえ憂鬱な塾へ、更に行きづらくなっている原因はこれだ。


 一応、判定の段階はFまであるが、塾が面倒を見てくれるのはBまで。それ以下はお話にならない。

 もともと成績の芳しくないサトルにはあまり優しくなかった講師たちは、模試の結果が出てからは志望大学のレベルを下げるか、いっそ塾を辞めたらどうかとプレッシャーをかけてくるようになった。


 サトルが住んでいるのは片田舎の地方都市とはいえ、市内でも有名な進学塾だから、経営陣にとって進学率は死活問題だ。自分のような出来の悪い生徒は足手まといでしかない。

 志望大学のランクを落とすというのが一番現実的だろうが、いっそ塾をやめられたらなあ、というのが本音だ。


 放課後が自由になれば、寝るまでゲームしたり自転車で遠出したりして、楽しい時間が過ごせるのに。

 勉強漬けの日々から解放され、漫画喫茶で気になっているコミックを読破したり、休日は近くの山まで出かけてロープウェイに乗るのを想像して、楽しい気分になれたのは、ほんの束の間だった。


 そんなこと、両親が許してくれるはずもない。


 塾をやめさせてほしいなんて言ったら、母はきっと泣き喚き、鬼のような形相で責め立ててくるに違いない。

 育て方を間違えたとかこんな子なら産むんじゃなかったとか、サトルの心を抉るセリフを吐き散らしながら。


 父はその後ろで、つまらなそうな顔をしているだけだろう。

 いつも母の影に隠れて無言でいるような人だから本心はわからないが、仕事一筋の人だ。たぶん母にもサトルにもそんなに興味ないだろう。


 ―――いつからこんな風になっちゃったんだろ―――


 D判定の答案用紙を見つめながら、サトルは考える。

 昔は、仲のいい家族だった。


 本好きで大人しい母はよく図書館へつれていってくれたし、地域主催のクラフトフェアなんかも一緒に手伝ったものだ。


 父は釣りと天体観測が趣味だったから、キャンプも兼ねた渓流釣りによく行った。

 昼は魚釣りと虫採りを楽しんで、夜は望遠鏡で空を見た。父が教えてくれる星の起源や宇宙の話を聞くの、大好きだったのに。


 県内で唯一の私立中学に、サトルが合格した辺りから、家族の在り方は急激に変わっていった。


 よく本を読み理系も得意だったサトルは小学生の頃は学年トップクラスの成績で、せっかくだから試しに受けてみたらと担任にすすめられたのが切っ掛けだ。


 特に受験対策などしていなかったし受かるとも思っていなかったのだが、みごと難関を突破して合格。

 思いがけない出来事に、両親は大喜びで、二人が嬉しそうだからサトルも嬉しかった。

 入学して、レベルの高い高校へ進学するために組まれた過酷な授業が始まるまでは。


 繰り返されるテスト、勉強漬けの毎日。思ったように成績は伸びず、小学校の頃は優等生だったとしても所詮は井の中の蛙でしかなかったと思い知った。


 塾に通わせても家庭教師を雇っても、試験のたびにどんどん順位を落としていくサトルに母親は苛立って怒鳴ることが多くなり、反して父の口数は少なくなっていく一方だった。


 いま通っている私立校に、ギリギリの点数で合格したあとも、同じことを繰り返しただけ。

 授業についていくのがやっとで、テスト後の順位はいつも下から数えた方が早い。


 なんだ、結局、自分のせいじゃないか。

 中学受験なんて受けなければ良かったんだ、身の程知らずが自分で自分を追い込んだ、それだけの話なんだ。


 D判定の答案用紙をぼうっと見つめながら、いっそ今日は塾をサボってどこかへ遊びに行こうかと考えてみる。

 でもどこに行ったらいいかわからないし、バレた後のことを考えたら、遊んだところで楽しめるとも思えなかった。


 つまんない奴だなあ、僕は。


 腕時計を確かめれば、塾の開講時間が迫っていた。ここで絶望してても仕方ない、答案用紙を鞄に仕舞おうとした時、


「タローーーーッ!!」


 少女の悲鳴が、鼓膜を震わせた。

 ハッと顔をあげると、上流のほうから、コンクリートの河岸を駆けてくる女の子が見えた。


 小学校の高学年くらいだろう、必死の形相で走る少女の目線を追うと、川の真ん中くらいに不穏な水飛沫が立っているのが見えた。

 その中心にいるものを確かめて、サトルはアッと声をあげる。


 犬だ。薄茶色の、たぶんポメラニアン。

 前足を懸命に動かしているが、沈まないでいるのがやっとで、流れに逆らえずもがいている。


「タロ、タローーー」


 散歩中に落ちてしまったんだろう。少女が繰り返し叫ぶその名前が、サトルの記憶中枢を刺激する。

 タロというのは、昔、母方の祖父が飼っていた犬と同じ名前だ。


 サトルが生まれるよりも前から飼っていたから、物心ついた頃にはもう老犬だった。

 セントバーナードが混じった大型の雑種で、垂れ目が特徴的な、優しくて賢い犬だった。


 サトルが頭を撫でると、太い尻尾をばさばさと振って、温かい舌で顔を舐めてくれたものだ。


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