一難去ってまた一難!
そこまで思い出したところで、コルルは足を止めた。
もはや第二の故郷とも呼べる、慣れ親しんだ山に生える草や土の匂いを嗅ぎながら、しばしロンググラス城で過ごした日々の記憶に浸ってみる。
フェレス公が耳にしていた評判通り、城主兄妹は素晴らしい人達だった。
兄のジェレニアスは少し規律に厳しいところはあったが生真面目で慈悲深く、フェレス公の事情を汲んで城門を開けてくれたばかりか、寝る場所も食べる物も充分に分け与えてくれた。
そして妹アデライラはまさしく夜空の星も霞むような美しい女性で、聡明で誰に対しても心優しく、特にコルルのような子供達を可愛がった。
辛い旅をしてきた幼子達を少しでも慰めようと、城の書庫から持ち出して来た本を読んでくれたり、楽しい歌を口ずさんだりする彼女の少し低くて涼やかな声を、今でもありありと思い出せる。
上に立つ二人がそんな風だから、城で働く人達も随分と良くしてくれた。
城の中では暴力を振るわれたことも、暴言を浴びせられることも、一切なかった。
きっと共に生きる道はあると、若き城主兄妹はフェレス公に語っていたものだ。
姿かたちは変わっても、心まで侵蝕されている訳ではない。時間はかかっても皆で協力して、平和な暮らしを取り戻せるはずだ、そうじゃなきゃおかしいと。
……それが、世間知らずの若者が夢見る理想論に過ぎなかったと思い知らされるのに、そう長い時間はかからなかった。
束の間の穏やかな日々は、ある暗い夜に唐突に終わりを告げ、夢も理想も無惨に散らされた……
その恐ろしい一晩が明けた後、哀れな『忌み人』達はヒトを憎む『魔族』となり、歴史あるロンググラス城は魔王城として改築され生まれ変わった。
そこに君臨する最初の王としてフェレス公が選ばれたのに、異論を唱える者は一人として居なかった。
かつての城主ジェレニアスとて迷いなく膝を屈して城を明け渡し、以降は誰より篤い忠誠心をもって親子二代に渡って仕えていたものだが、現在魔王を名乗っているのが彼だというのだから感慨深い。
300年の時を経て、城は本来の主の手に戻ったということだ。
もっとも、どうやら随分と人格は変わってしまったようだし、いつも傍で支えていた愛情深い妹は、とうの昔にいなくなっているが。
……先だってノブ達に話した時には、城を出た理由については戦争の後始末に辟易したからだと説明したが、実のところ一番大きな要因は彼女の死の報せだった。
顔見知った親しい者達を看取り、年端もいかない若者を戦場へ送り出す日々にいい加減嫌気が差していた頃、アデライラの訃報が飛び込んできて、とうとうすべてを投げて逃げ出したのだ。
幸い、止める者も追ってくる者もなかった。
あの戦況下ではコルルごとき下層民が脱走したところで、見咎められることはなかった。
巷では聖女と呼ばれ、神格化されているアデライラは、コルルにとっても心の支えだったが、別に女神のように信奉していたわけではない。
優しく美しい、一人の女性として敬愛していた。
コルルとは身分に天地ほどの差はあれど、二代目魔王エンリミオとて、同じような気持ちだったに違いない。
彼人がアデライラに対して抱いていた想いがどれほど強く深いものであったかなど、自分には測り知れないくらいだ。
だからこそアデライラの死後、さっさと引退し、以降は表舞台に立つことなく城の奥に引き籠もってしまったのだ。
病に罹った時も、懸命な治療と看護の甲斐無くあっさり亡くなったそうだが、もう治そうという気力がなかったのだろう。
彼女のいない世界になど、いっさい未練はなかったはず。
かけがえのない友、家族、主君。
かつて愛した人々の大半を喪い、ひとり玉座に座っている現魔王ジェレニアスの孤独を思うと、心臓がキリキリと締めつけられる。
今となってはあの方も、長く生き過ぎた……誇り高く慈悲深かったあの清らかな魂が、まだ一欠片でも残っているうちに、誰かが引導を渡してくれたら、と強く願う。
ノブ達がその“誰か”になるかどうかはわからないが、できることならむざむざと城で全滅したりしませんように。
魔王はおろか上級魔族にすら歯が立たず、無様に逃げ帰ったという情けない内容でもいいから、無事に帰ってウゲンに土産話を聞かせてやってほしい。
「死ぬんじゃないよ、冒険者さん達……」
* * *
沈み始めた夕日を見つめながら、老婆が祈りの言葉を唱えた頃、ノブ一行は下山しメイウォーク市に戻っていた。
厳しい戦闘こそなかったものの、非常に濃い一日を過ごしたメンバー達は、慣れ親しんだ街に着くなり、どっと疲労に襲われた。
特に最年長のヴェンガルは硬い岩盤の上で長時間じっとしていたのが効いたらしく、コキコキと関節を鳴らしながら肩を回す。
「は~~、ずっと座って喋ってたもんだから凝っちまったな。サウナでも行くか」
「イイッすね、俺付き合いますよ。ノブどうする?」
テリーに声をかけられて、ノブはすぐに頷いた。
充実した冒険ライフのためには疲労を蓄積させないよう、体のメンテナンスも重要だ。
「行くよ、確か割引券持ってるし……っと、その前に夕飯だな。今日は宿の食堂じゃなくて、どっきりロシナンテ!」
やった!!とミアが両手を挙げて喜び、次いでアキナに顔を向ける。
「私達もご飯食べたらおフロ行きません?ホテルが経営してる女性専用のスパ、あるじゃないですか」
「ああ、ジャグジーとかアロマ風呂とかあるとこね。たまにはいいわね」
女性陣も今日は体に磨きをかけてゆっくりするつもりのようだ。
うっかり聞こえてしまったが、異性の風呂事情について深く考えるのよそう。
それにしてもスパとスーパー銭湯は、何が違うんだろうか……などと考えながらしばらく歩いていると、街の様子が少しおかしいのに気づいた。
中心部へ近づくにつれ、どんどん人が増えていく。
いつもこの時間は人通りは多くとも、帰宅したり飲食店へ繰り出したりと、みんな目的は様々な為、人の流れは留まることなく、こんな風に道路に密集することはないのだが……?
特に人だかりが凄くなっている所で、ノブはいったん足を止める。
何かイベントをやっている風でもなさそうだが、集まっている人々、若者が多いようだが、彼らは口々に「やばーい」「ラッキーだったね~」「明日も楽しみ~」などとはしゃいで興奮している。
一体これは、どうしたことだろう。不思議に思っていると、
「あ、ノブさ~~ん」
人ごみの中から、名前を呼ぶ者がいた。声のしたほうを見ると、いつぞや依頼を受けて食玩を組み立ててあげたおじさんが走ってきた。
「いや~~、この前はどうも!おかげで息子も喜んでます」
「いえいえ、こちらも干し芋ごちそうさまでした」
丸くて人の好い笑顔が懐かしい。
まさにベストタイミングでそこそこの知り合いが現れてくれたものだ、ご都合主義べんりぃ~~。と、それは置いといて。
さっそく周囲を見回しながら、訊ねてみる。
「あの、この辺すごい賑やかですけど、何かあったんですか?今日べつにお祭りの日とかじゃないですよね」
「ああ、これね~~」
おじさんもキョロキョロと目を動かし、そして答えてくれた。
「俺もよく知らないんだけど、有名な冒険者パーティーが街に来てね。さっきまでサイン会してたみたいですよ」
「サイン会?へえ~~、そんな有名な人達が?」
「うん、確か勇者ウィルフリードのパーティーとかいったかな?
今日はもう引き揚げちゃったけど、また明日やるとか聞きましたよ」
まあ俺はよく知らないんだけどねえ……と呟くおじさんの声は、ひどく遠くから聞こえた。
街にはこんなにたくさん人がいて、騒々しいくらい賑やかで楽しげだというのに、それも窓から覗く遠い景色のように見える……自分の周りだけ世界から置き去りにされ、時間が止まってしまったような、そんな錯覚に襲われる。いや……
止まってなんかいない。時間は進んでいる。この世界は休まず動いている。そう……
僕達は忘れていた。
僕らの冒険がどんどん次のステップを踏み、順調にステージアップしていくように、彼らの旅もまた、着実に進んでいるということを。
第八話/完